卒業
卒業
卒業式が終わって中学生活が完結して、最後の思い出に歩いて来いと先生たちに促され、みんなでぞろぞろと校舎の前のニンジン畑を歩いていた。
学校の校舎から少し丘になっているニンジン畑の農道を卒業生たちが覇気のない体裁で上がっていく、一中生ってこんなもんだったんだよな。なんだか今一つアクティブになれない俺たち。
でも本来そのくらいでよかったんだ、いろいろな意味で。これから待ち受ける高校生活では、厳しさに直面して道を誤っていく生徒がたくさん出てくることになる。
いまはやはりポカンと気の抜けた情感の高ぶる寂しさに包まれて、のんびりとした学生生活の余韻に浸っているこの時間を惜しんでいたらいい。
卒業式って、どうして判で押したように曇り空の下なのだろう。小学生のとき、初恋の島田恵理華を見送ったのも、重たい曇り空の下だった。小学校の校門の前で黒いロングコートを着て、すでに大人のようにふるまっていた島田恵里華は、偏差値70の女子高へ進むと聞いた。あいつそんなに頭がよかったのか、少しビビった。
さっきまで無邪気に笑っていた萩野さんが急に泣き出して、みんなと握手して走り回っている。
「翔ちゃんはI高校なんて偏差値30の高校へ進学するなんて、それじゃあ親御さんに顔向けできないじゃないか!何でこの中学三年間、勉強というものをしなかったのか、僕には理解できないよ!」
俺は思わず両手で耳をふさいだ。最後の最後まで源次郎は背中から倒れそうに、空に向かって叫ぶがごとく癇癪を起している。こいつだけはどうにもアクティブだ。
偏差値72の県下一の高校へ進む源次郎には、偏差値30の世界なんて確かに理解できない。誰だって源次郎のように勉強ができるのなら世話も苦労もない。偏差値30の人間だってそれなりの世界に生きているんだけどな。
高校へ入ると堀尾さんはどんな制服を着るのだろう、ニンジン畑で堀尾さんを探した。先に帰ってもういなくなっていた。
さらっと姿を消す、あっさりとした身のこなしの堀尾さんには泥臭い千葉県は似合わない。
まっさらに想いが浮かんだ。ここでさっぱり切れてどうする。堀尾さんに電話してみよう。俺の方から話しかけてみよう。
寝ていても夢にまで現れる堀尾涼子、あれほどの想いをとうとう誰にも打ち明けなかった。一生涯で最も心に留めてしまうほどの恋だったのに、こうして密やかな感覚のままにとうとう同級生という間柄を終えてしまう。
恋が薄まっていく気がした。俺は少し焦った。あの堀尾さんへの思いが消えていく。
小学生の卒業式のあと、校門の前で立っていた島田恵理華に恋一色だった気持ちが、まったく感じられなくなっていた。そのことに不思議な思いがした。
これが卒業という呪文なのか
あの時十二歳の俺の心が、ひんやり冷たく彼女から離れていった。
そして堀尾さんという女子に、気持ちがねじれるほど想いをすり減らしていた感情が、今朝起きたら嘘のように消えかかっている。
どうして、どうしてもっと食らいつかないのか。愛情を感じなかったのか。恋心が二人の青春期の幸せに、眩しく花を咲かせなかったのか。
そんなこと、別に。ただ恋をつかさどる、感情の信号がともり続けただけ。発情した犬のような人としての愛情などない、空虚な妄想。
しかし、少しでも気持ちが残っているうちに、光が消えないうちにその勢いで電話をかけよう。時計の秒針が進むごとに、思いは消えていく。一人の少女の残像が俺の心の中から消滅していく。
電話ボックスに入り、もらったばかりの卒業アルバムを開いて、堀尾さんの電話番号を調べる。めったにかけない電話の受話器を持ち上げプッシュボタンを押した。
二三回、コール音が鳴るか鳴らないかのうちに、本人が待ち構えていたかのごとく、堀尾さんが電話に出た。
「もしもし、吉崎ですけど」
「ああ、こんにちは」
彼女のハマ言葉は、何故か嬉しそうな声音でさっぱりと挨拶をした。
「卒業おめでとうございます」
「うん、おめでとうございます」
どうでもいいセリフから入ってしまった。
「堀尾さん怒ってる?」
「ん?」
「ずっと、ごめん。半年も無視しちゃった。本当に怒らせちゃって」
「ううん、怒ってなんかいませんよ」
「堀尾さんも頑張って」
「はい分かりました、頑張ります」
「それじゃあ」
「うん、またね」
「うん、さよなら!」
発信音の鳴る受話器が、しばらく耳から離せなかった。堀尾さんの「またね」に対して俺は「さよなら」だって。ここで堀尾さんにデートの約束でもすれば始まるものがあったのかも。美少女の堀尾さんと何か起こせるチャンスだったのに。
だけどデートの仕方なんて知らないし? キスをするという意味も知らないもんだし?
ただ好きなだけだった。好きという言葉の意味も、恋という言葉の意味も、俺は何も知らないただの十五歳の幼い少年だった。
「そんな風に終わっていった、先生の中学時代なんですかね」里子はうつむきがちに言った。
「先生、国道歩くのって、けっこう道が遠くて厳しいんじゃないですか?」
「当たり前だよ、二駅分の距離があるんだから」
「先生はこれ、毎日歩いていたんですか?」
「毎日歩いていると、足が疲れる前に頭痛がしてくる。こんな所歩かさせられるから、病気にもなっていったんだな」
「他人事のように言わないでくださいよ。こんなことをさせるのは立派な犯罪ですよ」
里子は顎を出してゼイゼイ言いながら、今にも死にそうな蒼い顔で俺についてこようとしている。
「先生」里子はふいと尋ねた。先生は一悟にも恋の感情が灯っていただけなんですか?
「それが分からないから、これだけ里子との時間を過ごした」
「そうですか、恋って難しいものですね」
お話はここまでですかと、里子はようやく俺になじんできている女子中学生だった。里子は本名を知っている女子ではない。これだけ仲のよさそうな二人でも実は物語の上での人物。十五歳の里子、四十二歳の先生。
「管弦楽部はいつまでも続いて欲しいなあ。あたしが四十過ぎてふと中学時代を振り返れば、やっぱり先生のような心境になって、泣きたいほどバイオリンが懐かしくなって、そして老けた自分を嘆くのかな」
里子は実在する少女のように、あの里子のモデルの子として、遠く将来を見つめた。
俺思うんだけどさあと、里子に言ってみた。
「俺は一悟や里子たちに、何かを残してやれたのかなって考えるんだ」
その次の世代にもずっと後に続く後輩たちにも、俺がいたからという何かが残っているのかな。ひとりごとのように俺は言った。
「全国を狙い続ける伝統とか、それはともかく、第一中学校管弦楽部という一つの場所を、たった一年間だけど守っていたから、管弦楽部は今に続いているんじゃないか。そう思っていいのかな」
いつの時代も、いつのメンバーも、同じように先輩から受け継いで後輩に引き継がせる。管弦楽部という場所があるから、その連続の中で里子もバイオリンを弾いていた。
この後も里子や一悟の存在に守られてこの管弦楽部にスターが生まれたり、そうでなくても部員一人に一つの人生、そういうものが送られていくんじゃないか。
一人ぶつぶつ呟いて考えていたら、里子もポツリポツリと呟き始めた。
「あたしたちだけの全国三位じゃないんですよね。先生たちだけの全国優勝でもないし」
ここからずっと後の世代にまた全国一位とか県大会にさえも出られないとかいろいろなことが管弦楽部にはあるんでしょうね。
あたしたちのほんの少しでも記憶や音のかけらのようなものが、第一中学校のあの大きな音楽室に、もしかしたら残っているのかもしれない。
「里子や一悟がいてこそのN市立第一中学校管弦楽部」
「先生もですよ?」
うなずいていた里子が笑って、ポンとつま先立ちに跳ねた。後ろ手の里子が抱えきれないほどの大きな花束を出した。
「先生、ここで中学校を卒業しましたね、おめでとうございます」
「あ、そうだね。里子にも最初に渡すべきだった。演奏会が終わって卒業だね」
俺も同じくらい、抱えきれないほどの大きな花束を里子のために出した。
「消したいことなんていくらでもあります。いやなことや失敗したことは誰だって全部消してしまいたい。
だけどとても消すことの出来ないこととか、消してはいけないこともあるものです。消そうとしなくても、いつの間に消えてしまうこともあるし。
人生ってそんなものです。だから役に立つかどうか知りませんが」
そう言って里子は一中バッグのチャックを開けた。あふれんばかりの消しゴムが入っている。一悟、消しちゃったら怒ってるかな、謝らないといけないかも。
「帰りましょうか」
「うん、帰ろうか」
二人で気を取り直して国道を歩いた。日が傾いて街が朱に染まる。あたし疲れた、もうやあだー!と里子が大声で叫んだ。
了




