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午前二時の観測者たち  作者: 島流しパプリカ


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1/3

前編

 午前二時の踏切には、世界の余白みたいな静けさがあった。


 昼間なら自転車が通り、主婦が通り、小学生が通り、犬が通り、町内会の掲示板に貼られた「不審者に注意」のポスターが妙に仕事をしている場所だ。でも夜中の踏切は違う。遮断機は白い骨みたいに上がり、線路は月明かりを細く反射して、どこまでも遠くへ続いているように見えた。


 僕はそこに、望遠鏡を担いで立っていた。


 ベルトには小さなラジオを結んでいた。天気予報は、雨は降らないと言っていた。僕はそれを信じていた。雨は降らない。雲は晴れる。流星群は見える。そして、片桐さんは来る。


 その三つを信じて、僕はここにいた。


 片桐さんは同じクラスの女子だった。


 隣の席になったことはない。けれど、プリントを後ろへ回すとき、彼女の指先が紙の端をつかむ一瞬を、僕はなぜか毎回覚えていた。体育祭の練習で日陰に座っていたとき、彼女が「水、飲む?」と差し出してくれたペットボトルの冷たさを、まだ手が覚えていた。放課後、誰もいない教室で窓を閉めている彼女を見て、何でもない顔で「手伝おうか」と言えた日の自分を、僕は少し誇りに思っていた。


 たぶん、片桐さんも僕を嫌いではない。


 いや、たぶんどころではないかもしれない。


 目が合う回数。返信の速度。冗談の浅さ。沈黙の温度。


 僕たちはまだ何も言っていないのに、何かが始まる直前の場所に立っていた。


 だから僕は誘った。


 流星群、見に行かない?


 片桐さんは少しだけ目を丸くして、それから笑った。


「夜中に?」


「夜中に」


「親には?」


「寝てる」


「警察には?」


「できれば寝ててほしい」


 片桐さんは笑って、「じゃあ行く」と言った。


 その「じゃあ」が、僕には星座の名前みたいに聞こえた。


 遠くから足音が聞こえた。


 僕は背筋を伸ばした。腹も引っ込めた。青春の現場では、姿勢と腹筋が重要である。


「ごめん、遅れた」


 片桐さんが小走りでやってきた。薄手のパーカーの袖を手の甲まで伸ばしていて、髪は昼間より少し乱れていた。その乱れ方が、僕の知っている教室の片桐さんではなく、午前二時にだけ存在する秘密の片桐さんみたいで、僕は一瞬、望遠鏡の使い道を見失った。


「大丈夫。まだ流れてない」


「星?」


「うん」


「他に流れるものある?」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の腹部で何かが返事をした。


 ぐる。


 それは、小さな音だった。


 けれど僕にはわかった。


 これはただの腹鳴ではない。前兆だ。


 地震の前に動物が騒ぐように、火山の噴火前に山肌が膨らむように、歴史が折れ曲がる直前、体内のどこかで名もなき警鐘が鳴ることがある。


 僕は、聞いてしまった。


 片桐さんが首をかしげた。


「今の何?」


「宇宙背景放射」


「お腹から?」


「観測機器の問題かもしれない」


 僕は笑った。片桐さんも笑った。


 まだ笑えた。


 その時点では、まだ人類は戻れる場所にいた。


 僕は望遠鏡を立てた。三脚の足を広げ、レンズの蓋を外し、空へ向ける。手順は完璧だった。昨日、家で三回練習した。父に「何してるんだ」と言われ、「未来を」と答えたら、しばらく食卓が静かになった。


「見える?」


 片桐さんが僕の横に立つ。


 近い。


 肩が触れそうだった。


 僕の体温が上がった。


 同時に、腹圧も上がった。


 ぐるるるるるるるる。


 今度ははっきり鳴った。


 それは腹の音というより、地下鉄の開通式だった。僕の胴体の下半分で、まだ誰も許可していない交通網が整備されつつあった。


 片桐さんが固まった。


 僕も固まった。


 夜空だけが無関係に美しかった。


「……大丈夫?」


「大丈夫じゃない可能性が、今、地平線から昇ってきた」


「トイレ?」


「言語化が早い」


「顔がもうトイレの人だよ」


 顔がトイレの人。


 好きな人に一生言われたくない分類である。


 僕はスマホを出した。地図アプリを開く。検索欄に「公衆」と打っただけで、候補がすべてを察してきた。


 公衆トイレ。


 公衆トイレ 近く。


 公衆トイレ 夜間。


 公衆トイレ 祈り。


 最後のは表示されていなかったかもしれない。僕の魂が勝手に見たのかもしれない。


「駅前公園にある」


 片桐さんが画面を覗き込みながら言った。


「何メートル?」


「六百二十」


 六百二十メートル。


 平時なら、ただの散歩だ。体育の授業ならウォーミングアップにもならない。だが今の僕にとって、それは砂漠であり、極地であり、神話であり、修学旅行のしおりに載せられない巡礼路だった。


 僕は一歩踏み出した。


 腹の奥で、何かが首を横に振った。


 だめだ。


 走れば終わる。


 歩いても終わる。


 止まっても、終わりがこちらへ歩いてくる。


「行こう」


 片桐さんが言った。


「でも」


「私、ついてく」


「ついてくる必要はない」


「あるよ」


「なぜ」


 片桐さんは少しだけ黙った。


 それから、踏切の赤いランプに照らされながら言った。


「一人にしたら、君、たぶん宇宙になるから」


 僕はその言葉の意味を、そのときは理解できなかった。


 後に世界中の研究機関がその発言を引用することになる。片桐さんの直感は、科学より先に真実へ到達していた。


 僕たちは歩き出した。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そこで僕は、人間が二足歩行を選んだ進化を深く恨んだ。四足なら腹圧が分散したかもしれない。あるいは貝ならよかった。貝なら、ただ閉じればいい。僕は貝になりたかった。夜空を知らず、恋も知らず、ただ海底で砂を噛んで生きる貝に。


「ゆっくりでいいよ」


 片桐さんが言う。


「ゆっくりだと、間に合わない」


「じゃあ速く」


「速くすると、間に合わない」


「どうすればいいの」


「存在しない」


「答えが暗い」


 その瞬間、遮断機が鳴り出した。


 カン、カン、カン、カン。


 僕たちは足を止めた。


 終電は終わっている。始発には早すぎる。こんな時間に電車が来るはずはない。


 だが、線路の向こうから光が来た。


 ヘッドライト。


 いや、違う。


 それは星だった。


 線路の上を、星座が走ってきた。

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