まむし重
魔王討伐から数日が経った。
フォレステッジの朝は、いつも通りの穏やかさで明けていく。市場には威勢のいい掛け声が響き、露店には乾物や織物が所狭しと並んでいた。防柵の修繕はすでに終わり、二重目の柵も着々と組み上がっている。深い森は、今日も静かに佇んでいた。
「おはようございます、聖女様」
八百屋の店主が声をかけてくる。ルチアは会釈を返しながら、大通りをゆっくりと歩いていった。
討伐の後、街には大きな祭りも、盛大な式典も催されなかった。事の起きた場所が街の外れの森の奥だったこともあり、住民の多くは詳しい経緯を知らない。ただ、井戸の水が澄み、魔獣の出現が目に見えて落ち着いたことだけを、誰もが静かに実感していた。
それでいい、とルチアは思う。誰かが気づかないところで平穏が保たれているなら、それに勝る幸せはない。
領庁前の広場では、ベルナルドが忙しそうに書類を抱えて歩き回っていた。
「聖女様、おはようございます」
「おはようございます、ベルナルドさん。防柵の様子はいかがですか」
「二重目の柵も、あと数日で完成の見込みです。今回のことで、辺境伯様もようやく予算を渋らなくなりまして」
ベルナルドが額の汗を拭いながら、どこか誇らしげに答える。
「大変だったこと、無駄にはならなかったんですね」
「はい。それに、森の異変が収まったことで、街への旅商人の出入りも増えました。市場も、以前よりずっと賑わっております」
「それは、良い知らせです」
ルチアが微笑むと、ベルナルドは深々と頭を下げ、また忙しそうに歩いていった。
◆◆◆
王都から発した討伐部隊が、辺境の街フォレステッジにたどり着いたのは、それからさらに数日後のことだった。
将軍ローガンを先頭に、千を超える兵たちが隊列を組んで進軍してくる。長い行軍で土埃にまみれた鎧、疲れの色を隠せない兵たちの顔。だが、街に着いた彼らを迎えたのは、緊迫した戦場ではなく、柵の増築を終えた穏やかな街と、いつもどおり畑仕事をする農夫たちの姿だった。
「……森の奥の異変は」
ローガンが、出迎えた辺境伯領庁の役人へと尋ねる。
「はい。すでに、片付いております」
ベルナルドが、書類を差し出しながら丁寧に答えた。
「片付いた、とは」
「魔王の討伐が完了し、瘴気の発生も完全に収まりました。詳しい経緯につきましては、こちらの報告書にまとめてございます」
ローガンは受け取った書類に目を通し、しばらく言葉を失った。
「……討伐相手は、本当に魔王だったのか」
「はい。報告書の通りでございます。教会本部からの照会で判明したのですが……そちらに記載の通り、三千年前に魔王を倒した伝説の世界聖女ミルアーネ様が、自らの体に魔王と瘴気を封じ込め、この森の最奥で眠り続けておられたようなのです。蘇りかけた魔王イビルイールを討伐し、ミルアーネ様を無事にお救いした、というのが今回の全容でございます」
「……まさか」
ローガンの声が、初めて明確に揺れた。
「そういえば……進軍の途中、軍に攻撃が加えられ、先頭にいた若い勇者殿が倒れられた。あれは……」
「恐らく、魔王が放ったというブレスかと」
「……そうか」
ローガンは短く呟き、あの行軍時の記憶を脳裏に蘇らせた。突如として空を焼き、山肌を抉り穿った絶望的な光の奔流。勇者が掲げた聖剣が弾いてなければ、自分たちが率いてきた千の兵など一溜まりもなく吹き飛んでいたはずだ。
山すら穿つ攻撃を放つ魔王という化け物を、まさか辺境の者たちが討ち果たしたというのか。
「陛下には、どうご報告を」
副官が小声で尋ねると、ローガンはしばらく考え込んでから答えた。
「ありのままを、伝えるしかあるまい」
◆◆◆
同じ頃、森を挟んだ反対側でも、似たような光景が繰り広げられていた。
亜人国の高官ゼフィルスが率いる部隊が、ボーダーウッズの詰所にたどり着くと、そこには普段通りの賑わいが戻っている。
「森の異変は?」
「もう終わってるぜ」
詳しい経緯を、ダグが説明した。
「三千年前に魔王を討伐した、伝説の世界聖女だったんだと」
「……古い戦記に記された、山が崩れ川の流れが変わったという話も」
「あながち、大げさでもなかったってことだ」
ダグの答えに、ゼフィルスはしばし言葉を失う。
「長老たちには、どう伝える」
「事実を、そのまま伝えるさ。フォレステッジの聖女の力で、片が付いたとな」
ゼフィルスは小さく息を吐き、詰所を後にした。
◆◆◆
藍色の暖簾が、風に揺れている。
ルチアが暖簾をくぐると、いつもの低い声が迎えた。
「いらっしゃい」
「今日は、何か特別なものはありますか」
「そうさな。ちょうどいい」
おやじが珍しく、含みのある返事をする。
「後で分かる」
「え?」
ルチアが首をかしげたところへ、暖簾がまた揺れた。
「よお、聖女様」
「カイルさん」
見回りを終えたばかりらしいカイルが、防具姿のまま顔を出す。あの日の傷はすでに癒えていた。
「たまたま前を通りかかってな。腹も減ったし、寄ってみた」
「私も、たまたまです」
二人が顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
「失礼します」
続けて入ってきたのは、帳面を抱えたリタだった。
「報告書の作成が一段落したので、少し早めの昼食を」
「リタさんも、たまたまですか」
カイルがからかうように尋ねると、リタは眼鏡を軽く押し上げる。
「偶然です」
その澄ました答えに、カウンターの奥でおやじがふっと口の端を緩めた。
やがて、暖簾がひときわ大きく揺れる。
「よう、揃ってるじゃねえか」
ダグが太い声とともに入ってきた。その後ろから、ヴァルガも続く。
「森の見回りの帰りにな。腹が減った」
「私もよ」
最後に、緑がかった銀髪を揺らしながら、シャノンが暖簾をくぐった。
「あら、みんな来てたのね」
「示し合わせたわけじゃ、ねえよな」
「まったくねえ」
六人が顔を見合わせ、誰からともなく笑いがこぼれる。
そして、暖簾がもう一度、控えめに揺れた。
「あたしも混ぜてもらっていいかな」
顔を覗かせたのは、ミルアーネだった。軽やかな足取りで、店の中へと入ってくる。
「……あんたまで来たのかよ」
ダグが呆れたように笑うと、ミルアーネは悪びれもせずに空いた席へと腰を下ろした。
「一人で食べるより、賑やかな方がいいでしょ。それに、ここの飯を食べ損ねるなんて、もったいないもの」
「まあ、三千年も飯食ってなかったら、色々食べたくはなるわな」
ヴァルガが肩をすくめて笑う。世界を揺るがした脅威が、今は当たり前のような顔をして席に着いている。その光景に、リタが小さく帳面を開いた。
「本日の来客、ミルアーネ様。……これも、記録しておきます」
「様はいらないよ、記録官さん」
「そういや、シュトラーフさんは元気か」
カイルが席に着きながら尋ねると、ダグが軽く肩をすくめた。
「森番の里に戻って、のんびりやってるらしいぜ。畑仕事を手伝ったり、若いのに昔話を聞かせたり、ってな」
「そう、良かったです」
シャノンが柔らかく微笑む。
「今度、二人で顔を出しに行くつもりよ。積もる話も、まだたくさんあるし」
「ああ、あいつなら、たまに森で顔を合わせるわよ」
ミルアーネがのんびりと口を挟む。
「何千年ぶりかの世間話だよ。長話が苦手な奴だから、あんまり喋らないけど、それでも通ってきてくれる」
「そうですか」
シャノンが目を細めた。育ての親と、かつての脅威が、今は静かに言葉を交わしている。それだけのことが、この数ヶ月の全てを物語っているようだった。
「今日は、こちらを」
そう店主が言って運んできたのは、うな重を入れるのと同じ艶やかな朱塗りの重箱だった。
蓋を持ち上げた瞬間、真っ白な湯気とともに、飴色のタレを幾重にも吸い込んだ独特の匂いが立ちのぼった。
「これは……」
ルチアが、その中身に目を見張る。
「まむし重だ」
まむし重とは、タレを絡めた白飯の中に刻んだ蒲焼を挟み込み、さらに一番表へ大きな蒲焼をドンと敷き重ねた贅沢な一品だ。関東とは違い、蒸さずに強火の直火で焼き上げる関西ならではの地焼きが真骨頂。パリッと焼かれた皮目と脂の乗った身を温かい飯の熱で蒸らすことで、ふっくらとした柔らかさと豊かな旨味が引き出される。どこを箸で掬っても、地焼きならではの香ばしさとタレの味が飯と一体になって立ち上がる。
「初めてこの街で食べた、うな重とはまた違う感じですね」
「いただきます」
八人の声が重なる。
ルチアが箸を入れると、表面の一枚をめくった先から、飯に埋もれたもう一段の鰻が顔を覗かせた。一口食べた瞬間、外側のタレの風味と、飯に染み込んだ内側の深みが、時間差でじんわりと押し寄せてくる。
(――あははっ!これは思わず笑ってしまいます!なんという贅沢!直火で炙られた身の香ばしさがガツンと鼻を突き抜けたかと思えば、ご飯の中で温められた内側の身が、抱え込んだ脂の旨味を溢れさせて溶けていきます……!蒸さずに焼き上げたからこそ残る圧倒的な身の力強さと、まむし重という仕掛けが生み出す奥深い味わいの重層感。一口刻むごとに、重厚な美味の余韻が胸の奥底にまで突き刺さってきます……!ああっ、うなぎ LOVE!)
「美味しいです」
そう呟く声は普段通り静かだが、小さく「はふ」と熱い息を吐き出し、蕩けるような表情で口元を押さえていた。
「相変わらずだな、聖女様」
カイルが苦笑しながら、自分の重箱に箸を伸ばす。
「私も、いただきます」
リタが静かに箸を進め、一口食べたところで、珍しく帳面を開かないまま目を細める。
「これは……記録より先に、味わうべきものですね」
ダグが四本の腕をすでに全開にして、二つの口へ交互に食べ物を運んでいた。額の口が、待ちきれなかった様子で開く。
『幾重にも重なった飯と鰻が、噛むたびに違う旨さを見せやがる……!こいつは、いくらでも食えるぞ……!』
「本当によく喋る奴だな。くう、山椒きかせると最高だな!」
ヴァルガが呆れながらも、自分の重箱をあっという間に空にしていった。
「ほんとうにおいしい……あの、皆さん」
箸を止め、アイリスがふと真剣な顔で切り出した。
「先ほどから、ルチア様がお食事を召し上がるたびに、何か……声のようなものが聞こえる気がするのですが」
「「「――っ」」」
その場にいたルチア以外の全員が箸を止めた。
「あー、リタだろ?なあリタ」
「以前に引き続いてすみません」
「ふふ、私にも聞こえましたよ。リタさんたら」
シャノンも涼しい顔ですかさず加勢すると、アイリスは釈然としない様子で首をかしげた。
「そう、ですか?」
「まあまあ、うまいもん食ってる時にしょうもないことは気にしなくていいんじゃないか?」
カイルが大きくまとめ上げると、話はそのまま流されていく。アイリスは少し納得のいかない顔をしていたが、それでも深くは追及せず、箸を再び動かし始めた。
「……これは、たまんないわね」
ミルアーネが目を細め、軽やかに箸を進める。
「何千年も暗闇の中で空腹を抱えてた身には、沁みるわあ」
「三千年の断食明けに食うもんじゃねえだろ。胃が驚いてひっくり返るぞ」
ダグが呆れたように鼻で笑うと、ミルアーネは声を上げて笑った。
「ひっくり返ってもいいわよ。やっぱり、こうして誰かと突き合うご飯が一番ね」
その一言に、店の空気がふっと和らぐ。
「……そういえば」
少し落ち着いたところで、リタが帳面を開いた。
「先日の一件以来、気になっていたことがあります。お二人の成長速度について、簡単ではありますが、こちらで見立てを立てました」
「見立て、ですか」
ルチアが箸を止める。
「はい。あれから、教会本部に伝え、他の聖女の方々にもうなぎを召し上がっていただいたそうなのです。ですがどなたにも成長はありませんでした。他の聖女にはなく、お二人にあるもの。共通するのは、鰻料理に対する愛情の強さです。……おそらく、原因は体の素質ではなく」
「うなぎ料理が、「好き」という気持ちそのものということかと」
アイリスが、帳面から顔を上げて続けた。
「食べる量でも、味の好みでもなく、心から喜ぶ度合いそのものが、力の伸びに直結している。そう考えれば、辻褄が合います」
「へえ……」
ミルアーネが感心したように相槌を打つ。
「なら、あたしとルチアが、たまたま同じ穴のムジナだったってことか」
「はい。ですので」
リタが、真剣な顔でルチアへと向き直る。
「今後、聖女修行の初めに、鰻を食べていただく機会を設けるよう進言しようと思います。お二人と同等に、もしくはそれ以上にうなぎ料理が好きな方が発見できれば、世界にとっても、力の強い聖女を増やす大きな一歩となります」
「なるほど、それはいい考えかもね」
ミルアーネが楽しそうに頷く。
「あたしも協力するよ。何しろ、証人みたいなもんだからね」
「私も、協力いたします。よろしくお願いします」
ルチアが小さく頭を下げると、その場に温かい笑いが広がった。
「これからどうする、みんな」
重箱がほとんど空になった頃、カイルがふと尋ねた。
「俺は、討伐官の仕事に戻るだけだ。森は広い。まだまだ知らねえことも多いしな」
「私も、変わらないわ。案内役として、森と街を行き来する日々よ」
ダグとシャノンが順に答える。
「俺は、しばらくこっちに顔を出す回数が増えそうだ。鍛え甲斐のある奴らが多いんでな」
ヴァルガが片手を挙げて笑うと、カイルが苦笑した。
「私は、記録の整理を続けます。今回の一件も、後世のために正確に残しておかなければなりませんから」
リタが帳面を軽く叩きながら答える。
「私は、教会本部に帰ります。そのあとは、やはり視察官の仕事を続けます。みなさんとまた会えますように」
アイリスが少し残念そうに話した。
「あたしは、まあ、暇だからね。これからも、たまに顔を出させてもらうわ」
ミルアーネがのんびりと言うと、ダグが笑った。
「たまにって、絶対毎日来るぞ、こいつ」
「否定はしないよ」
「ルチア様は」
カイルに問われ、ルチアは少し考えてから、静かに微笑んだ。
「私は、変わりません。困っている方がいれば駆けつけて、片付いたら、ここでご飯をいただきます。それだけです」
その飾らない答えに、皆が優しく笑い合う。
「ごちそうさまでした」
ルチアが箸を置き、両手を優しく合わせた。
「どうぞ、また」
おやじの短い言葉に見送られ、八人は代金を払い、暖簾をくぐって外へ出る。
夕暮れの光が、路地の石畳を橙色に染めていった。
◆◆◆
その後も、フォレステッジには平穏な日々が続いた。
ある日、教会本部から一通の書状が辺境伯領庁に届いた。ベルナルドが目を通し、驚きに声を裏返らせる。
「聖女様……こ、これは」
「どうかしましたか?」
「『世界聖女』の称号を、ルチア様に授与するとの、正式な通達です」
「そうですか」
ルチアは静かに祈りの姿勢を解き、差し出された書状に一瞬目を落としただけで答えた。称号の重みなど、湯気の向こうの一切れに比べれば、些細なことのようだった。
「聖女様、聞いておられますか……!歴史に名を残す偉業なのですよ!」
ベルナルドが慌てて声を張り上げても、ルチアは「はい、感謝いたします」と穏やかに微笑み、またゆっくりと手を組んで祈りに戻ってしまう。誰もが、その相変わらずな様子にただ苦笑するしかなかった。
教会本部の審査局にも、辺境からの最終報告が届いていた。アイリスが几帳面な文字で書き加えた最後の一文にはこうあった。
「――比類なき愛。前例なし。今後も継続して観察を要する」
夕暮れのフォレステッジを、ルチアはゆっくりと歩いていく。今日も思う存分うなぎ料理を食べ終えた腹は、心地よい重みにじんわりと満たされていた。
この街に来たばかりの日、何も分からないまま暖簾をくぐった。
それが今では、困っている人がいれば助け、終わればまた暖簾をくぐる。
明日も、きっとそうなる。
大聖堂への道を歩きながら、ルチアは夜空を見上げた。星々が、静かに瞬いている。
「明日も、美味しいものが食べられますように」
そう呟いて、歩き出した。
これにて完結です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
まあ読めたわ。と思えていただけたならブックマーク、星評価3、リアクションをいただけると作者としては大満足です。
よろしければ同じ作者の他の完結話もお楽しみください。




