うなぎのせいろ蒸し
辺境伯領庁、応接用の一室。
磨き込まれた木製の扉が控えめに叩かれ、案内係に続いて一人の女性が姿を見せた。
飾り気のない灰色の視察官衣に身を包み、髪は寸分の乱れもなく結い上げられている。両腕には、分厚い書類挟みをしっかりと抱えていた。
「教会本部からまいりました。アイリスと申します。此度の防柵損壊の件、規模と対応の記録を、正式に確認させていただきたく。なかでも、対応された聖女様のお力について、規格外との報告をいただきました」
「規格外、と言いますか、その、大変頼もしい方でして」
「頼もしい、では記録になりません。数値で伺えますか」
ベルナルドが返答に詰まる横で、リタが静かに一歩前へ出た。
「私が担当記録官です。詳細はこちらに」
(ふふっ。ルチア様の凄さを見た時もそのすまし顔でいられますか?)
差し出された分厚い帳面を一目見て、アイリスの眉が、わずかに動いた。
「……」
(成長速度、通常比で約百二十倍!?なに?この数字は?……おかしい。おかしすぎる!)
◆◆◆
――同じ頃。亜人族の街、ボーダーウッズの討伐官詰所にて
「そういや、ダグの奴、最近ちっとも顔を出さねえな」
髭面の討伐官が、杯を回しながら呟いた。
「水源調査とか言って出てったきりだろ。もうひと月は経つんじゃねえか」
「拗ねてるわけでもねえだろうに」
軽い笑いが詰所に広がる。誰も本気で心配してはいない。それでも名前が挙がるということは、少しくらいは気にかけている証拠でもあった。討伐官という仕事は、森の奥に単身で入ることも珍しくない。長く戻らない仲間がいても、いちいち騒ぎ立てないのが、この詰所の流儀だった。
その輪の中に、燃えるような赤髪の女が足を踏み入れてきた。褐色の肌に鱗のような艶が浮かび、背には小さいながらも確かな翼の名残がある。金色の瞳が、炎のように詰所の灯りを映す。竜の血を色濃く引く竜人の討伐官、ヴァルガだ。
「ちっとばかし、様子を見に行ってやるか」
噛みごたえのある干し肉をゴリリと噛み砕きながら、ヴァルガが得物を担ぎ直す。深い森へと続く道を、慣れた様子で進んでいった。
深い森を歩くうちに、ダグらしき足跡を見つけた。その足跡を追ううちに、ヴァルガはフォレステッジ側の防柵近く、開けた訓練場にたどり着く。そして、そこで目にした光景に、思わず足を止めた。
土煙が舞い、木剣同士がぶつかる乾いた音が絶え間なく響いている。三メートルの巨躯が、警備隊の隊員たちを相手に、次々と木剣を打ち払っていた。ダグだった。長期滞在のうちに、いつの間にかカイルの隊と本気の合同訓練を行うほどの間柄になっていたらしい。
「まだまだ!もう一本お願いします!」
汗だくの隊員が、地面に片膝をついたところから、それでもすぐに立ち上がる。
「上等だ、来い!」
ダグが木剣を構え直すと、隊員は雄叫びとともに突っ込んでいった。だが数合と持たず、また地面に転がされる。それでも、立ち上がる。何度弾き返されても、隊員たちの目から闘志の色が消えることはなかった。
「へえ……。人間の兵隊ごっことはねぇ。調査はどうしたんだい?ダグ!」
ヴァルガが低く通る声で言い放つと、ダグがピクリと反応した。
「な、なんだあの女は!」
「また亜人族か!」
ヴァルガに気づいた隊員たちが一斉に身構えた。
「落ち着け!そいつは俺の仲間だ!」
ダグが太い声を張り上げる。
「挨拶が遅れてすまんね。討伐官のヴァルガだ。ダグの様子を見に来ただけなんだが……ずいぶん楽しそうじゃないか」
ヴァルガが両手を軽く挙げると、隊員たちも構えを緩めた。
「せっかく来たんだ、お前も混ざれよ」
ダグが誘うと、ヴァルガはニヤリと口元を吊り上げた。
「望むところだ」
ヴァルガは木剣を借り受けると、並んだ隊員たちへ向き直った。
「手加減はしねえぞ。歯を食いしばりな」
「お願いします!」
模擬戦は、そこからより一層本格的になった。
ダグの一撃を受けた隊員が吹き飛ばされ、地面を転がる。すぐさま別の隊員が横合いから斬りかかるが、ダグはそれすらも太い腕一本で受け流した。
ヴァルガの方も負けてはいない。ヴァルガが踏み込んだ瞬間、訓練場に猛烈な熱気が吹き抜けた。竜の血が昂ぶり、体温が急上昇する。振り下ろされた木剣の一撃は、ダグの重戦車のような圧倒的質量とは違う、触れれば焼かれるような速さと衝撃だった。振るう得物の速さに、隊員たちが呆気なく弾き返される。ゴンッ、バキッと、乾いた衝撃音が何度も響き渡る。木剣が宙を舞い、悲鳴とも歓声ともつかない声が訓練場に飛び交った。
「くそっ、もう一回だ!」
「副隊長の顔に泥を塗るわけにはいかねえ!」
負けても、負けても、隊員たちは剣を拾い直しては前へ出る。何度地面に転がされても、立ち上がる時の目の輝きだけは、少しも曇らない。
ヴァルガと戦っている隊員も同様だった。一人が大きく弾かれて後方へ吹き飛ぶと、すぐさまもう一人が名乗りを上げてヴァルガに向かって踏み込む。だが、ヴァルガの得物はそれすらもあっさりと弾き返した。
「まだまだ!お願いします!」
「その意気だ、来い!」
息が上がり、汗が飛び散り、木剣が何度も宙を舞う。それでも誰一人として、途中で得物を手放そうとはしなかった。
「……悪くねえ根性だ」
誰もが、この街を守るために剣を握っている。誰かに命じられたからではない。自分の足で立ち、自分の意志で前に出ている。ダグもヴァルガも、それをよく知っていた。討伐官として森の奥に立つ自分たちの覚悟と、何も変わらない。だからこそ、手加減はしない。本気でぶつかることこそが、相手への礼儀だと二人とも心得ている。
一通り隊員たちを相手取ったところで、ダグはふとカイルへと向き直った。
「……お前も、来いよ」
「望むところだ」
カイルが木剣を握り直し、静かに間合いを詰める。周囲の隊員たちが、疲れた体を起こしてまで、二人の一騎打ちに目を凝らした。
最初の一撃を、カイルは危なげなく受け流す。二撃目、三撃目と、木剣のぶつかる音が矢継ぎ早に響いた。ダグの太い一撃を真正面から受けきり、そのまま体重を乗せて押し返す。巨躯を相手にたじろがないその踏み込みに、ダグの目がわずかに見開かれた。
息を切らしながらも、カイルは一歩も引かない。何合も打ち合ったのち、ようやくダグの一撃がカイルの木剣を弾き飛ばした。だが、そこまでにかかった時間は、他の誰と打ち合った時よりも、明らかに長かった。
「……参った」
カイルが肩で息をしながら、その場に片膝をつく。
陽が傾く頃には、訓練場のあちこちに隊員たちが転がっていた。仰向けに大の字で寝転ぶ者、地面に膝から崩れ落ちる者、木剣を杖代わりにようやく立っている者。指一本動かすのも億劫だ、と誰の顔にもそう書いてある。
カイル自身も、額から流れる汗を拭う気力すらなく、そのまま地面にどさりと腰を下ろす。
「ふう……いい汗、かいたな……」
誰もが疲れ果てているのに、その顔だけは晴れやかだった。種族は違えど、ダグとヴァルガは自分たちの街を、隊員たちはこの街を、それぞれ守るために剣を振るっている。言葉を交わすよりも先に、実際に得物を交え、倒れるまでやり合ったことで、互いの中にあった得体の知れなさは、いつの間にか消えていた。
そして、それは圧倒的な強さを誇る亜人族のふたりも同じだった。
何十人もの人間を相手に切れ目なく打ち合い続けた負荷は、確実に彼らの肉体を削り取っていた。肩を大きく上下させ、大量の汗を流しながら、ダグとヴァルガもその場にどさりと腰を落とす。
「ふぅ……ふぅ……。おいおい、マジかよ……」
ヴァルガが荒い息を吐き出しながら、自分の両手を握り直す。手元がわずかに震えていた。
「人間どもの相手が、ここまで骨が折れるとは思わなかったぜ……」
「だろ……?」
ダグも膝の上に太い腕を預け、肩で息を叩きつけるように吐き出した。巨躯を揺らしながら、荒々しく笑う。
「何回倒しても起き上がってきやがる。骨を折ってもかまわんくらいの覚悟でかかってきやがった……」
ふたりは視線を交わし、訓練場に倒れ伏す人間たちの姿を改めて見渡した。
「やるな、人間の連中も」
ヴァルガが口元を緩め、どこか晴れやかな顔で呟く。
「……おう。お前もそう思うだろ」
ダグが深く頷き、隣のヴァルガと軽く肩をぶつけ合った。自分たちの頑強な肉体をもへばらせるほど、何度でも立ち上がってきた人間たちの泥臭い執念。討伐官として百戦錬磨のふたりが、その根性をはっきりと認めた瞬間だった。
「メシでも食うか。奢るぜ」
カイルが、座り込んだまま声をかけた。
「乗った」
ダグが間髪入れずに答える。そこに、ヴァルガが釘を刺すように口を挟んだ。
「奢りなら断る理由はねえな。……だがカイルとやら。肉だぞ。巨大な大角鹿の肉を骨ごとガリガリ噛み砕くような奴じゃなきゃ、あたしの胃袋は納得しねえからな」
「そうだなあ」
カイルが思案しながら周りを見渡せば、倒れ伏す隊員たちからも、自分たち三人からも、熱気を含んだ体汗が白い湯気となってモワモワと立ち上っている。夕暮れの空に向かって蒸気があがる様を眺めながら、カイルは可笑しそうに目を細めた。
「……この際だ、うなぎのせいろ蒸しにするか」
「お、いいな。俺もあれは好きだぜ」
「おいおい……なに勝手に盛り上がってんだ。ウナギってのはなんだ?肉なのか?」
「食ってみりゃ分かる」
三人は連れ立って、フォレステッジの街の方角へと歩き出す。
藍色の暖簾をくぐると、いつもの香ばしい匂いが三人を迎えた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥で、店主が黙々と串を焼いていた。老人が湯呑みを傾けながら、ちらりとヴァルガへ視線を向ける。褐色の肌、赤い髪、背に覗く翼の名残。それだけの風貌でも、老人の表情には何の変化もなかった。おやじもまた表情ひとつ変えず、串を焼く手を止めない。
「せいろ蒸しを、俺は二人前、こっちの二人は一人前頼む」
ダグが注文すると、店主は短く「あいよ」とだけ答えた。
「おい、ダグ。さっきの質問に答えな。ウナギってのはなんなんだ?」
「魚だ」
ヴァルガはあからさまに嫌そうな顔を潜めた。
「はあ?魚だと?水の中を泳ぐ小骨だらけのちっちゃい奴か?あたしは肉が食いたいんだよ。それに蒸すだと?固い肉を炭火でガリッと焼いて、顎を鳴らして噛み砕くのが一番だろうが。手間ばかりかけて日和った調理してんじゃねえよ」
魚などという物足りない食材、しかもそれを「蒸す」という軟弱な調理法。肉食の討伐官として、ヴァルガの自尊心が不満を訴える。だがおやじは、ただ手際よく重箱へと盛り付け、せいろの蒸気を立ち上らせていた。
「お待ち」
やがて運ばれてきたのは、湯気の立つ重箱だった。
うなぎのせいろ蒸し——九州は福岡の柳川で生まれ、長年愛されてきた名物料理である。ご飯の上に、黄金色の錦糸卵と鰻の蒲焼を乗せ、お重ごと蒸しあげた料理である。
蓋を持ち上げた瞬間、真っ白な湯気がふわりと立ちのぼり、三人の顔を優しく包み込む。湯気の向こうから、飴色のタレをまとった鰻の身がゆっくりと姿を現した。錦糸卵の淡い黄色が、その上を彩っている。しっとりと柔らかそうな身の照りは、控えめで上品な光沢を放っていた。甘辛いタレの匂いに、蒸された飯の湯気の甘さが重なり合い、鼻先をくすぐる。
「ほう、熱気だけは一人前だね」
ヴァルガは半信半疑のまま、重箱を覗き込む。
ヴァルガが興味深そうに覗き込む。箸をそっと近づけただけで、タレを纏った身が自らの重みに耐えかねるようにふるふると震えた。まるで絹糸のように繊細な柔らかさ。たっぷりとタレを吸い込んだ鰻は、極上の琥珀色に艶めいている。
「せいろで蒸し上げてるからな。重箱ごと蒸すから、冷めにくく最後まで熱々だ。タレをまぶしたご飯の上に鰻をのせ、さらに錦糸卵を敷いて丸ごと蒸しあげる。蒸気が米の一粒一粒までタレの旨味を行き渡らせ、すべてが完璧な一体感を生むのさ」
「そんなにうまいのか」
「食ってみりゃ分かるって言ったろ」
ヴァルガはまだ、半信半疑のまま箸をそっと近づけた。持ち上げようとした瞬間、その手応えに違和感を覚える。固い皮や骨の手応えがない。箸を軽く入れただけで、タレを纏った身が自らの重みに耐えかねるように、はらりと解けた。
「なんだこの柔らかさは……身が崩れるじゃないか」
呆れながらも、ヴァルガはその一片を口へと運んだ。次の瞬間、その金色の瞳が大きく見開かれる。
「……なっ!?」
噛み締める必要すら整っていない。竜人の頑丈なアゴで噛み砕く間もなく、口内の熱によって、ふんわりとした身が瞬く間に解けていく。
「な、なんだこれは……!?噛む前に消える……!?なのに、この濃密な旨味と脂はなんだ!?」
「だろ?飯に染みたタレと、鰻の旨味がたまらんだろ。このふわふわの錦糸卵が、またいいだろ。全体を優しく包み込んでくれる」
カイルが誇らしげに語る横で、ヴァルガは驚愕に染まりながらも、急に負けず嫌いな表情を浮かべた。
「だが、あたしの舌にはちと甘すぎるな。竜人の舌を舐めるなよ」
「じゃあこれを試してみな。ちょっとしたスパイスだ」
言いながらカイルは卓上の木筒をヴァルガの前に持ってきた。固い肉を食うプライドを崩されかけたヴァルガは、中に入っていた緑色の粉末――山椒をどばどばと、重箱全体が緑色に染まるほど大量に振りかけた。
「おいヴァルガ、かけすぎだぞ!」
ダグが止めるのも聞かず、ヴァルガは山椒まみれになったご飯と身を豪快に口へかき込んだ。熱耐性のある喉を鳴らし、ふはっと熱い息を吐きながら、一切冷ますことなく熱々のせいろ蒸しをバックバクと猛烈な勢いでかき込んでいく。
「――ぶはっっ!!なんだこの痺れるような辛みは!!鼻にツンと抜けて、舌が痺れる!!」
山椒特有のピリリとした激しい痺れと爽やかな香りが、濃厚なタレと脂のコクを極限まで引き締め、爆発的な美味さとなって脳を揺さぶった。
「うめえ……!うめえよこれ!痺れる辛さと熱々の米、そしてこの溶ける身が、喉の奥へ滑り落ちていきやがる……!」
「美味いだろ?さて、この店はいつも口が三ついるんだよ。さあ喰うぜ!」
ダグも負けじと箸を伸ばすと同時に、外套の下から二対目の腕がするりと伸び出す。四本の腕と三つの口を持つ本来の姿が、湯気の向こうに現れた。額の口が、興奮を抑えきれない早口でまくし立て始める。
『蒸し上がりの官能的な柔らかさが、焼いただけのものとは次元が違う!舌の上で芳醇な脂とタレが一つにほどけて、米粒と混ざり合う前に喉の奥へ滑り落ちていきやがる!』
「久しぶりに見たなそれ」
『最高の美味さを目の前にして、手加減なんてできるかよ!』
三つ目の口でしゃべりながら四本の腕を神業のように器用に動かし、次々と口へ運び込んでいく。
『この錦糸卵!タレを吸ったご飯と混ざって、これだけでも御馳走だ!そこにふわふわの鰻!これほどの量を食べても重さを感じず、箸を動かす手が止まらん!』
カイルもまた幸せそうな顔で重箱に向き合い、二人の賑やかな食いっぷりに目を細めて笑っていた。
やがて重箱の中身もすっかり空になり、ヴァルガは満足そうにぷはっと息を吐いた。
「……ふう。人間の街の飯も、捨てたもんじゃないねぇ。この緑の痺れる粉も気に入ったぜ。……こういう飯には、酒があるとなお良いんだけどね」
誰へともなく漏らした呟きに、カイルが小さく笑う。
「隊員たちの手前、俺は勤務中には飲めねえがな」
おやじは焼き台の向こうで、黙々と片付けを続けていた。
「……そういや、水は平気なのか。ここに来る途中、井戸を覗いたが、随分と澄んでたな」
「ああ、それは聖女様が定期的に浄化してくれてるからだ」
ダグが答えると、カイルも頷いた。
「月に何度か聖女様が清めてる。だから今は、どこもきれいなもんだ」
「……なるほどな。それでボーダーウッズの水もましなのか。だが」
ヴァルガの声が、少しだけ低くなる。
「浄化して回らなきゃならねえってことは、汚れる元が、まだどこかにあるってことだろう」
「……そういうことだな」
ダグの脳裏に、以前の記憶がふとよぎった。夕闇に沈む森の奥、フードを被った人影を一瞬だけ見た、あの時のことだ。声をかける間もなく消えていった、あの妙な気配。あの違和感が、また胸の奥で疼いた。
「……森の様子、帰ったら少し当たってみるか」
「そうだな。俺も、気になってはいたんだ」
三人はそれ以上、深くは語らなかった。それでも、それぞれの胸の中に、小さな引っかかりが静かに残っていた。井戸の水はきれいなままだ。聖女の力が、街を確かに守っている。だが、その水を汚そうとする何かは、まだ森の奥のどこかに息づいたままなのだ。根本が絶たれない限り、この静けさもいつまで続くか分からない。
「よし、そろそろ、一度戻るか」
重箱が空になる頃、ダグがつぶやいた。
「戻るって、ボーダーウッズにか」
「ああ。長いこと顔を出してねえしな」
ダグはカウンターの奥へ声をかける。
「店主、蒲焼を大量に焼いてくれ。土産に持ち帰りたい」
「あいよ」
焼き上がりを待つ間、三人はしばらく他愛のない話を続けた。訓練の後の筋肉痛の話、詰所の連中の噂話。カイルが片膝をついた時のダグの驚いた顔を、ヴァルガが面白おかしく再現してみせると、当のカイルが「よせよ」と苦笑する。そんな他愛もないやり取りのひとつひとつが、今日の一戦を経た三人の間にある確かな空気を物語っていた。種族も立場も違う三人が、こうして肩の力を抜いて笑い合っている。それだけのことが、今日一日を締めくくるのに、これ以上ないほどふさわしい光景だった。
やがて、香ばしい匂いを漂わせた包みが出来上がった。ダグは大切そうにそれを抱え、代金を支払う。カイルはここで隊務に戻るといい、暖簾の前で二人と別れた。
「また来いよ、ヴァルガ」
「おう、また顔出すぜ」
カイルが軽く手を上げ、詰所の方角へと歩き去っていく。
「あら、ダグさん」
澄んだ声が、路地の向こうから聞こえてくる。白い聖衣をまとった少女――ルチアだった。
「聖女様か。ちょうどいいところで会ったな」
「その荷物。ひょっとしてこれから、里帰りですか?」
「ああ。しばらくボーダーウッズに戻る」
ルチアの表情が、心配そうに曇った。
「森の中は、危ないこともありますから。何かあったら、知らせてくださいね」
「心配はいらない。俺たちは森の中も慣れてる」
「それならばいいのですが。お気をつけて」
ルチアはそう言って微笑むと、藍色ののれんをくぐっていった。
「聖女様もあの店で食うのか?」
「常連だ」
ダグとヴァルガは、防柵の方角へと歩き出す。並んで歩く二人の影が、橙色に染まる石畳の上に長く伸びていた。
ダグは、抱えた蒲焼の包みを少しだけ抱え直す。まだ温かいその重みが、腕の中でじんわりと伝わってきた。ボーダーウッズに戻れば、久しぶりに顔を合わせる仲間たちが、この土産をどんな顔で迎えてくれるだろうか。想像するだけで、自然と口元が緩む。
フォレステッジの空は、今日も静かに暮れていく。その先に広がる深い森では、まだ誰も知らない何かが、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。




