お坊ちゃん、長兄に呼ばれる
石を投げていた。
まだ子どもである梅畑涼介には、求めてもどこにも自分の居場所がなく。川辺へ向かい、ただ石を投げ、それが飛んでいくのを眺めていた。
(つまんないな)
もう何回目なのかわからないぼやきを胸の内で呟きまた石を投げていると、いつの間にか隣へ一人の少女がやって来ていた。ピンクのふわふわしたワンピースに白い靴を身につけた少女は、傍へ寄ってきて石投げをしたそうな素振りを見せた。
最初は面倒くさいと思っていたけれど、涼介は少女の世話を焼かざるを得ないような気がした。何度目かの石投げで、少女の投げた石が見事に水面へ飛んだ。成功した少女の嬉しそうな微笑みが、暗い心を軽くしてくれる。
(もっともっと、喜ばせてみたい)
手品をやってみせたらこの笑顔を長く見ていられるだろうか。涼介はコインを取りだし、少女の前で消えるコインの手品をしてみせた。けれど、少女は驚いた表情を見せた後、とんでもないことを言ってきたのである。
「ロクな大人にならないからあ」
走り去りながら投げかけられた言葉に、思考が停止した。ショックで顔も上げられない。それどころか腹まで重くなってきた。
(苦しい。息ができない。誰か、僕を助けて!)
必死の思いで手を伸ばすと、そっと小さな温もりが重ねられた。
「おーじーちゃま!」
あり得ない声が聞こえ、涼介は耳を疑う。
「おじちゃま! おじちゃまってば!」
声とともに頭へ衝撃が走り、涼介は目を開けた。目前にピンクのワンピースを身にまとった、可愛らしい少女の顔がある。肩まで伸びた黒い天然パーマを白いレースのリボンで飾り、栗色の瞳がきょとんと見つめていた。
「どきなさい、由真」
涼介は呻きながら腹部に乗っかっている姪っ子を捕まえ、よっこらせ、と起き上がる。
「あー」
夢と同じ色のワンピースが目の端に踊り、涼介は頭を抱えた。
爽やかな朝が恨めしい。
窓からは柔らかな日差しがさしていて、さえずる小鳥の声はこんなにも清々しいというのに。
何だって今更あんな夢を。
『ロクな大人にならないから』
夢の中の少女が言い捨てていった言葉が心に刺さる。涼介は頭を軽く叩き、沈み込みそうになる気持ちを無理やり外へ追い出した。
「おじちゃま、だいじょうぶ?」
心配げに尋ねてくる栗色の瞳に小さく頷く。
「いいから。ここからどいて、お母様の所へ行ってなさい」
両頬をなんとか持ちあげて、ゆっくりとした口調で退去を促した。
「はーい」
由真は元気よくベッドを飛び降り、部屋を出ていく。一人になると、涼介は額に手をあて低く呟いた。
「頭痛え」
こめかみを抑えながら洗面所へ向かい、鏡に映った自分を見つめる。今日はなんだかツイていない。幼い頃の嫌な記憶を夢に見るなんて。
無精髭の生えた頬を撫でる。
「確かにロクな大人になってないよな」
しみじみとひとりごちて、溜め息を落とした。
着替えて階下に降り食堂へ顔を出す。専属料理人の佐々倉武が、神経質そうな顔を一ミリも崩すことなく一礼してきた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
軽く手をあげ席に座ると、まもなく温かな朝食がテーブルへ並べられる。若い頃高級ホテルの料理人となるべく修行を積んできた佐々倉は、祖父母のどんな無理難題も完璧にこなしてみせる男だ。なんでも念願叶って老舗のホテルで料理長をしていた時、会食に訪れていた祖父に見染められたのだとか。
「かぼちゃのスープとスクランブルエッグにサラダでございます。飲み物はいかがいたしますか?」
「あー、とりあえずミルク。それからブレックファーストティーで頼むわ」
涼介は朝の定番を注文する。かしこまりました、と佐々倉が頷き準備に取りかかった。白いコック然とした制服をひるがえし、無駄のない動きを見せる。涼介は目の前に並べられた料理を眺め、ナイフを手に持った。カリカリのベーコンを切って卵にのせ口に含みながら、今日の日程についてあれこれ考えを巡らせる。
(どうするかなあ)
バイトは一日休みだし、講義もすべて休講だ。とはいえ、日頃からバイトばかりに精を出していて、講義もさぼりがちである。
(一応ゼミには顔を出すかな)
焼きたてのトーストにバターを塗りながら考えていると、ふいに横合いにある扉が開いた。
「おはようございます、涼介様」
一礼して入ってきたのは、黄梅市長を務めている長男、雅秋の秘書、吉田隆文だった。
「ああ。おはよう、吉田さん。何か用?」
涼介はバターナイフをガラスの器に戻しながら、なんの気なしに吉田へ応じる。吉田が細面の顔に柔和な笑みを浮かべ、口を開いた。
「雅秋様がお会いしたいそうです」
吉田の言葉に、涼介は運びかけたトーストを口から離して目をまたたく。
「兄さんが? それって今すぐ?」
尋ねると、吉田が笑みを収めて頷いた。
「できれば」
「俺見ての通り食事中なんだけど」
恨めしげに呻いてみせると、吉田が頭を下げる。濃紺のスーツにきっちりと絞められた銀色のネクタイの光沢が、障子越しに差し込む光で鈍く輝いた。
「申し訳ございません」
「吉田さんが謝ることじゃないよ」
涼介は肩をすくめ、トーストを一気に平らげ席を立つ。去り際、佐々倉へ今日もうまかったよ、と声をかけると、佐々倉が嬉しげに口元を綻ばせた。涼介はそんな佐々倉に笑顔で応じた後、吉田とともに食堂を出て長男の書斎へと向かった。