後編
最初に起きたのは、静寂だった。
あまりにも静かだった。
踏切の音も、星座列車のエンジン音も、ラジオのニュースも、片桐さんの呼吸も、全部がぴたりと止まった。
そして次に、世界のほうが一歩引いた。
町が後退した。
夜空が後退した。
過去が後退した。
僕という一点を中心に、現実が「それはちょっと」と言って距離を取った。
アスファルトに描かれた白線が魚になって泳ぎ出し、電柱の影が立ち上がって拍手を始め、カーブミラーの中の僕だけが三秒早く絶望していた。
片桐さんの手は、まだ僕の手を握っていた。
それだけが、世界で唯一まともだった。
いや、まともではない。
まともな人間は、こんな場面で手を離す。
でも片桐さんは離さなかった。
だから、たぶん僕は、完全には終わらなかった。
足元から、黄金の輪が広がった。
踏切を越え、道路を越え、住宅街を越え、学校を越え、市役所を越え、県境を越え、日本列島の形を一瞬だけ妙な表情にした。
宇宙から見た地球には、その夜、小さな光の輪が浮かんだという。
後に天文学者たちはそれを「午前二時の環」と呼び、気象学者たちは「局地的情緒崩壊」と呼び、文部科学省は「高校生の深夜外出に関する総合的な注意喚起」と呼んだ。
僕自身は、何とも呼べなかった。
名前をつけるには、あまりに僕だった。
「……ねえ」
片桐さんが言った。
「はい」
僕は地面を見たまま答えた。
「今、何が起きたの」
「僕にもわかりません」
「間に合わなかった?」
「はい」
「世界も?」
「たぶん」
星座列車の車掌長が帽子を取った。
「おめでとうございます」
「何がですか」
「あなたは、個人の失敗を天文現象に昇華しました」
「そんな昇華はいらない」
「通常、人は失敗すると小さくなります。しかしあなたは、失敗した瞬間に膨張した。これは大変珍しい」
「珍しくなくていい」
「新しい星座が生まれました」
車掌長が空を指さした。
割れた夜空の向こうに、知らない星座が浮かんでいた。
それは、便座の形をしていた。
しかも、妙に堂々としていた。
星々が白い楕円を描き、その中心に暗黒星雲がぽっかり空いている。周囲には小さな星が四つ、まるで衛星のように並んでいた。
「命名権はあなたにあります」
「いりません」
「では、国際天文学連合に申請しておきます」
「やめてください」
「候補名は、青春座です」
「綺麗にまとめないでください」
片桐さんが、そこで吹き出した。
笑った。
信じられないことに、笑った。
夜中の踏切で、世界規模の失態を起こした僕の隣で、片桐さんは涙を浮かべながら笑っていた。怒るでもなく、逃げるでもなく、鼻をつまむでもなく、ただ笑っていた。
「ごめん、笑っちゃだめなのに」
「いや、いいよ。もう何でもいい」
「だって、星座になるのはずるい」
「僕はなりたくなかった」
「でもさ」
片桐さんは空を見た。
「忘れられないね」
その言葉が、僕の胸の奥に落ちた。
忘れられない。
僕は、好きな人との初めての夜の観測で、間に合わなかった。しかもそれによって、新しい星座を作り、交通網を乱し、町内放送を壊し、地球規模で観測され、たぶん明日のニュースに載る。
最悪だった。
人生最悪の夜だった。
でも片桐さんは、「忘れられない」と言った。
最低と最高が、同じ皿に盛られていた。
人間の感情は、衛生的ではない。
「さっきの続き」
僕は言った。
「何」
「片桐さんは?」
片桐さんは僕を見た。
その顔は赤かった。踏切のランプのせいかもしれない。夜のせいかもしれない。僕のせいだったらいいのに、と思った。こんな状況でそんなことを思える自分の脳は、どこか故障している。
片桐さんは口を開いた。
その瞬間、空から巨大な手が降りてきた。
人差し指と親指で、新しく生まれた青春座をつまむ。
そして、夜空の黒い布から、ぷちっと剥がした。
「え?」
片桐さんが言った。
「え?」
僕も言った。
空の向こうの巨大な目が瞬きをした。
そして声がした。
『提出物としては面白いですが、少しやりすぎです』
声は、担任の山下先生だった。
いや、違う。
担任の山下先生の声を借りた、もっと古い何かだった。
宇宙の採点者。
青春の編集者。
腹痛の神。
『この夜は、再提出です』
世界が巻き戻り始めた。
黄金の輪が戻る。
星座列車が後退する。
遮断機が上がる。
ラジオのニュースが逆再生される。
片桐さんの笑い声が口の中へ戻る。
僕の告白が胸へ戻る。
そして、あの瞬間さえも。
間に合わなかった事実が、まだ間に合うかもしれない時間へ押し戻されていく。
僕は叫んだ。
「待ってください!」
巨大な目が僕を見た。
「僕は、やり直したいわけじゃない!」
片桐さんが僕を見る。
僕は震えながら続けた。
「最悪だったけど、嫌じゃなかったんです。いや、嫌ではあったけど、全部消したくはないんです。片桐さんが笑ってくれたから。手を離さなかったから。僕は、今のままでも、続きを聞きたいんです」
宇宙が黙った。
踏切も黙った。
車掌長も、白線の魚も、カーブミラーの中の三秒早い僕も黙った。
片桐さんが、僕の手をぎゅっと握った。
「私も」
彼女は言った。
「私も、消したくない」
巨大な目が、しばらく瞬きした。
そして、ため息をついた。
『若さ、面倒くさいですね』
夜空に、青春座が戻された。
ただし、少しだけ端のほうに。
『採用します。ただし、深夜外出と消化器管理には今後気をつけること』
世界は元に戻らなかった。
元に戻ることを、やめた。
踏切の横には、いつの間にか小さな案内板が立っていた。
この先、青春座観測地
腹部に不安のある方は、右折六百二十メートル
片桐さんはそれを見て、また笑った。
僕はもう、どうにでもなれと思った。
「それで」
僕は言った。
「うん」
「片桐さんは、僕のこと」
彼女は少しだけ黙った。
そして、僕のほうを見ずに言った。
「好きだよ」
その瞬間、僕の胸で流星群が降った。
腹ではなく。
胸で。
ようやく、本来の場所に星が戻ってきた気がした。
*
翌日、学校の理科室の星図に、見慣れない白い楕円が追加されていた。
山下先生は「誰だ、こんな落書きしたのは」と怒った。
僕と片桐さんだけが、目を合わせなかった。
その日の放課後、片桐さんからLINEが来た。
「次は昼に星見よう」
僕は返した。
「昼は星が見えないよ」
すぐ既読がついた。
「じゃあ安全だね」
(了)




