頑固おやじ、朝を楽しむ
「朝か……」
窓辺から流れ込む光の眩しさに目を細めながら、山波善郎は布団から起き上がった。昨晩、町内会の会合で少し飲みすぎてしまったらしく、身体が鉛のように重く感じる。
「おはようございます」
重い足を引きずり階下へ向かうと、細君の和子が声をかけてきた。
「おう、おはよう」
首をかきながら返答し、ラジカセを持って庭へ出る。ラジオをチューニングすると、爆音にならない程度に音量を落とした。アナウンサーの明るい声とともに、体操開始のメロディが流れ出す。善郎はステテコ姿のままタオルを首に巻き、陽気な音楽に合わせて身体を動かした。
やはり運動はいい。心を爽やかにしてくれる。音楽の終わりとともに深呼吸をして、居間の箪笥から馴染みの服装を取り出した。
黒のハイネックシャツに黒のズボン。黒い足袋型の靴下を履くと工場に向かう。神棚の水を替え柏手を打ち、日々の平穏を感謝し今日の無事を祈った。玄関先で新聞を取り台所のテーブル席に着く。一面から小さく声を出しながら読んだ。ゆっくり新聞をめくっていると、朝食の準備を終えた和子ができたての料理を目の前に置き始める。
「どうぞ」
「ああ」
柔らかに声をかけられたのを合図に新聞から顔を上げる。ご飯に味噌汁、焼き鮭にほうれん草のおひたしと卵焼き。いつも通りの食事に満足し、味噌汁に口をつける。
「うまい」
呟いていると、二階から慌ただしく階段を駆け下りる足音が響いた。
「おはよう、父さん母さん!」
オフホワイトのスーツを着た一人娘の芽衣子が、黒いバッグを居間に放り投げながら挨拶をしてきた。
「ああ、おはよう。お前、少し乱暴じゃないのか?」
軽く諌めてやると、芽衣子はだって、と肩を竦めてくる。
「時間がないんだもん」
「ならもう少し早く起きろ」
「そうだけど……」
不機嫌そうに語尾を濁らせた芽衣子をよそに焼き鮭を摘んでいると、和子が娘へ話を振った。
「あんた、朝食は?」
「もちろんいただきます!」
「じゃあ、早く座りなさい」
「はーい」
芽衣子が席に着くと、和子もエプロンを取り椅子へ腰かける。
『いただきます』
2人が同時に声を出すのを聞きながら、善郎はいつも通りな朝の光景に満足していた。
食事の後ゆっくり茶を飲んでいると、洗面所から出てきた芽衣子が慌ただしく玄関へ向かっていった。
「行ってきまーす」
怒鳴るように声をかけてくるので、返答する。
「おう」
「いってらっしゃい」
妻がお茶のおかわりを入れに立ち上がるのを見て、善郎は時計を見た。
「俺もそろそろ行くかな」
残りのお茶を飲み干すと、和子が振り返ってくる。
「あなた、お茶のおかわりは?」
「ああ、じゃあ、もう一杯」
頷き湯飲みを差し出したところで、再び玄関から声がかかった。
「お父さーん」
「なんだ、まだいたのか?」
玄関を振り返ると、芽衣子が何やらもじもじした様子で問いかけてくる。
「あのね、今日のお昼頃って忙しい?」
伏し目がちに尋ねてくる娘へ、善郎は首を横に振った。
「いいや。まあ、暇でもねえがな。なんだ? 何か用か?」
「うん。あの、あのね。実は会って欲しい人がいるの」
娘の言葉に善郎は何度かまばたきをした後席を立った。ついに来たか、と善郎は内心で飛びあがらんばかりの気分だった。この時をどんなに待っていたことか。近所で芽衣子がなかなかの好青年と歩いているのを見かけた、と噂にはなっていたが。自分はそんな場面に一度も出会った試しはなく。いったいどんな人物が自分の息子になるのだろう、と日頃から夢想していたのである。
(ついに婿を捕まえたか! よくやった!)
善郎はともすれば緩みそうになる面をなんとか制御し、何食わぬ顔で芽衣子へ尋ねた。
「会って欲しいって言ったって、会ってどうするんだ?」
問いかけると、芽衣子がためらいがちに答える。
「昼食でも一緒にどうかな、って」
「そうか」
眉間に皺を寄せて頷くと、芽衣子が不安げに首をかしげてきた。
「だめ?」
こういう甘えた姿は幼い頃と変わらず愛らしい。相手は娘のこんなところを気に入ったのだろうか。
「わかったわかった。だから早く仕事に行ってこい!」
崩れそうになる顔を必死で堪えわざと邪険に手を振ると、芽衣子の表情が途端に和らいだ。
「ありがとう、お父さん! じゃあ、行ってくるね!」
手を挙げて玄関の引き戸を開ける娘に、声をかける。
「おう、いいから急げよ!」
善郎は怒鳴りながら、緩んだ頬を妻に見られないよう湯呑みで隠した。
2杯目のお茶を飲み干したあと、妻に挨拶をして工場での仕事を開始した。今日は10冊ほどの能の台本を直すことが主な仕事だ。お得意様からの注文だが急ぎではない。小さな輪転機の前で板の間に座布団を引き、床下から糊と古糊を木枠に入れる。水を少しだけ足してヘラで力をこめて練り始めた。乾かないように、ムラにならないように。とにかくよく練り続けることが第一の作業となる。
ひたすら練ること数十分。よく練られた糊と台本の書かれた紙を前に置き、一枚ずつ丁寧に貼り合わせていく作業に入った。だが、今日はなぜか落ちつかない。壁掛け時計が鳴る度にちらりと確認しては、昼の訪れを心待ちにしている始末だ。
「ええい! ちくしょうめ!」
善郎は叫んで立ち上がり、自宅へ戻った。




