うなぎのマトロート
辺境伯領庁の記録室に、羊皮紙の擦れる音だけが静かに響いていた。窓の外は、もう夕暮れに近い。傾く橙色の光が、机いっぱいに広げられた地図をゆっくりと染めていく。
リタ・メモリは、その地図の上に、赤いインクで印をつけ続けていた。この一ヶ月で書き足した印は、もう数えるのも億劫になるほどの数に膨れ上がっている。
「……やはり」
ペン先を止め、リタは地図全体を見渡す。フォレステッジ周辺だけではない。森を挟んだボーダーウッズ側の記録、討伐官たちから伝え聞いた発生地点まで重ね合わせると、答えは一つしかなかった。
瘴気を纏った魔獣に限って集計し直すと、その出現頻度は、森の最奥のある一点を中心に放射状に増加している。通常の個体による被害はこれまでと大きく変わらない。だが、瘴気を纏った個体だけを抜き出せば、先月九件、今月十四件。この数字だけが、明らかに異様な伸び方をしていた。眼鏡の奥、リタの瞳が、地図の中心に描いた円をじっと見つめる。
「この異常、聖女様にお伝えしなければ」
リタは地図を丸め、帳面を抱えて立ち上がった。革靴の音が、静かな記録室に硬く響く。彼女は迷うことなく、扉を押し開けた。
◆◆◆
人間国の王城、深奥の一室。分厚い石壁に囲まれたその部屋には、地図と古文書が山のように積まれていた。
「――辺境フォレステッジ周辺だけの話ではありません」
王国の将軍、ローガンが、王の前に膝をつく。
「「呑む森」を水源とする各地で、水質の悪化と魔獣の異常発生が同時多発的に報告されています。フォレステッジでも、瘴気を纏った魔獣による負傷や器物の損壊は積み重なっております。幸いにも大事には至っておりませんが、無傷とは言えません。中でも、河の下流に位置する穀倉地帯では、すでに深刻な被害が出ている模様です」
「……かの『黒き霧』の伝承と同じか」
王の声が、低く重く響いた。
「三千年前、東の大陸にあったという大国が、一夜にして地図から消えたと伝わっている。城も、民も、痕跡一つ残さず飲み込まれた、と」
「……まことの話でしょうか」
ローガンが、思わず問い返す。
「まことかどうかなど、誰にも確かめようがない。だが、当時の歴史書から突如として記述が消えた国があるという事実だけは、疑いようがない」
王は、地図の上に置いた指先に、力を込めた。
「「呑む森」の奥に眠る魔王の封印が破れかけているのかもしれん。このまま水が腐りきれば、我が国は飢えと病で崩壊するぞ」
「は……!では、ただちに伝承にある『聖剣』の捜索と、封印の再展開を――」
「甘い。伝承の紐解きなど待っておれん。今この瞬間も瘴気は広がっているのだ。ただちに穀倉地帯へ先動隊を放て。防壁を築き、汚染を食い止めよ」
「はっ!……ですが陛下、「呑む森」の封印に対する根本的な討伐部隊、および封印の調査隊を整えるには、早くとも数ヶ月はかかるかと」
「急げ。先動隊で刻を稼ぎ、その間に本隊を編成せよ。魔王が復活してしまえば、我らに明日はない」
短くそれだけ告げると、王は再び地図へと視線を落とした。
◆◆◆
同じ頃、深い森を挟んだ先、亜人国の議事堂でも、似たような報告が上がっていた。
「森の奥からの瘴気、明らかに濃度を増しています」
女性高官、ゼフィルスが、居並ぶ長老たちの前で告げる。
「討伐官たちの被害報告も、先月の比ではありません。このままでは、ボーダーウッズだけでなく、我が国の中枢にまで影響が及ぶ恐れがあります」
「軍を動かす」
長老の一人が、静かに、しかしはっきりと言い切った。
「これは、もはや辺境の一事件ではない。魔王にかかわる異変であれば、油断せずに全力であたらねばならん」
議事堂を出たゼフィルスは、夜空を見上げ、小さく息を吐いた。
人間国も亜人国も、互いの思惑を知らぬまま、同じ森の異変に向けて動き出していた。
◆◆◆
森の奥、獣道を、シャノンが息を切らせて駆けていた。
いつもの飄々とした足取りはどこにもない。背負い袋も持たず、両手を空にして、ただひたすらに走る。長く伸びた耳が、風を切るたびに小さく揺れた。木々の隙間を抜ける夕暮れの光が、走るたびに肌の上をちらちらと過ぎていく。
「……まさか、こんな」
途中で立ち止まり、道の脇に残る足跡を見下ろした。以前見た、あの引きずるような足跡と同じものが、あちこちに何重にも重なっている。以前より、明らかに新しい。落ち葉の積もり方から見て、つい数日のうちに何度もこの道を通った痕跡。何かが、この森の奥で、確実に動き始めている。
森番の一族として生まれてから四百年、これほどの異変を肌で感じたことは一度もない。普段は飄々としているシャノンの顔から、笑みが完全に消えている。
「急がないと」
シャノンは短く呟くと、再び足を速めた。
◆◆◆
フォレステッジの路地、藍色の暖簾をくぐろうとしていたルチアの背に、切迫した声が届いた。
「聖女様!」
振り返るルチアのもとへ、リタが息を切らして駆け寄ってきた。
ちょうど森の方角から現れたシャノンも、足を止める。すれ違いざま、二人の視線が一瞬だけ交錯した。
そこへ、大きな足音とともにダグとヴァルガも通りかかる。
「なんだ、揃いも揃って深刻な面してるじゃねえか」
ヴァルガが片眉を上げた。
「悪い、こっちも少し急ぎで話がある」
ダグの声にも、いつもの軽さはない。
最後に、見回りを切り上げたらしいカイルが急ぎ足で姿を現した。全員の表情を見るなり、ただごとではないと察したらしい。
「話は中でしようぜ」
カイルは店の奥へ視線を向け、声を張った。
「おやじ、店先じゃ近所の迷惑になりそうだ。少し中で話をさせてくれねえか?話が終わったら全員分、飯食っていくからよ」
奥から気前のいい返事が届くと、振り向いて全員に顎をしゃくった。
「よし、入れ入れ」
カイルに促され、六人は吸い込まれるように店の中へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
いつもの低い声が迎えた。カウンターの奥、おやじが六人の顔を順に見渡す。
「……座んな。奥の席が空いてる」
六人は、釣り針型に曲がったカウンターへと通された。曲線に沿ってダグ、シャノン、ヴァルガ、ルチア、カイル、リタが並んで腰を下ろす。
そして、静かに話が始まった。
「リタさん、まずはリタさんから伺います」
ルチアが切り出す。リタは帳面を開いた。
「瘴気を纏った魔獣の発生が増加しています。出現地点を地図に落とすと、森の最奥を中心に放射状に広がっている。……森の奥に、何かがいます」
「警備隊でも瘴気の魔獣の増加は肌で感じてたが、「呑む森」の奥か」
カイルが低く呟く。
「はい。聖女様が対応してくださっているおかげで、これまでのところ深刻化を免れているだけ。大きな被害こそ出ていませんが、瘴気を纏った個体による小さな負傷や器物の損壊は、ここ最近増加の一途です。いつか限界が来るかもしれません」
その一言に、店の空気がぴりりと引き締まった。
「私も、それに繋がるような古くさい話なら知ってるよ」
シャノンが言葉を継ぐ。
「森番の民に伝わる、古い言い伝え。『王よりも先に、森の奥を歩く者がいる』――そうやって災いの兆しを告げる一節」
その言葉に、ダグの表情がわずかに強張った。
「「森の奥を歩く者」……まさか、あの影か?」
「知っているのですか?」
ルチアが問いかけると、ダグは顎に手を当てて唸った。
「以前、森でフードを被った奴を一瞬だけ見た。声をかける前に消えちまったが……その言い伝えと関係があるのかもしれねえ」
「人影……?本当に見間違いじゃないんだな?」
カイルが身を乗り出し、眉をひそめる。
「ああ、見間違いじゃねえ。ただの迷い人だと思って、領庁への定期報告にも書かずに片付けちまってたが……」
「報告に残っていなかったわけですね。もし記載があれば、瘴気の広がりと突き合わせることができたかもしれません」
リタの冷静な指摘に、ダグは決まり悪そうに頭をかいた。落ちてきた沈黙の中、シャノンがゆっくりと目を伏せる。
「……昔、私を育ててくれた人も、その影のことを気にしていました。あれはただの噂ではないのかもしれません」
そう呟くと、シャノンは深く目を伏せた。
普段の軽妙さを完全に押し殺したその横顔には、他人の立ち入りを拒むような暗い陰が落ちている。育て親という個人的な過去、そして長寿の森番が抱く切実な気配に、誰も安易な言葉を重ねることはできなかった。
狭い店内に、重苦しい静けさが満ちていく。
「……森に行けば、わかることだろ」
ヴァルガが、静かにその沈黙を破る。
「とりあえず今想像できるのは、森の奥に何かがあって、それが魔獣の異常発生に関わってるっぽいってことだ。何があるのか調べてみようじゃねえか」
「案内は任せて、と言いたいところだけど……最奥部は森番の民でも足を踏み入れない場所なの。強い魔獣が出るうえに街からも遠くて、行き来する旨味がないから」
シャノンの現実的な言葉に、ヴァルガがニヤリと鼻で笑う。
「おっと、頼もしいねえ。道もわからない、何が出るかもわからないってわけだ」
ヴァルガがおどけたように肩をすくめる。不気味な未知を前に静まり返る店内の中、ルチアだけは臆することなく前を見据えていた。
「私に、皆さんの背中を守らせてください」
ルチアの声には、はっきりとした意志が宿っていた。
「これ以上、被害を増やすわけにはいきません。だから……調査には、私も一緒に行かせてください」
ルチアの言葉に、反論する者は誰もいない。その直後、リタがパタンと素早く帳面を閉じた。
「ならば、私も同行します。現場での記録と状況分析、それに聖女様のサポート役が必要です」
眼鏡の奥の瞳をキリリと輝かせ、至極真っ当な理由を述べる。
(――当然です!聖女様が危険な調査へ赴くというのに、このリタ・メモリが街でお留守番などできるわけがありません!聖女様のあのお美しい背中は、私が全力でお守りいたします……!)
クールな表情の裏で荒れ狂う思考を、リタは完璧なポーカーフェイスで覆い隠した。
「頼りにしてるぜ、記録官さん」
カイルがニッと笑い、自分の胸を軽く叩く。
「隊の連中には警戒を強めるよう言ってきた。まずは俺たちでサクッと調査といくか。――誰も怪我せずに帰ってくるぞ」
どんよりしていた空気はすっかり吹き飛び、カイルはカウンターの奥へ向けて威勢よく声を張り上げた。
「おやじ、話はまとまった!腹が減っちゃ動けねえ、何かおすすめを出してくれ!」
「あいよ」
短く応じたおやじは、いつもならすぐに取り出すはずの鰻用の焼き串に手を伸ばさなかった。奥の調理場で、カチャンと重厚な陶器が擦れ合う音が響く。
普段なら蒲焼きや白焼きの芳ばしい煙とタレの香りが店内に満ち始めるはずの時間だが、今日漂ってきたのは、どこか奥深い酒と香草の混ざり合った匂いだった。
「なあ……いつもと匂い、違くねえか?」
鼻をひくつかせたダグが小声で呟き、ルチアも不思議そうに首をかしげる。
「ええ……おやじさんが焼き台に向かわないなんて、珍しいですね」
常連のルチアたちが首をかしげる中、やがて奥からおやじが大きな布巾を添えて戻ってきた。
「おまちどお、鰻のマトロートだ」
品書きにない料理の名を言う低い声と共にカウンターへずしりと置かれた大皿に、全員の視線が吸い寄せられた。
普段使いの素朴な小鉢や平皿が並ぶ店には、およそ似つかわしくない、深さのある大きな丸皿だった。
大皿を満たしていたのは、濃厚な赤褐色のソースだ。立ちのぼる湯気には、芳醇な赤ワインの香りと、じっくり炒められた玉ねぎの甘い匂い、そして香ばしい魚介の風味が重なり合っている。
ソースの中に鎮座しているのは、分厚くぶつ切りにされた鰻の身だった。玉ねぎやニンジン、香草の束と共にじっくり煮込まれたそれは、骨から出た旨味と葡萄酒の酸味が絶妙に馴染みきっている。マトロート――魚を酒と香草で煮込む、手間と時間を要する料理だった。
「……な、なんだ、これ」
カイルが小声で漏らす。
「わかりません……私、こんなの初めて見ました」
一番の常連であるルチアですら、見たこともない大皿料理に目を丸くしていた。
おやじは無言のまま、六人分の小皿を手際よく並べると、大皿からそれぞれの分を丁寧に取り分けていく。
「前からいろいろと試しててな。……ようやく人に食わせられる形になった。ちょうどいい、残さず食っていけ」
おやじはそれだけ言うと、背を向けて奥の焼き台へと戻っていった。
「……いただきます」
小皿が全員に行き渡ったところで、ルチアが箸を取る。重苦しい空気はすっかり消え去り、あとは目の前の料理と向き合うだけだった。
濃厚なソースを纏った鰻の一切れを、ルチアは口へと運ぶ。舌に触れた瞬間、極限まで濃縮された赤ワインと香味野菜の旨味が、一気に弾けた。ほろりと解ける身から、脂の豊かさがじわりと滲み出してくる。
(――んんっ……!なんという濃厚さ……!赤ワインの芳醇すぎる深みが、鰻の豊潤な脂と完璧に溶け合って、怒涛の味の波となって脳裏に押し寄せてきます……!鼻を抜ける香味が愛おしすぎて、呑み込むことすら躊躇われるほどの幸福……!)
「……美味しいです」
いつも通り、澄ました声で呟く。だが、その頬は熱を帯びたように赤く染まっていた。
ヴァルガは一瞬だけ目を見開き、ルチアの顔を二度見した。ダグから聞いていたものの、澄ました顔の裏で放たれる熱烈な心の声のギャップに、思わずニヤけそうになるのを必死で堪える。知っていなければ、素で吹き出すところだった。
深刻な話の直後とは思えないほど幸せそうに頬を緩めるルチアの姿に、張り詰めていた一同の肩の力が、ふっと抜けていく。
この時、カウンターの向こう、暖簾がふいに揺れた。
「こんにちは!聖女様の……あの、今、お声が聞こえたような……」
顔を覗かせたのは、アイリスだった。書類挟みを抱えたまま、真剣な顔で店の中を見回している。
「「ちょいちょいちょい」」
カイルとダグの声が、綺麗に重なった。
「はい?」
名前を呼ばれた気がして、ルチアが箸を止めて顔を上げる。
「何でもありません、聖女様はどうぞそのまま。あとでお話ししますから」
カイルが素早くそう言って手を振ると、ルチアは小さく首をかしげた。そのままルチアに悟られないよう、カイルとダグは声音を落とし、アイリスと向き直る。
「店の中だ、でかい声を出すな。聞こえたって、何がだ?」
「路地の入り口まで……確かに、声が届いたんです」
「気のせいじゃないのか?シャノンかリタの声を聞き間違えたとか」
ダグが軽く流そうとするが、アイリスは引かなかった。
「いいえ、はっきりと。視察官として、現場の微小な音も逃さないよう注意しております」
「……そうか」
カイルの頬が、わずかに引きつる。
「今のは、私の声です」
リタが眼鏡を押し上げながら、いつもの調子で淡々と言い切った。
「データ上、この距離であれば声は十分届きます。私は元来、声量に自信がありますので」
「……リタさんの、声?」
アイリスが訝しむと、リタは眉一つ動かさずに頷いた。
「はい。感激のあまり、少々大きな声を出してしまいました」
「感激……何にです?」
「マトロートに」
あまりにも平然とした顔で言い切るものだから、アイリスは何も言い返せなくなってしまう。
「アイリスさん、少し外でお話ししましょうか。ちょうど、「呑む森」についてご相談したいことが」
シャノンが、にこやかにアイリスの片腕を取る。
「私からも、この街の警備状況について共有を」
リタも反対側の腕を取り、二人がかりでアイリスをやんわりと暖簾の外へと連れ出していく。
「え、あの、でも今の声は……」
「さあ、こちらへ」
問答無用の連行に、アイリスの声が遠ざかっていった。
「あの平然とした嘘、リタさんも大概だな」
ダグが呆れ半分、感心半分でそう漏らすと、ヴァルガが堪えきれずに噴き出した。
「くっ……くくくっ。声量に自信がありますって、真顔で言うことかよ」
カイルは、小さく息をついた。嵐のように立ち去った侵入者の余韻が引き、店内にようやく平和な静けさが戻ってくる。
「やれやれ……さて、俺たちも冷めないうちにいただくとしよう」
気を取り直したカイルが言い、一行は再び目の前の小皿へと視線を落とす。
「――こいつは、確かにうまいな」
ダグも間髪入れず箸を伸ばす。外套の下から二対目の腕が伸び出し、額の口が開いた。
『赤ワインのコクが鰻の脂を力強く抱き込んで、とんでもねえ化け物料理に化けてやがる……!玉ねぎの濃密な甘みと煮詰まったソースが舌に絡みついて離れねえ……!旨味の爆薬だ!!』
「相変わらず賑やかな奴だな、お前は」
ヴァルガも己の小皿に伸びた一切れを口へ放り込み、ガツンと頭を殴られたような吐息を漏らした。
「……ちくしょう、胃袋が酒を叫んでやがるぜ。この濃密さは犯罪的だ」
ヴァルガは己の小皿に伸びた一切れを口へ放り込み、ガツンと頭を殴られたような吐息を漏らした。
「……惜しいな。この濃厚なソースと脂なら、黒コショウを親の仇みたいにバカバカ振って食ったら絶対に飛ぶぞ。今度は持ち込んで試してえくらいだ」
『お前はなんでもかんでもドカドカかけりゃいいと思ってんな。料理の風味が台無しになるだろ』
ダグの額の口に吐き捨てられ、ヴァルガはケッと鼻を鳴らした。
「分かってねえな。このコクなら刺激をいくら足したって負けねえんだよ」
『まあ、気持ちは分からんでもねえがな』
ダグが熱々の身を噛み締め、満足そうに鼻を鳴らす。
『この濃い口のコク、白飯を呑み込む勢いでも足りねえが、酒があったら完全に理性が吹き飛ぶやつだ!』
「だろ?」
ヴァルガも苦笑し、手元でグラスを傾ける仕草をしてみせた。
『ところでこの力強いソース、うちの牛丼にかけても化けそうだな』
「絶対化ける!今度おやじの親方に拝み倒してコツを聞いてみるか!」
カイルもまた、溢れ出る湯気に耐えかねて大ぶりな切れ端を口へ運ぶ。噛み締めた途端、全身の動きが止まった。
「……うそだろ、おい。酒場で出すどでかい肉料理すら霞むぞ。鰻で、ここまで力強く重厚な味が作れるのか……!?」
「ふふ、鰻の底力、侮ってもらっては困ります」
ルチアが誇らしげに胸を張る。まるで自分が作り上げたかのようなドヤ顔に、カイルは堪えきれずに吹き出した。
その時、暖簾が小さく揺れ、アイリスを連れ出していたシャノンとリタが店内に戻ってきた。
「ふう、お待たせ。アイリスさんを宿の方へ送ってきたわ」
シャノンが軽やかに席へ戻り、リタも眼鏡の位置を直しながら澄ました顔で腰を下ろす。
「さて、急いでいただきましょう」
リタはそう言うやいなや、冷めかけた自分の小皿へ向けて猛烈な勢いで箸を動かし始めた。溢れ出る感動を抑え込むようにパタンと帳面を開くと、爆速の筆致で何かを書き付け始める。
「……本日の一品、人類の財産として記録に残す絶対的価値があります」
「食うか書くかどっちかにしろよ!」
「美味しいものは、歴史に刻んでおかなければ損失です」
リタが至極真面目な顔で言い切ると、ダグとヴァルガが耐えきれずに爆笑した。香ばしい湯気とワインの濃密な香りが、狭い店内にどこまでも充満していく。
シャノンも料理を静かに口へ運び、その圧倒的な美味さに目を細めながら、賑やかな仲間たちを眺めていた。
「なんだか、本当におかしな顔ぶれね」
「くくっ、最高に悪くねえ眺めだ」
ヴァルガが片手で頬杖をつき、心底満足そうに喉を鳴らした。
人間、警備隊長、熱烈な記録官、鬼人、森番の民、そして竜の血を引く討伐官。毛色の違う六人が同じカウンターで肩を並べ、一つの大皿に舌鼓を打つ。その熱気と多幸感こそが、この一皿を何物にも代えがたい「最高の馳走」に昇華させていた。
「森の奥、か」
ソースの一滴すら残さず大皿が空になった頃、ヴァルガが低く呟いた。その声には、食い終えた満足感と共に、静かな熱が宿っている。
「……行くしかねえな」
ダグが力強く答える。誰もそれに異を唱える者はいなかった。美味しいものでお腹も満たされ、腹の底からじわじわと力が湧き上がってくる。
「ごちそうさまでした」
ルチアの声に合わせ、全員が席を立った。
「また、来てくんない」
おやじの短くも温かい見送りを受け、六人は連れ立って暖簾をくぐり抜けた。
夕暮れの路地に、立ち上る熱気と赤ワインの残り香がふわりと漂う。橙色の光が石畳を染め、六人の影を長く伸ばしていた。
「よし。それじゃあ、各自準備だな」
カイルがニッと笑い、自分の肩を軽く叩いた。
「俺は隊に戻って、すぐに動けるよう警備の調整をしておく」
「私もすぐに記録を整理します。調査ルートの候補をいくつか出しておきますね」
リタも手帳を抱え直し、頼もしい表情で頷いた。
「俺たちはボーダーウッズに戻って、討伐官の連中に一言伝えておく。森の異変に備えて警戒を強めさせておくぜ」
ダグとヴァルガが目配せを交わし、軽やかな足取りで街の外へと歩き出す。
「私は一族の年寄りたちに、もう一度言い伝えた内容を詳しく聞いてくるわね」
シャノンもそう言って、すっと森の方角へ足を向けた。
大げさな別れの言葉など必要なかった。美味しい飯を食い、目的を一つにした仲間たちは、それぞれの役割を果たすために迷いなく歩き出していく。
一人残ったルチアは、暖簾の隙間から覗く店内に向けて深々と一礼し、石畳を力強く踏みしめた。
「さあ、私も準備を始めましょう」
誰に言うでもなく呟いたその声には、澄んだ強い意思が宿っていた。
森の奥で蠢く気配を前にしても、もう不安はない。お腹を満たし、しっかりと前を見据えた六人の足取りは、どこまでも軽やかで頼もしかった。




