頑固おやじ、煎餅屋を頼る(朝川)
≪ 山波善郎視点 ≫
「もう大丈夫かしら?」
辺りを覗いながら呟いてくるみのりに、善郎は頷く。
「ええ、たぶん」
そっと表通りを見渡すと、道路の遥か向こうから黒点がちらついた。咄嗟に出していた顔を引っ込ませる。しばらくすると、車輪の回る音とともに陽気な鼻歌が聞こえてきた。
(追手、ではないようだが……)
用心しながら相手を覗う。声の主は女性だった。ベージュの上着を着て、前籠には小ぶりのバッグが入っている。この時間にここらを走っているということは、主婦だろうか。どこへ向かうのかは謎だが、えらく上機嫌なのはわかる。
(ともかく、どうやら危険はなさそうだ)
ほっと一息吐いていると、ふいに今まで嗅いだことのない香りを感じた。
(なんだ? この匂いは……)
かすかに薫るその香りは、梅のような、それよりもさらに甘く爽やかな感じがする。
(疲れてるのか、俺は……)
善郎は通りすぎる自転車を壁越しに見つめる。香りはこの女性から漂ってきているような気がした。とはいえ、今はそんなことにかまっている暇もない。善郎は自転車を路地裏でやりすごし、みのりへ視線を送った。
「……こっちです」
怪しまれない程度に気を張りつつ路地裏から表通りへでる。後ろへついていたみのりが、小走りで横へ並び尋ねてきた。
「お煎餅屋さんは、近いのですか?」
「ええ。もうすぐそこです」
前を歩きながら、左側にある年代物の寂れた軒先を顎で示す。早足で店の前まで歩き、小さく手招きをした。
「着きました。ここです」
告げながら、店内へ入っていく。
「ここが……勝手に入っても良いんですか?」
戸惑った様子のみのりをよそに奥へ向かって声をかけた。
「おーい! たっつあん! いるかい?」
「おうー」
すぐに間延びした声が返ってきて、店の奥から辰好が気だるげな様子でやってきた。
「善ちゃん、なんだい?」
煎餅屋の主人、新田辰好が欠伸をしながら尋ねてきた。
よほど暇だったのだろう。首を鳴らしながら、あー、とだらしなく呻いている。善郎はこれ幸いと内心で万歳をして辰好を見上げた。
「たっつあん。ちょっとしばらく寄らしてくれんかね」
「それはかまわんが。なんかあったのかい? ……そちらのお嬢さんは?」
目をしばたたく辰好の顔からは、先ほどの気だるげな色が消えている。これは少々厄介なことになりそうだと思いつつ、善郎は顎に手をあてて説明を試みた。
「おう、実はな……あーなにから話したらいいやら……」
話すべきことが多すぎて、正直対処しきれない。背後に控えていたみのりの顔を一瞥すると、万事心得ていたらしい彼女がゆっくりと頷いてきた。
「山波さん、それは私が……」
「すみません。お願いします」
詫びを入れて一歩下がると、みのりが辰好へ近づく。
「はじめまして、梅宮みのりと申します」
「はあ……って、梅宮!」
優雅にお辞儀をするみのりを見て、辰好が目を剥いた。
「はい」
にっこりと微笑むみのりの面は、よく見るとどこかとってつけたような印象がある。
(どっかで見た気がするんだが……)
首をかしげていると、ふとあの碧という側近の笑顔を思い出した。
(なるほどなあ……)
主従は互いに似てくると時代劇か何かで言っていたが、この場合どちらが影響を受けたのやら。などといらぬことを考えていると、辰好が困惑しきった様子で視線を送ってきた。
「なんか知らんが込み入った事情のようだな、善ちゃん」
「すまん。たっつあん」
片手で拝むしぐさをして謝ると、辰好は軽く手で膝を打つ。
「よし、まずはあがってください。汚いところで申し訳ないですが」
奥を示しながら告げてくる辰好に、みのりが丁寧に礼を述べた。
「こちらこそ、突然訪問しましたのに感謝いたします。お邪魔します」
三和土から上がると、きれいに靴を揃えてから片手に持つ。善郎はそのまま辰好の後をついていった。居間まで案内してくれた辰好が、申し訳程度に座布団の埃を払ってみのりへ差しだす。
「座ってください。今お茶を入れてきますんで」
「お構いなく」
躊躇もなく座布団へ座るみのりに、善郎は苦笑した。
(こういうところはやはりお嬢様。いや、というよりは子供ってことかねえ)
たわいもないことを思いながら卓袱台の前に座りこみ、みのりへ話しかける。
「たぶんここにいればしばらくは安全だと思いますが。これからいかがしましょうか?」
「そうですね……」
しばし顔をさげ考え込んだみのりが、やがて一息つき口火を切った。
「もう少ししたら、山波さんのお宅へ向かいましょう。敵を撒いて碧たちもそちらへ向かっているはずですから」
「わかりました」
思いの他硬い口調で紡がれた言葉に、善郎は背筋を伸ばして神妙な心持ちで了承する。ぴんと張りつめた空気の中、家の主である辰好がお盆を持って戻ってきた。
「お待たせいたしました。粗茶ですが。あと、これはうちの煎餅なんですが。よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
煎餅を目にして嬉しげに微笑むみのりはやはり年相応に見える。善郎は口元を綻ばせ、幸せそうにお茶をすする少女をしばし眺めた。




