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第5話「勇者とゴブリン」

 勇者たちが二股の分かれ道にさしかかったのはかれこれ30分も前のことだ。

 その間ずっとどちらに進むか口論している。

「だから右の道を行けば近いんですよ」

 と主張するのはアリスだ。サシャは彼女に賛同している。

「俺はこっちがいいと思うけどなあ」

 勇者は草むらの中に転がっている丸太に腰掛け左の道を指さした。セシリーは彼の後ろから首に手を回しべったりとくっつきながらうんうんと頷いている。

 3人で旅をしていた時、意見が別れると決まってアリスが少数派になっていた。

 彼女がマイノリティな意見ばかり言っていたからといえばそうではない。

 むしろ常識から外れたことを言うのは勇者のほうだった。

 しかし彼にはセシリーがいた。彼女は惚れに惚れているから勇者の言葉に反対することはまずなかった。

 だから多数決は意味をなしていなかった。

 だが今はサシャという新しい仲間がいる。

 彼女には何故か勇者を過大評価している面があった。だからといってセシリーのように彼の信者ではない。

 むしろ常識的な意見の持ち主だったからアリスの側についた。

 2対2ならば最後に通るのは正しいほうだ、とアリスは信じている。

 それにこれまでないがしろにされてきた鬱憤をはらすべく一歩も引かないという気合いがメラメラと燃え上がっていた。

 右の道は山の裾に広がる森を通るルートだ。

 森と言っても山から少しはみ出している程度の小さなもので、かつ道もしっかり通っている。

 左の道は森はないが山を大きく迂回するため遠回りになり、旧道のために道の整備もされなくなって久しい。

 普通の旅人なら右の道を進むだろうし、アリスも何度も説明をしているのに勇者は、

「こっちがいいと思う」

 とふわふわしたことを言うばかりだった。

 そんなことを30分もやっていたのだ。

 勇者はうーんとうなった後ポンと膝を叩いた。

「しょうがねえなあ。お前がどうしてもって言うから仕方なく、仕方なく譲ってやろう。仕方なくな」

「回りくどいですよ」


/*/


 最初に気が付いたのはサシャだった。

「おい」

 少し緊張した低い声で注意を促す。

 アリスはすぐさまあたりに視線を走らせる。

 四方の木々、茂みの影からそれは現れた。

 いつの間にか囲まれていたのだ。

 それはゴブリンと呼ばれる魔族だった。

 くすんだ汚い緑色の体色。醜悪な顔。頭が大きく、そのくせ異常に矮躯で人間の子供ほどの背丈しかない。だが小さな体に見合わない大力の持ち主だった。

 数はざっと20。各々が棍棒や石斧を持っている。

「いつのまに、なんで!?」

「言っても仕方ねえだろうが」

 サシャが腰から剣を引き抜いた。アリスも続いて小刀を構える。臨戦態勢に入った。

 そのうしろで。

「あーあーあ~! だぁから俺が言ったろう。左の道にしようって」

 気の抜けるような声にアリスが振り返れば勇者はまだ剣を抜いていない。

 それどころか肩に手を回した手でセシリーの乳房を揉みしだいているではないか。

 一瞬、アリス固まる。

 勇者の左手が動くたびにセシリーの甘い吐息がわずかに漏れる。

 ハッとしてアリスは視線をそらした。耳まで赤くなっている。

「な、なにをっ、どういう状況かわかってるんですか!」

 アリスは右下に転がっている石塊を見つめたままで怒鳴った。

「人の忠告を無視して右の道を選んだのは誰だっけか」

「まるでわかってたみたいなことを」

「わかってたさ。なあ、セシリー」

 アリスとは違った意味で赤く火照った顔のセシリーは声にならない声で頷いた。

「看板に書いてあったものな」

「看板? そんなもの……」

 言いさしてハッと顔をあげ、また伏せた。アリスの顔はさらに赤くなっている。

「まさか勇者さんの座ってたあの丸太!」

「今さら察しがいいな」

 分かれ道で勇者が座っていた丸太の先にゴブリン注意の看板がついていたのだ。

 だが茂みに隠れていて見えなかった。立っていたアリスたちには。

「なんで教えてくれなかったんですか!」

「だから左に行こうって言ったろ」

「理由を言わないから」

「気づかないのを棚にあげてか」

「嫌な人!」

 ニヤニヤと笑う勇者を罵る。また別の意味でアリスの満面は真っ赤だ。

「いいから! 後にしろよ」と叫ぶのはサシャだ。

 ゴブリンたちの作る輪はだんだんと小さくなってきている。

 その輪の中で一番年かさのゴブリンが一歩前に進みでた。

 もっとも人間にゴブリンの顔の見分けはつかない。

 そいつは言う。

『荷物をおいていけ。そうすれば見逃してやる』

「ピイピイ喚きだしやがって。ときの声のつもりか」

 しかしサシャの応えはこれだ。

 つまり言葉が通じていないのだ。

 ゴブリンの言葉は猿か豚が鳴いているようにしか聞こえなかった。

「勇者、はやく抜けよ。俺たちで蹴散らすぞ」

 サシャはいよいよやる気だ。

 勇者はため息をついた。わざとらしく肩をすくめ首を振る。

「どうしてそうかね、お前らは。魔族と見たら剣を抜いて殺すことしか考えない」

「なにいって」

「俺は俺の敵としか戦わないって決めてんだ」

 そう言うとサシャを押しのけ年かさのゴブリンの前に立った。

『見逃してやるたあ穏やかじゃねえなあ』

 勇者のその声はサシャたちにはやはり猿か豚の鳴き声にしか聞こえなかった。

 つまりそれは完璧なゴブリンの言葉だった。

『追い剥ぎをやるってんなら相手になるぞ。だけどお前らはそういう奴じゃないものな』

 見た目は醜悪で化け物としか言いようがないが、だからといって凶暴なわけではない。

 ゴブリンが人間を襲うことは滅多になかった。

 なぜなら彼らは人間が思うほど愚かではなく人間にかなわないことを知っているからだ。

 この大陸でもっとも数が多い生き物。それが人間だ。

 戦いにおいて数は絶対ではないが少ないより多いほうが有利なのは間違いない。

 まして人間は数が多いだけではない。

 襲えば必ず仲間を引き連れ報復にくる。

 どうしてそんな相手と事を構えようか。

『理由があるなら言いな。ことによったら手助けしてやる』

 なんと勇者が自ら助力を申し出たではないか。どうしたというのか。

 この驚きをアリスが知ることができないのが残念である。

 彼女の耳には相変わらず獣の呻き声にしか聞こえていなかった。

 年かさのゴブリンは仲間と視線を交わし合い逡巡したのち、

『薬が欲しい』

 と言った。

『薬ねえ。怪我か、病か』

『病気だ』

 ゴブリンたちの群れの長が床にふせているという。

 そのため薬が必要だった。

『でもよう。おかしいじゃないか』

 そう、おかしいのだ。

 確かに群れの長が病気で倒れているということは重大事ではあったが人間を襲う理由にはなり得ない。

 なぜなら彼らにはゴブリンの秘薬と呼ばれる万能薬があるからだ。

 塗れば傷を治し、飲めば病を癒やすと言われる秘薬が。

『作れない。作れないのだ』

 勇者は首を傾げる。

『どうして』

『アルモの花の根がないのだ』

 それは秘薬の材料の一種だった。

 勇者はまた首を傾げる。

『だってお前ら。育ててないのか?』

 農耕をせず狩猟と採集に依る原始的生活を送っているゴブリンだが唯一アルモの花の栽培だけはしている。

 秘薬は人間のような医療技術・魔法を持たない彼らにとって群れの生命線であるからだ。

 群れが2つに別れるとき、例えそれが喧嘩別れであったとしてさえ元の長からもう一方の長へアルモの花の苗が送られる。

 もはや本能として根付いているものを怠るとは考えにくかった。

『とうぜん育てている。いるが花園に悪魔が住み着いたのだ』

『悪魔?』

『黒い悪魔。堕ちた翼トカゲがな』


/*/


「――というわけだ」

 奇声を発しゴブリンと交感をやめた勇者は事の次第を説明した。

「信じられません」

 アリスがまっさきに口を開き勇者の目を見てもう一度同じ事をつぶやいた。

 まず人間より劣るとされている魔族の中でもさらに低脳で知られるゴブリンが言葉を持っていることが信じられなかった。

 それが言葉の体をなしているならともかく猿の鳴き声をより醜悪にしたようなものだからなお信じられない。

 次に人間の敵である魔族を助けようと言うのが信じられなかった。

 敵なのだ。しかも勇者は魔王を倒そうとしているのにその末端であるゴブリンを助けようと言うのは矛盾ではないのか。

 だいたい人間相手にすら容易それをしない勇者がゴブリンを自分から助けようと言うのがさらに信じられない。

 とにもかくにも、

「信じられない」のである。

 勇者のことよりもより衝撃が大きかったのかあるいは順番に処理しようというのかアリスはまずゴブリン語に言及する。

「そんなこと教科書には載ってませんでした」

 アリスのそろそろ20年になる生涯で学んできたことの中にそれはなかった。

 勇者付記録官の国家試験に通っている彼女だから知識にはそれなりの自信を持っている。

 だがゴブリン語なんてものはまるで聞いたこともなかった。

「ならひとつ賢くなってよかったじゃないか」

 こともなげに勇者は言う。

「だいたい頭が悪いと決めつけて知ろうともせず事実を突きつけられてなお信じられないとか言ってりゃ進歩もないぜ」

 さらりと吐かれた毒にアリスは言葉を継げない。いつになくまともなことを勇者は言っていた。

 そこでサシャが疑問を口にする。

「どうしてしゃべれるんだよ」

 大陸中の学者だって知らないことを勇者が知っている。当然の疑問だ。

「そりゃああれだ。昔とった首塚ってやつ?」

 言っていてしっくりこないらしく首をひねる勇者にツッコミが入る。

「それ…を…言うなら……米ぬか」

「どっちもちげえよ!」

 サシャは思わず叫ばされた。

 しょーもない重ねボケでなにやらはぐらかされてしまったようだ。

「敵だってことには変わりないじゃないですか」

 意味のないやりとりの間にアリスが復活していた。

 確かに言葉を喋れようがゴブリンはゴブリン。魔族であることに変わりはない。

「敵ってなんだ? こいつらが魔王の手下だとでも言うのか。土着だぞ」

 今彼らがいる場所は中原にも達していない大陸東部であり魔王軍の勢力圏にはかすりもしない。

 そんなところのゴブリンが魔王に組みしているはずがなく昔からこの森に、山に住んでいるのだ。

「それでも魔族です」

「だったらお前はハンガスで名前も知らない誰かの両親を殺した罪人と同じ人間だからって理由で処刑されても文句はないのかよ」

「それとこれとは」

「同じだろう。個の問題を全体に押しつけるな」

 ゴブリンが人間と敵対する魔王と同じ魔族だからという理屈が通るならどこかの誰かの罪をアリスがかぶらなければならない。

「どうして魔族の肩を持つんです」

「持っちゃあいないさ。俺だって魔王は大嫌いだ。けど敵は選ぶ。それに」

 急に声を潜めアリスの顔に近づける。

「あそこの茂みとむこうの、見るな。むこうの木の上。まだ奴ら数がいる」

 勇者たちを囲んでいるのが20。さらに隠れているのを足せば50は下らないだろう。

「別に戦ってもいいがどうする?」

「そういうことならそうと」

「肩なんざ持ってないって言ったろ」


/*/


 言葉を弄し真面目に思想を語ったと思えば結局はそれは難を逃れるための作でしかなかった。

 敵が20ならば戦う気のない勇者を除く3人でも切り抜けることができただろう。

 しかし50となれば例え勇者を戦力に加えたとしても4人のうちの誰かが致命的な怪我を負うのを避けられない。

 個々の能力で言えば勇者、サシャはもちろんアリスですらゴブリンに後れをとることはないだろう。唯一近接戦の素養のないセシリーだけは彼らに劣るが3人で庇いながら戦えば問題ないレベルだ。

 とはいえ戦いにおいて数の力は無視できるものではなく、10倍以上となればいくら相手が能力で劣っていようと話にならない。

 そういうわけで勇者は自分から助力を申し出たのだ。

 最初からそのことを説明していれば、とアリスは頬を膨らませてふてくされたがそうしていても真面目な彼女だからやはり口論は起きただろう。

 多くの人間がそうであるようにアリスは魔族の全てを敵と考えていた。それはこの時代の人間にとって当たり前の考え方だったし、王都で育ちそれなりの教育を受けた彼女ならばなおさらだ。

 とはいえ漠然とした敵愾心があるだけで具体的な恨みを持っているわけではなく、かつ勇者のちゃらんぽらんさに触れてきたおかげかゴブリンを助けることに渋々と同意した。

 勇者たちはゴブリンに連行されるように山のふもとにある彼らの住処である洞窟に案内された。

 その入口を守っていた別のゴブリンと勇者たちを連れてきたゴブリンの間で一悶着起きたのだが勇者が割って入りなにか言うとその場にいた全員が爆笑して騒動はおさまった。

 当然そのやりとりはゴブリン語だったのでアリスたちは理解できず、勇者に尋ねても意味ありげに笑うだけで答えない。

 結局この時勇者がなにを言ったのかはわからないが彼らを爆笑させるジョークを言えるほど彼らに精通しているのは確かだ。

 洞窟の中を進む間もどうして人間が、と奇異の目で見られたがそのたびに勇者はなにかを言って笑わせ、あるいは口説いた。

 あまりに普段と変わらぬちゃらんぽらんさにアリスは呆れもしまた安堵もした。敵中にいながら平生と変わらない姿が頼もしく思えたのだった。

 最深部につくと彼らはゴブリンの族長と謁見し正式に助力の約束をした。

 しかし謁見とは言っても形だけのものだった。

 確かに彼らは族長の前に通されたが交わした言葉はない。口もきけないほどに族長は衰弱していた。

 しかもその様は、

「病気……じゃありませんよね」

 アリスはためらいがち言い、サシャが頷く。

 寝たきりのゴブリンの族長は見るからに高齢でやせ細っており、だからいって病に侵されているというわけではない。

 それは老衰、老いによる衰えであり天寿を迎えようとしていると一目でわかるものだった。

「だから?」

 勇者がやや冷たい声で突き放すように言うのでアリスたちは困惑して言葉に詰まる。

「だから、その……意味ないんじゃねえかって」

 いかにあらゆる怪我、病気を治す秘薬と言っても老いは病気ではない。それこそ不老不死の薬でもない限り助けられないのだから秘薬の材料となるアルモの花を採ってきたところで意味がないのではないか、と彼女らは言いたいのだろう。

「奴らだってわかってるだろうよ」

 族長のまわりを固める大人たちは勇者たちを連れてきた若いゴブリンから事情を説明されると顔を見合わせ、座を改め勇者たちに深々と頭をさげるという場面があった。

「お前らは無駄だと言うが自分の親が同じ状況でもそう言うのか? 何をしても意味がないから放っておくのか?」

「それは」

「ゴブリンじゃなく人間だったら例え見ず知らずでもそんなことは言わないんじゃあないのか」

 そう言われてしまえばアリスらは言葉を継げない。

「まあ軽くみる気持ちもわかるけどな」と勇者はふざけて笑う。

 セシリーは関係ないという様子で始終黙っていたが話が終わったとみるや口を開く。

「トカゲ…って…なに……?」「トカゲ?」

 勇者は一瞬なんのことかわからずに首を傾げかけるがひらめいて手を打ったもんだから変なポーズになる。

 セシリーが尋ねたのは勇者とゴブリンの会話にでてきた「黒トカゲ」のことだった。

「トカゲっつーのは竜だ、竜。蔑称だな」

 人族、魔族、そして竜族。大陸に生きるものを大別するとこの三つとなる。

 竜族は神の使いあるいは神そのものとして神聖視されている。

 また彼らは清浄な空気の中でしか生きられず高山など到底人間には踏み入れられない場所に住み暮らしている。

 しかし時折人里に迷い込み人間界の空気にあてられ正気を失う竜がおり、それを邪竜と呼ぶ。

 この邪竜がゴブリンたちの花園に居着いてしまったのだ。

 放っておけば三ヶ月ほどで障気に蝕まれ命を落とす。

 とはいえ気の狂った邪竜が暴れるのを三ヶ月も放置しておけばその被害は尋常ではない。

 まして今回は族長の容体を考えれば三ヶ月など永遠に等しい。

 そのため邪竜は退治するのが通例となっている。

 が、

「竜なんて、そんな!? そんなのどうしろって言うんですか」

 アリスはこれ以上ないというほどにうろたえている。

「落ち着けよ。俺たちには勇者がいるんだぜ」

「この男が何の役にたつって言うんです」

 サシャのなだめる言葉もまるで届かずこんなことを言う始末。

 思わず本音がポロリとでたが名前だけで建前と冷静さを吹き飛ばす危険な存在だということだ。

 事実、サシャの父は百からなる兵を率いて邪竜討伐を試みるも返り討ちにあい死にかけた所を勇者に救われるた、という過去がある。

 サシャはこの話を父と勇者の口から聞いていたので彼を信頼して落ち着いていられる。

  しかし彼女は勘違いをしていた。

 勇者は邪竜を倒したとはいえ、サシャの父・ブルドル候とその麾下百名によって瀕死の状態にされたものを倒しただけである。

 最後の一撃。とどめの一発であって万全の邪竜を一対一の決闘で倒したわけではない。もっとも邪竜という状態自体が欠落した結果だから万全という言葉はおかしいのだが。

 だから

「俺に期待されても困る」

 などと腑抜けたことを言う。言えば当然サシャは拳を握り声をあらげる。貴族のくせに魔王討つ旅をしている勇猛果敢な小娘だからそれは許せない。

「つまんねえこと言うんじゃねえよ。嘘でもやるって言うのが男だろうが」

 どやされると彼は真顔で、

「嘘でもやる」

「だっ、う……」

 サシャは呆れてものも言えず、大きなため息をこぼした。

「俺だってできるなら殺してやりたい。それが情けってもんだろう」

 しかし勇者たち四人の戦力ではそれは難しいというのが現実。

「それに目的は竜じゃなく秘薬の材料、アルモの花だ。そういうことでお茶を濁そうぜ」


/*/


 山の中腹のそこだけ森が途切れている。

 三方を切り立った岩肌に囲まれた窪地。そこがゴブリンたちの作った花園。

 そして唯一の出入り口であるその場所にそれはいた。

 屈強だが短い後ろ足。対する前足はなく、それが生えるべきであろう場所には代わりに翼、大きくたくましい翼がある。また首が長く、頭には短い二本の角が生え、髭はない。

 竜の中でも小型の翼竜と呼ばれる種類だった。

 それが出入り口に鎮座し尾と首を体に巻きつけ眠っている。

 静かな光景だった。

「寝息の音以外はですけど」などという冗談をびびっていたアリスが言えるほどに。

 邪竜になれば最後死ぬまで暴れ続けるという話が嘘に思える。

 だがそいつは確かに邪竜だった。黒くよどんだ体色が。剥げ落ちてまだらになったぼろぼろの鱗が告げている。

 それが静かに寝ていられるのはここが人間の立ち入らない山だからだろう。

 森の草木が、山の土が吐き出す空気は竜の住む清浄な世界のそれに似ている。

 人間界の障気に毒された体の痛みを和らげてくれるのだろう。

 そんなかすかな安らぎを得ている邪竜の邪魔をするのは、

「忍びない」

 とはいえ

「これじゃあな」

 勇者たちは今、森の端にいる。

 今はまだ木々の中だが一歩でれば森は切れ、五十メートル先には竜がいる。

 その森の端からでようとするとピクリ、かすかに邪竜の体が揺れる。

 呼吸の上下ではない。彼らの動きに呼応したものだ。

 そうなれば寝ている邪竜の横をすり抜けて――というわけにはいかない。

「どうする?」

 誰かが言った。

 勇者ではない。黙って何かを考えている。セシリーでもない。真面目な彼の横顔をうっとりと眺めている。

 アリスかサシャだがそんなことは問題じゃあない。

 問題は誰が竜の気を引くか、だ。

 倒す気はないとはいえ一挙一動に反応されては

「ちょいとごめんよ」

 と脇をすり抜け花だけ摘んで帰るわけにもいかず、寝ている竜を起こさなければ目的は達成できない。

 それはわかっている。四人、いや惚けて勇者を見つめているだけのセシリーを除く三人には。

 戦うわけではない。ただ引きつけるだけの囮役とはいえ邪竜は彼女らが道中で倒してきた有象無象の魔物とは違う。

 たったそれだけの役割でさえ命を落としかねない力があるのだ。

「しょうがねえなあ。やっぱりここは俺だろ」

 手を挙げたのはサシャだ。しかしその声は少しうわずっていた。

 魔王軍と戦うことは恐れない彼女でも竜は恐ろしい。

 竜の力を示す神話や伝承は数多く、その内容は遥かに人間を凌駕するものだ。

 神聖かつ強大強力。そういうイメージを刷り込まれて誰もが育つ。

 まして今でも自分がまるでかなわない父ブルトル候、その若かりし彼と百人の部下でさえ倒せず、たまたま勇者が現れなければ殺されていた相手を恐れないはずがない。

 そもそもサシャが冷静でいられたのは「竜殺し」の勇者がいたからだ。

 父と彼から聞いていた武勇伝を信頼し、あてにしていた。

 どこかで竜と対峙するのは自分ではないと思っていたからこそ落ち着いていられた。意識していたわけではないが。

 ただ勘違いしないでほしい。彼女らが臆病なわけではない。

 相手に恐怖を感じながらも立ち向かおうとする姿は勇敢だといえよう。

「お前にゃ任せられんよ」

 勇者はサシャの目を見てゆっくり首を振った。

「一番強い俺が最も生き残る可能性が高い。経験もあるしな」

「一番ならそれこそ俺だろうが。だいたい自信のねえやつがやったってなあ」

 また首を振る。

「竜を倒す自信はないって言ったんだ」

「屁理屈を」

「ハッ、声の震えがとまってるぞ。安心したならそう言えばいい」

「てめえ!」

 貶されたと感じたサシャが彼につかみかかる。

 アリスが止めようとするよりも早くセシリーが割って入っていた。

「……触らないで」

 喧嘩を止めるためではなく勇者の胸ぐらを掴んでいるのが気にくわないらしい。

 髪で顔が隠れ表情が読めないがサシャを睨みつけているのだろう。好戦的な雰囲気を纏っている。

「自分の代わりに死ぬ奴がでて喜んでいる臆病者と言われたんだぞ!」

 サシャの矛先がセシリーへと変わった。

 額がぶつかる距離でにらみ合う二人。

「勝手に殺すな」

 言いながら勇者は二人の顔の間に強引に自分の顔をねじ込んだ。

 サシャは離れようとするのだが彼が回した腕にがっちり押さえつけられていた。セシリーのほうはむしろ自分から密着して頬ずりしている。

「離せ」

 抵抗するサシャだったがわずかも動けない。

 勇者はこの状態で真面目な声で「聞け」と言う。これじゃあ気も抜ける。サシャは暴れるのをやめた。

「自分で言ったろ、自信がなくちゃあできないって。震えた声を出してる奴が自信満々とはいえないよな。だから俺がやるって言った。それで震えが収まった。秘薬の花っつう目的のほうの自信はあるってことだ」

「そんなの変わんないじゃねえか!」

 サシャは怒鳴るがそれは勇者にではなく自分に対してだ。結局許せないのは勇者を当てにして冷静だった自分。彼が囮役をやると言って安堵していた自分。

 隠れた臆病さに気づいてしまったから苛立っていたのだ。

「お前の代わりに囮をやって死のうなんて気はない。できる自信があるからやるだけだ」

 サシャの背中をポンと叩いた。

「ほら行け」


/*/


 作戦と呼べるほど難しいことはない。勇者が邪竜を引きつけつつ遠くへ。その間に離れて待機していたサシャたちが花を摘む。撤退と同時に信号弾をあげそれを合図に勇者も撤退する。

「さてと」

 彼はすでに一人だ。

 石塊を拾うとぎゅっと握りしめた。

 振りかぶって投げる。

 淡い青の光を纏った石塊が空を裂いて疾っていく。

 突然ボッと燃え上がり青い光が赤い炎へと変じ石塊は火球となる。

「魔法が使えた!?」

 遠くから見ているアリスが叫んだ。

 火球はぐんぐん飛んでいき邪竜へ直撃した、と見えた瞬間巨大な翼がそれをはじき飛ばした。

 翼の影から邪竜の顔が現れてほうこうが四方へ響き渡る。怒りに満ちた大音声はそれだけで体をすくませる威力があった。

 それでも彼は邪竜の前に姿をさらす。

「眠りを邪魔するのはここにいるぜ」

 再び邪竜が吼える。今度のそれは勇者ひとりに向けられた。

 翼を羽ばたかせれば突風が起きる。

 勇者は反射的に目を閉じた。当然の行動だがしかしそれがいけなかった。

 次の瞬間、彼の体は宙に舞い上がった。

 目を閉じた一瞬の間に邪竜を彼の懐に飛び込み突き上げたのだ。

 翼竜は小さいと言ったが他の竜と比べてのことで熊や象では話にならない巨体である。

 そこからくる鈍重なイメージなど今の一撃でかき消えた。

 頭突きだけで終わるはずがなく、飛び上がるとその巨体で体当たりをかます。

 ぶつかってなおも止まらず森の木々を吹き飛ばしながら中へ入っていく。

 彼の体は跳ねとんで地面へ叩きつけられるが勢いは止まらない。転々と転がって木の幹に打ちつけられてようやく止まる。

「うう……」

 うめくだけ、息をするだけで全身に痛みが疾る。

 しかし寝転がっているわけにはいかない。

 すくさま立ち上がり右に跳んだ。直後、邪竜の体当たりで先ほどまで彼が背中を預けていた木がなぎ倒された。

 すんでのところで避けることができたとはいえ一息つく暇はない。邪竜の翼が視界一杯に迫っていた。すでに左右によける時間はない。

 腕をあげガードを固める。しかし、受け止められる攻撃ではなかった。

 なぜなら空を自在に飛ぶ竜の最も強い筋肉は翼を動かすためのそれである。

 だとすればこの翼撃が体当たりと同等かそれ以上だというのは明白だった。

 故に防御不能の一撃なのだ。

 それでもガードをあげたのはわずかでもダメージを減らせればという心理からだ。とはいえそれで受けきれないことはわかっているし、そうしようとも思ってはいない。

 直撃の瞬間、自ら右後方へ跳んだ。かわすためではない。リーチが違うのだ。翼竜の巨大な翼の接近を許してしまえば今さら多少距離を稼いだところで射程圏内から逃れることはできない。それこそ転移魔法による瞬間移動でもなければ不可能だろう。

 これもまたダメージの軽減を狙う意味もあろうが、それよりもむしろより遠くへはじき飛ばされるためだ。

 その狙い通り翼で撃たれた勇者の体は木々の隙間を縫い、あるいは枝葉をへし折りながらもの凄い勢いで飛んでいく。

 今度のそれは不意に食らったわけではないからなにかに叩きつけられることなく着地する。

 そしてそれは距離をとったことを意味する。

 翼撃は逃れられない一撃だったがそれを利用することで邪竜の攻撃半径から逃れたのだ。

 距離が十分にできれば撤退も可能だ。合図の信号弾はまだ上がらないが当初の目的である邪竜を引きつけるという役目は果たした。例え邪竜が今すぐ反転して花園に戻ったとしてもサシャたちの撤退は完了しているだろうという距離と時間は稼いだ。

 だというのに勇者は刀を抜く。ここにきて初めて抜いたのだ。

 どう考えても撤退するべき好機である。目的は果たし、逃げるための距離もできた。

 だのに遠く、木々の向こうに見える邪竜を見据える勇者の両目の光は細く鋭くなっていく。

「そろそろいいだろう。気持ちよく眠っていた邪魔の代金はよう」

 まるで安息の地で訪れる死を待っていただけの邪竜を自分の都合で起こした罪を攻撃をわざと受けることによって払っていたとでも言うようだ。

「なんて言えりゃあ格好いいが」

 やはり軽口だったらしい。

 邪竜が吼えた。怒り、だけではない。その声には苦しみが混ざっていた。

 邪竜へ堕ちた者の体は障気という癒えることのない毒に犯され常に鈍痛にさいなまれ続ける。

 さらにわずかでも体を動かせばその比にはならない激痛が全身を駆けまわり、その痛みのために彼らはやがて訪れる死の瞬間まで暴れるのだという。

 しかしこの邪竜は幸運にも痛みが和らぎ、眠ることができる場所を見つけたのだ。

 それを起こし、再び苦しみの中に引き戻しておいて逃げることなどできないと思っているのか。

「ま、逃げ続けの俺が今さらこんなことをしたって」

 誰に言うわけでもなく、呟いた自覚すらなく口からこぼれた言葉だった。

 勇者は下段に構えた。竜が吼える。視線がぶつかり合う。転瞬、互い駆け出る。

 みるみる距離が詰まっていく。邪竜の息は荒い。勇者もまた負った傷のために呼吸が乱れている。

 だがわずかも速度は乱れない。

 まず邪竜の間合いへ入る。歩を緩めぬまま翼を振り上げ、渾身の力をもって振り下ろした。

 勇者はさらに速度をあげて走る。

 左右ともに逃げ場はないことは既に承知している。

 が、下。撃ちおろす故に下方にだけは活路がある。

 先は既にそれが失われていた。直撃の打点にまでおりられては遅いのだ。

 その前。本来の打点より前にのみ活路というにはあまりに狭く儚い隙間がある。

 勇者はそこへ飛び込んだ。

 かわした。と思えた瞬間、背中をこするように打たれる。

 押しつぶされそうになる。歯を食いしばる。足を動かせ。止まるな。前へ。

 くぐり抜けた。

 さらに前へ。懐へ潜り込む。

「はあああ!」

 気合声と共に邪竜の胸へ、心臓目掛け突き込んだ。

 鍔元まで食い込み血が吹き出る。

 邪竜の首が弓なりにしなって天を仰ぐ。絶叫をあげた。巨体がゆらり、と揺れて前のめり倒れ込む。

 真下の勇者は跳び退ろうと試みるが思い出したように痛みが疾り力が抜けていく。

 落ちてくる巨体を見上げそれもいいか、と柔らかく笑った勇者の体を竜の翼がすくい上げて放り投げた。

 ずん、と大地を震わせ巨体が沈んだ。

 わずかに顔をもたげ勇者を見据える。

 弱々しくかすかな声で話し始めた。

「人の子よ。感謝せねばなるまい。戦って死ぬなどとうに諦めていた私がこうして最後を迎えられた」

 竜は頭をさげる。

「本当にありがとう」

 そのまま頭は地についてもう動かない。

 勇者は手足を投げ出したまま竜を見ることもできない。

「かっこつけてんじゃねえ……よ」

 ゆっくりと目を閉じた。


/*/


 泣きじゃくるセシリーが勇者に抱きついている。

 目覚めたばかりで頭のはっきりしない彼はどうして泣いているのかがわからなかった。

 とりあえず上体を起こしセシリーを膝の上に乗せてやり向かい合うと彼女の顔を見上げる。

 前髪をかき分けるとそれはもうひどい顔だった。赤く腫れた目の下のくまは濃く、鼻からは鼻水を垂らしている。どうやら泣き始めてからだいぶ経つらしい。

 セシリーはそんなことをまるで気にせずさらに声をあげて泣き、ひしと抱きついて離れない。

「よしよし」

 彼は赤ちゃんをあやすように背中をなでてやる。

 あたりを見ると安心したようなアリスとセシリーほどではないが泣いているサシャがいた。

「大丈夫ですか? どこも痛いところはないですよね?」

「大丈夫ってなにが」

「なにがって二日も寝たまま起きなかったんですよ!」

 アリスの怒鳴る声が頭に響き、それが呼び水になったのか意識がはっきりしてくる。

「二日……二日もか」

「そうですよ。私たちが見つけた時は血を流しすぎているし、腕は折れて足は変な方向を向いているしで大変だったんですから」

 生きているのが不思議なほどの状態だったらしく、なるほどそれなら立ち上がれなかったのも納得だが本人はまるで覚えていない。戦闘中の昂揚した意識がそれを忘れさせたのだろう。

「せいぜい打ち身くらいと思ってたけどなあ」などと軽口を言う始末。

 自覚はなくても重傷は重傷。そんな傷が二日やそこらで治るはずもないのだが勇者の体のどこを見ても激闘の痕は残っていない。

「やっぱりゴブリンの万能霊薬は凄いなあ」

 彼はひとりでうんうんとうなずいて笑う。

 普段の調子なのでアリスはほっと息をつき、サシャも涙を拭った。

 しかしセシリーだけは相変わらず泣き続け、それどころかますます泣き声は大きくなっていく。

 この二日、セシリーは一睡もせずずっと勇者の側についていた。怪我自体は治っているのだから心配しなくても大丈夫だという言葉にも耳を貸さず頑なに。

「そうかそうか、ありがとな」

 勇者はあたりをまた見る。ゴブリンたちの姿が見え、彼が起きたことを喜んでくれているのがわかる。が、いるのは子供とその母親ばかりだった。

 勇者の声の調子が真剣なそれに変わる。

「それで族長は?」

 アリスは一瞬ためらって、しかし隠しておくこともできないから答えた。

「亡くなりました」

「そうか」

 わかっていたことだった。秘薬で族長を救えないことは。それでもショックは大きかったようで絞り出した返事はそっけなく聞こえるものになった。


 しかし、

「でもですね。最後にしゃべれたんですよ。だから本人にもゴブリンの人たちにもすごく感謝されて」

「そうか」

 嬉しそうに声がはずんだ。

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