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午前二時の観測者たち  作者: 島流しパプリカ


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3/3

後編

 最初に起きたのは、静寂だった。


 あまりにも静かだった。


 踏切の音も、星座列車のエンジン音も、ラジオのニュースも、片桐さんの呼吸も、全部がぴたりと止まった。


 そして次に、世界のほうが一歩引いた。


 町が後退した。


 夜空が後退した。


 過去が後退した。


 僕という一点を中心に、現実が「それはちょっと」と言って距離を取った。


 アスファルトに描かれた白線が魚になって泳ぎ出し、電柱の影が立ち上がって拍手を始め、カーブミラーの中の僕だけが三秒早く絶望していた。


 片桐さんの手は、まだ僕の手を握っていた。


 それだけが、世界で唯一まともだった。


 いや、まともではない。


 まともな人間は、こんな場面で手を離す。


 でも片桐さんは離さなかった。


 だから、たぶん僕は、完全には終わらなかった。


 足元から、黄金の輪が広がった。


 踏切を越え、道路を越え、住宅街を越え、学校を越え、市役所を越え、県境を越え、日本列島の形を一瞬だけ妙な表情にした。


 宇宙から見た地球には、その夜、小さな光の輪が浮かんだという。


 後に天文学者たちはそれを「午前二時の環」と呼び、気象学者たちは「局地的情緒崩壊」と呼び、文部科学省は「高校生の深夜外出に関する総合的な注意喚起」と呼んだ。


 僕自身は、何とも呼べなかった。


 名前をつけるには、あまりに僕だった。


「……ねえ」


 片桐さんが言った。


「はい」


 僕は地面を見たまま答えた。


「今、何が起きたの」


「僕にもわかりません」


「間に合わなかった?」


「はい」


「世界も?」


「たぶん」


 星座列車の車掌長が帽子を取った。


「おめでとうございます」


「何がですか」


「あなたは、個人の失敗を天文現象に昇華しました」


「そんな昇華はいらない」


「通常、人は失敗すると小さくなります。しかしあなたは、失敗した瞬間に膨張した。これは大変珍しい」


「珍しくなくていい」


「新しい星座が生まれました」


 車掌長が空を指さした。


 割れた夜空の向こうに、知らない星座が浮かんでいた。


 それは、便座の形をしていた。


 しかも、妙に堂々としていた。


 星々が白い楕円を描き、その中心に暗黒星雲がぽっかり空いている。周囲には小さな星が四つ、まるで衛星のように並んでいた。


「命名権はあなたにあります」


「いりません」


「では、国際天文学連合に申請しておきます」


「やめてください」


「候補名は、青春座です」


「綺麗にまとめないでください」


 片桐さんが、そこで吹き出した。


 笑った。


 信じられないことに、笑った。


 夜中の踏切で、世界規模の失態を起こした僕の隣で、片桐さんは涙を浮かべながら笑っていた。怒るでもなく、逃げるでもなく、鼻をつまむでもなく、ただ笑っていた。


「ごめん、笑っちゃだめなのに」


「いや、いいよ。もう何でもいい」


「だって、星座になるのはずるい」


「僕はなりたくなかった」


「でもさ」


 片桐さんは空を見た。


「忘れられないね」


 その言葉が、僕の胸の奥に落ちた。


 忘れられない。


 僕は、好きな人との初めての夜の観測で、間に合わなかった。しかもそれによって、新しい星座を作り、交通網を乱し、町内放送を壊し、地球規模で観測され、たぶん明日のニュースに載る。


 最悪だった。


 人生最悪の夜だった。


 でも片桐さんは、「忘れられない」と言った。


 最低と最高が、同じ皿に盛られていた。


 人間の感情は、衛生的ではない。


「さっきの続き」


 僕は言った。


「何」


「片桐さんは?」


 片桐さんは僕を見た。


 その顔は赤かった。踏切のランプのせいかもしれない。夜のせいかもしれない。僕のせいだったらいいのに、と思った。こんな状況でそんなことを思える自分の脳は、どこか故障している。


 片桐さんは口を開いた。


 その瞬間、空から巨大な手が降りてきた。


 人差し指と親指で、新しく生まれた青春座をつまむ。


 そして、夜空の黒い布から、ぷちっと剥がした。


「え?」


 片桐さんが言った。


「え?」


 僕も言った。


 空の向こうの巨大な目が瞬きをした。


 そして声がした。


『提出物としては面白いですが、少しやりすぎです』


 声は、担任の山下先生だった。


 いや、違う。


 担任の山下先生の声を借りた、もっと古い何かだった。


 宇宙の採点者。


 青春の編集者。


 腹痛の神。


『この夜は、再提出です』


 世界が巻き戻り始めた。


 黄金の輪が戻る。


 星座列車が後退する。


 遮断機が上がる。


 ラジオのニュースが逆再生される。


 片桐さんの笑い声が口の中へ戻る。


 僕の告白が胸へ戻る。


 そして、あの瞬間さえも。


 間に合わなかった事実が、まだ間に合うかもしれない時間へ押し戻されていく。


 僕は叫んだ。


「待ってください!」


 巨大な目が僕を見た。


「僕は、やり直したいわけじゃない!」


 片桐さんが僕を見る。


 僕は震えながら続けた。


「最悪だったけど、嫌じゃなかったんです。いや、嫌ではあったけど、全部消したくはないんです。片桐さんが笑ってくれたから。手を離さなかったから。僕は、今のままでも、続きを聞きたいんです」


 宇宙が黙った。


 踏切も黙った。


 車掌長も、白線の魚も、カーブミラーの中の三秒早い僕も黙った。


 片桐さんが、僕の手をぎゅっと握った。


「私も」


 彼女は言った。


「私も、消したくない」


 巨大な目が、しばらく瞬きした。


 そして、ため息をついた。


『若さ、面倒くさいですね』


 夜空に、青春座が戻された。


 ただし、少しだけ端のほうに。


『採用します。ただし、深夜外出と消化器管理には今後気をつけること』


 世界は元に戻らなかった。


 元に戻ることを、やめた。


 踏切の横には、いつの間にか小さな案内板が立っていた。


 この先、青春座観測地

 腹部に不安のある方は、右折六百二十メートル


 片桐さんはそれを見て、また笑った。


 僕はもう、どうにでもなれと思った。


「それで」


 僕は言った。


「うん」


「片桐さんは、僕のこと」


 彼女は少しだけ黙った。


 そして、僕のほうを見ずに言った。


「好きだよ」


 その瞬間、僕の胸で流星群が降った。


 腹ではなく。


 胸で。


 ようやく、本来の場所に星が戻ってきた気がした。


     *


 翌日、学校の理科室の星図に、見慣れない白い楕円が追加されていた。


 山下先生は「誰だ、こんな落書きしたのは」と怒った。


 僕と片桐さんだけが、目を合わせなかった。


 その日の放課後、片桐さんからLINEが来た。


「次は昼に星見よう」


 僕は返した。


「昼は星が見えないよ」


 すぐ既読がついた。


「じゃあ安全だね」


(了)

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