深い泉
二年生の一悟
一悟との出会いから一年後、つまり一悟が一学年上がったときの管弦楽部の演奏会を聴きに行った。
もう一度、一悟と同じ場所に存在したい。もし一悟が今年度三年生だとすれば、この日が一悟にとって最後の定期演奏会となる訳だから、この演奏会だけは絶対に外すわけには行かない。果たしてY駅の前でトランペットのケースに座り込んでいたあの少女が、このステージに現れるのか。一悟は本当にトランペットを吹くN一中管弦楽部の部員なのか。
会場にやってくる聴衆は、N一中管弦楽部の固定ファンや、部員の家族の他に中学生の年頃の子どもも聴きに来ている。純朴そうでも体にフィットしたジャンパーが胸のふくらみを誇張している少女。そうかと思うと三十年前と変わらない、一中ジャージと呼ばれるグレーの色をした、学校指定の体操着を着たまま会場内に入ってくる三人連れの女子もいた。
「来てたんですね」
ふと里子が俺のとなりの席に腰を下ろして、挨拶代わりにそう言った。
「里子も聴きに来たのか?」
「あたしはステージの上でバイオリンを弾いています。あたしだって管弦楽部員です」
里子って、本名はなんて言うんだ? そう聞くと隣の里子は、もう消えている。パンフレットを見ると一悟の本名が書いてある。やっぱりあの子はここに現れるんだ。
Y駅で撮った写真には、一中バッグに張り付けた一悟の名前がばしっと写っていた。里子の名前もその写真ではもう少しで読めるけど、残念ながらぼやけている。
演奏が始まったら、ビデオカメラを構えて一悟をトランペットのあたりに探した。すると、妙にカメラ映りのいい女子がひとりトランペットを持って座っている。
本当にいるの? 本当に一悟なの? 会いたい人に出会える劇的な舞台。そんな幸福がまさか本当にあるなどと、そんなことありえるの?
しばらく放心状態で、みずみずしくも愛らしい銀色の楽器を口に当てている一悟の姿を見つめていた。
「一悟」と言うのは確かにトランペットで今年度は中学二年生だった。と言うことは、一年前、駅前でたむろしていたのは、一悟が中学一年生から二年生へ上がるという頃のことになる。
あのちょうど十三才の春に、俺は合宿を逃亡して大阪まで逃避行をしたわけである。一悟を見つめると、彼女にはそんな暗い影は見られない。健康的で中学生らしい若さを表現する顔つき。ステージに上がって晴れがましく、背筋を伸ばしてまっすぐに客席を見つめる。くりくりと動く少女の大きな目。
一悟たちはこの年、全国どころか県大会のステージに上がったまでの成績だったらしい。すると会場を見渡しても、管弦楽部の定期演奏会ともあろうが、聴衆がホールの三分の一ほどにしか入っていない。
わずかに五百人ほどの客だろうか。中学の部活としてはこのくらいの熱の入れ具合が本来いいのかもしれない。当然チケットはタダで、演奏会も祝日の午後二時から行われる。
一悟は頬に笑みを浮かべて、瞳は遠くをしっかり見つめる、出番が来るとまっすぐにトランペットを構える。一生懸命に音を鳴らしていると小さな額が次第に赤くなっていく。
鼓動が聴こえそうなほど力を入れて音を出す。そのトランペットの音が止まると、一悟の顔はすっと色白の肌に戻る。
一悟なんだ。本当に一悟なんだ。切なく会いに来た感情が、心の奥底で歌を歌うような感情となって、誰にも立ち入られない深い泉で、優しくひっそりハーモニーが奏でられる。




