第9話「氷室社長の提案」
その連絡は、午前の会議が終わった直後に入った。
「春日井課長、少し時間ある?」
秘書課からの呼び出しだった。
春日井真希は資料をまとめる手を止めず、短く返す。
「今行きます」
⸻
社長室の前は、いつもと同じようで少し違う空気があった。
重いというより、“整理されすぎている”静けさ。
真希がノックをすると、中からすぐに声が返る。
「入って」
氷室結衣。
そしてその隣には、橘理沙副社長兼秘書が座っていた。
⸻
「来たわね」
氷室結衣は書類から目を上げる。
真希は軽く会釈する。
「お呼びでしょうか」
橘理沙が資料を一枚差し出した。
「次の大型企画案、あなたにも入ってもらうわ」
真希の視線が止まる。
「営業部と企画部、両方の統合案件ですか」
「そう」
氷室結衣は淡々と続ける。
「現場の動きと企画のズレが大きくなってる。そこを繋ぐ人間が必要なの」
真希は資料を見ながら、すぐに構造を読む。
営業、企画、秘書課。
三つの動線が重なる案件。
(かなり大きい)
だが同時に、理屈としては理解できる形だった。
⸻
橘理沙が少しだけ微笑む。
「それとね」
真希が顔を上げる。
「秘書課の仕事も、少し手伝ってもらえない?」
その言葉に、真希の目がわずかに動く。
「私が、ですか」
「あなた、秘書検定1級持ってるでしょ」
氷室結衣がさらりと言う。
真希は一瞬だけ沈黙する。
「……はい」
「なら問題ないわね」
あまりにも当然のように言われる。
⸻
真希の中で、複数の業務ラインが一気に再構築されていく。
営業課長。
企画補佐。
そして秘書課のサポート。
(また増えた)
だが不思議と、混乱はなかった。
むしろ“整理できる範囲”に見えてしまうのが、自分でも怖いところだった。
⸻
氷室結衣が静かに言う。
「あなたは“調整役”としてかなり優秀よ」
真希は短く答える。
「事実ベースでの評価として受け取ります」
橘理沙が小さく笑う。
「相変わらずね」
氷室結衣もわずかに目を細める。
「感情で動かないところがいいのよ」
その言葉に、真希は一瞬だけ止まる。
(感情で動かない、か)
否定はしない。
でも、それが全てでもない。
⸻
会議を終えたあと。
廊下に出ると、空気が少し軽くなる。
だがスマホを見ると、別の現実が入ってくる。
『企画、今日少し遅くなる』
悠真からのメッセージ。
真希は短く返す。
『了解』
それだけで十分だった。
⸻
その頃、企画部。
悠真は安曇課長の前に立っていた。
「この案、もう一度見直せ」
安曇の声は静かだが、迷いがない。
「論理はいい。ただ“現場の温度”が足りない」
悠真は資料を見つめる。
「現場の温度、ですか」
「そうだ。お前、営業の人間と繋がってるだろ」
その言葉に、一瞬だけ心臓が跳ねる。
だが表情は変えない。
「業務上の連携はあります」
「なら使え」
安曇はそれ以上は聞かない。
ただ淡々と続ける。
「お前の企画は“悪くない”ところまで来てる。そこから先だ」
⸻
夜。
東京の空気は、昼とは違う重さを持っていた。
営業部と企画部、それぞれの残業が終わる頃。
同じビルの中で、別々の時間が流れている。
⸻
真希がオフィスを出たのは少し遅い時間だった。
エレベーターに乗りながら、ふと息を吐く。
(今日も増えた)
でも、嫌ではない。
むしろ、期待されている感覚に近い。
⸻
家に着いたとき。
灯りはついていた。
「おかえり」
悠真の声。
真希は靴を脱ぎながら答える。
「ただいま」
⸻
リビングには、子どもたちの気配はない。
すでに眠っている時間。
静けさだけが残っている。
⸻
真希はソファに座ると、少しだけ目を閉じた。
「今日さ」
悠真が聞く。
「うん」
真希は短く答える。
「秘書課も入ることになった」
悠真の動きが一瞬止まる。
「……まだ増えるのか」
「うん。氷室社長から」
その名前に、悠真は小さく息を吐く。
「それは断れないな」
真希は少しだけ笑う。
「うん」
⸻
沈黙。
だが、それは重くない。
むしろ“当然の共有”だった。
⸻
悠真がぽつりと言う。
「もう、何人分だよ」
真希は少しだけ考える。
「三人分くらい?」
「やばいな」
真希は小さく笑う。
「でも、整理はできてる」
その言葉に、悠真は少しだけ安心したように頷く。
⸻
夜が深くなる。
真希は窓の外を見ながら言う。
「ねえ」
「うん?」
「これ、どこまで行くんだろうね」
悠真は少し考えてから言う。
「分からないけど」
「けど?」
「ちゃんと戻れる場所はあるだろ」
真希は少しだけ目を閉じる。
「……うん」
⸻
その夜。
二人はいつも通り並んで座る。
仕事の話と、家庭の話が同じ机の上に並ぶ。
それでも崩れない距離。
それが今の二人だった。
⸻
外では、また新しい仕事が動き始めている。
だがこの家の中だけは、
どれだけ役職が増えても変わらない場所だった。
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