プロポーズ、お断りします
「クラリス。三年間、ご苦労だった」
旦那様――ローランド・ハーバー様は、離婚届に署名を終えると、淡々とした口調でそう告げた。
王国騎士団でも指折りの剣士であり、ハーバー公爵家の嫡男。
艶やかな黒髪に青い瞳。高い鼻すじと引き締まった体躯を持つ、誰もが振り返るほどの美男子だ。
けれど三年間妻として仕えてきたクラリス様を見る目には、欠片ほどの未練もなかった。
「こちらこそお世話になりました、旦那様」
対するクラリス様も、穏やかに微笑んで頭を下げる。
二人の結婚は、最初から三年間限定の契約だった。
クラリス様の亡き祖母と、ローランド様の祖母はかつて親友同士だった。死の間際、クラリス様の祖母は孫娘の行く末を案じ、ハーバー公爵家に彼女を託した。
一方のクラリス様は、没落寸前だった子爵家の借金を返済するため、ローランド様との契約結婚を受け入れた。
ローランド様が結婚初夜にクラリス様へ放った言葉は、実に有名である。
『君を愛する気はない』
私も扉の外でしっかり聞いていた。
思わず銀のトレーで後頭部を殴ってやろうかと思ったほどだ。
――なぜなら、私は知っている。
ここが前世で読んだ恋愛小説『契約結婚は甘い罠~王国最強の騎士は偽りの妻を溺愛する~』の世界だということを。
そしてこの横暴極まりない旦那様こそが、小説のヒーローだった。
原作ではローランド様は愛する気がないと言い放ったくせに、健気に尽くすクラリス様へ次第に惹かれていく。
クラリス様が契約どおり離婚しようとすれば、今度は嫉妬と独占欲を爆発させる。
世間では溺愛だの執着愛だのと絶賛されていたが、私は原作を読みながら何度本を閉じたか分からない。
愛さないと言ったのは、あんたでしょうが。
白い結婚を持ち出したのも、あんたでしょうが。
自分が好きになったからといって、相手も当然自分を好きになると思うなよ。
私はローランド様の勝手な横暴が、心の底から嫌いだった。
一方で、クラリス様のことは大好きだった。
夫から冷たく扱われても、使用人に当たり散らすことはない。
公爵家の帳簿に不備を見つければ、誰かを責めるより先に改善策を考える。
困っている人を見れば放っておけないのに、自分の痛みは笑ってごまかしてしまう。
そんなクラリス様を、私は前世からずっと応援していた。だからこの世界に転生し、自分がただのモブだと気づいた時、ひとつの決意をした。
物語を変えよう、などと大それたことを考えたわけではない。
小説の筋書きどおりなら、三年間の契約結婚を経てローランド様はクラリス様を愛するようになる。
でもその間にクラリス様が味わう孤独や苦しみまで、黙って見ている必要はない。
私は原作を知っている。
いつ、どこで、どんな問題が起こるのかも、おおよそ分かっている。
ならばせめてクラリス様がひとりで泣かずに済むよう、そばで支えようと思った。
夜会でローランド様に放置されると知っていた日は、クラリス様が気後れせず会話できそうな夫人たちの好みを事前に調べた。
結果、クラリス様は商売に関心のある伯爵夫人と知り合い、後の取引につながる人脈を得た。
公爵家の家宝が紛失し、クラリス様が疑われる事件が起きると知っていた時は、宝物庫の鍵と使用人の出入りを密かに確認した。
事件そのものを防ぐことはできなかったが、犯人の不審な動きに気づき、クラリス様の疑いを早々に晴らすことができた。
ローランド様が任務中に負傷する日は、必要になる薬草と包帯を先に用意しておいた。
原作ではクラリス様が徹夜で看病し、それをきっかけに二人の距離が縮まる。
実際、この世界でもクラリス様は彼に付き添った。
私はただ、クラリス様が倒れないよう食事を運び、交代で休ませただけだ。
物語の流れを変えたつもりはない。
ただし私はいつも、少しだけ先回りした。
クラリス様が傷つくと知っているなら、その傷が少しでも浅くなるように。
困難が待っているなら、一人で背負わなくて済むように。
そして三年間の終わりに何が起きても、クラリス様が自分の足で立てるように。
原作にはクラリス様が商才を発揮する場面がいくつもあった。
公爵家の帳簿を整理し、領地の織物に価値を見出し、夜会で得た人脈を商売へつなげていく。
けれど原作では彼女の努力の多くが最終的に「公爵家を支える良妻」という評価へ落ち着いてしまう。
ああ、なんてもったいない。これでは得をするのはローランド様とハーバー公爵家だけではないか。
その点だけが、どうしても納得できなかった。
だから。
「クラリス様ご自身の名義で、投資をなさってはいかがでしょう」
ある日、私は思い切ってクラリス様に提案した。
慎重に言葉を選びながらも、少し緊張した。
だってこれではまるで離婚後に備えろと勧めているようなものだもの。
「私の名義で?」
「はい。奥様には商才がおありです。契約が終わった後も、ご自分の力で生きていける財産があったほうが安心です」
「そうね。契約が終われば、私はハーバー家の人間ではなくなるし」
けれどクラリス様は怒らなかった。
むしろ寂しそうに笑った後、自分で市場を調べ、投資先を選び始めた。
私は原作で知った将来有望な商品を、それとなく話題に出すことはあった。
ただしそれを信じるかどうかはクラリス様に任せた。
その結果、クラリス様は三年間で実家の借金を完済し、離婚後も何不自由なく暮らせる財産を築いたのだ。
私はただ原作を知る侍女として、彼女がその才能に気づくきっかけを作っただけに過ぎない。
本当に、それだけのはず――だった。
◇◆◇
そして今日、とうとう三年の契約が切れた。
本来ならクラリス様が差し出した離婚届をローランド様が破り捨てるはずだった。
『契約など知るものか。君は私の妻だ。誰にも渡さない!』
クラリス様を壁際まで追い詰めたローランド様が、強引に口づける。
そんな場面になるはずだった。
ところがローランド様は、離婚届にあっさり署名した。
「荷物はすべて運び出したのか」
「はい。もともと私物は少ないですから」
「そうか」
あれ? おかしいな。
原作とは違う流れに、内心首を傾げる。
でも私にしてみれば、こんなイレギュラーな展開は大歓迎だ。
なぜならクラリス様は原作とは違い、「愛するつもりはない」などと暴言を言い放つ夫に縋る必要などなくなったのだから。
「……」
「……」
「……」
そしてやはり待てど暮らせど、ローランド様がクラリス様を引き留めようとする様子は微塵もない。
おいおい、せめて三年間の礼くらい、まともに言えないのか。
クラリス様が管理してくださらなければ、公爵家の家計は今も湯水のように浪費されていたというのに。
「クラリス様。そろそろまいりましょう」
「そうね。ありがとう、キャロル」
部屋の隅に控えていた私は、痺れを切らしてクラリス様に声をかけた。
今日のクラリス様は、淡い若草色のドレスをまとっていた。
もともと華美な装いを好まない方だが、落ち着いた色合いが柔らかな金髪とよく似合っている。
「ではローランド様。これで失礼いたします」
クラリス様は最後まで美しい礼を崩さなかった。でもその背筋は晴れやかに伸びている。
よしよし。今日からクラリス様は自由だ。
私もクラリス様の後に続こうとした。
ところが。
「待て、キャロル」
なぜかローランド様に呼び止められた。
うーわー。なんだか嫌な予感しかしない。
「なんでしょうか、旦那様」
振り返るとローランド様はクラリス様ではなく、まっすぐ私を見ていた。
「君は残れ」
「お断りいたします」
即答すると、ローランド様の柳眉がぴくりと動いた。
「まだ何も言っていないだろう」
「この状況で、私に残れと仰る理由がわかりません。私の主人はクラリス様です。クラリス様がお屋敷を出られる以上、私も退職いたします」
「主人はハーバー公爵家ではないのか」
「私を雇い入れたのはクラリス様ですし、お給金を支払ってくださっていたのもクラリス様です」
公爵家の使用人のような顔をして働いていたが、私はクラリス様付きの私的な侍女である。
契約書もきちんと交わしてある。
ローランド様は、少し考えるように口を閉ざした。
自分の屋敷で働く使用人の雇用関係すら把握していなかったらしい。
「ならば私が君を雇おう。給金は今までの倍出す」
「結構です」
「三倍でもいい」
「金額の問題ではありません」
「では何が不満だ」
何もかもだ。
だが今は、クラリス様の門出を汚したくない。
「私にはクラリス様についていく理由がありますので」
「……まさか、クラリスに恩を感じているのか」
「恩だけではありません。私はクラリス様を敬愛しております」
「敬愛?」
「思慮深く、努力家で、使用人にも分け隔てなく接してくださる。商売の才能もあり、ご自分の力で未来を切り開ける素晴らしい女性です」
「それは妻としての資質とは関係ない」
私のこめかみが、ぴくりと動いた。
三年間積み上げてきたものを「妻の資質」の一言で切って捨てようとするローランド様に、怒りが爆発しそうだった。
そのイライラが伝わったのだろうか。クラリス様が困ったように、ちょいちょいと私の袖を引く。
「ローランド様。キャロルを困らせないでください」
「私は困らせているつもりはない。ただ必要な人材を屋敷に残そうとしているだけだ」
「私は旦那様に必要とされた覚えはございませんけれど」
「君はいつも私を気遣っていたではないか」
「は?」
思わず素の声が出た。
気遣った?
いつ?
誰が?
誰を?
「私が夜遅く帰宅すると、温かい食事を用意していた。騎士団で負傷した際には、薬と包帯を手配した。夜会用の礼装に不備があれば、誰より早く気づいて整えていた」
「すべてクラリス様のご指示です」
「しかし実際に動いたのは君だ」
「私は侍女ですので」
「私が他の令嬢に囲まれていると、不機嫌そうにしていたこともあったな」
「夜会で奥様を放置している旦那様に腹を立てていただけです」
何をどう解釈すれば、私がローランド様に好意を抱いていたという話になるのか。
なにこれ。マジで究極のナルシスト?
あまりにも自意識の強さが、天を突き抜けている。
ローランド様は一瞬虚を突かれ、黙り込んだ。
それでも何かを確信したように私へ歩み寄ってくる。
「キャロル。私はクラリスと離婚した」
「存じております」
「今後、私が誰を妻に選んでも問題はない」
「そうですね」
「私は君を、次の妻に迎えてもいいと思っている」
「――」
応接室に、長い長い沈黙が落ちた。
クラリス様が「え」と目を見開く。
私もまた、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
もしかしたら聞き間違い?
うん、そう。
きっとこれは、幻聴だ。
「今……なんと?」
「君を妻に迎えると言った」
「嫌です」
私は即答した。
先ほどより、さらに迷いはなかった。
「……身分のことなら心配する必要はない。君の出自は平民だが、遠縁の男爵家の養女にすれば」
「嫌です」
「私は公爵家の嫡男だぞ」
「存じております」
「王国騎士でもある」
「それも存じております」
「ならば、なぜ断る」
本気で分からないらしい。
私は大きく息を吸った。
クラリス様は止めようとしたが、もう遅い。
三年分の怒りが、ふつふつと煮えたぎっていた。
「では率直に申し上げます。私はローランド様のような男性が、死ぬほど嫌いだからです」
「……なんだと?」
「愛する気はないと宣言しておきながら、妻としての役割だけは求める。ご自分は夜会でほかの女性に囲まれていても平気なくせに、奥様が男性と商談をすれば不機嫌になる。奥様の提案で公爵家の財政が改善しても、礼のひとつも言わない。それどころか妻としての資質とは関係ないなどと言い放つ」
「私とクラリスの間には契約があった」
「契約があれば、相手を傷つけてもよろしいのですか」
「傷つけてなどいない」
「あなたはそう思っているのでしょうね」
私はクラリス様を振り返る。
クラリス様は、元がつくようになった夫を責めようとはしなかった。
ただ静かに、諦めと呆れをその瞳に滲ませている。
「クラリス様はあなたに愛してほしいとは一度も仰いませんでした。ただ人として尊重してほしかっただけです」
「私は充分に尊重した」
「三年間連れ添った方に、ご苦労だったの一言で済ませることが、あなたにとっての尊重ですか」
ローランド様の顔が、わずかに強張る。
「クラリス様がこの屋敷で穏やかに暮らせたのは、あなたのおかげではありません。クラリス様ご自身が努力されたからです。使用人たちから信頼を得て、仕事を見つけて、ご自分の居場所をご自分で作られた。あなたが与えたものではありません」
「それと私と君との再婚に何の関係がある」
「大ありです。私はクラリス様にしたことと同じことを、いつか私にもする男性とは結婚したくありません」
「私は君を愛している」
「はい?」
ついに出た。
原作でも、ローランド様はこの台詞を切り札のように使っていた。
愛していると言えば、今までのすべてが許されると思っている。
「君の率直なところが好きだ。私に臆せず意見し、必要な時には支えてくれる。クラリスとの生活で、私は本当に求めている相手が君だと気づいた」
「それは愛ではありません」
「なぜ君に決めつけられる」
「あなたが求めているのは、自分にとって都合のいい人間です」
私はきっぱりと言った。
「口答えはするけれど、最後には自分を助けてくれる。仕事ができて、身の回りを整え、見返りを求めない。あなたは私が仕事だからしていたことを、愛情だと勘違いしただけです」
「違う」
「違いません」
「では君の望みを言え。宝石でも屋敷でも望むものを用意する」
ほら、やっぱり何も分かっていない。
さすが「君を愛することはない」と傲慢に宣言する男だけはある。
「私が望んでいるのは、クラリス様と一緒にこの屋敷を出ることです」
「君は私より、クラリスを選ぶというのか」
「当然です」
「なぜだ!」
「クラリス様のほうが、百倍魅力的だからです!」
胸を張って答えると、クラリス様が頬を赤らめた。
ああ、それにしても面倒くさい。
まさか旦那様にここまでひどい勘違いをされていようとは。
業を煮やした私は、とっとと決着をつけるべく、とどめの一言を口にした。
「それに私、結婚したい相手は別におります」




