前編
午前二時の踏切には、世界の余白みたいな静けさがあった。
昼間なら自転車が通り、主婦が通り、小学生が通り、犬が通り、町内会の掲示板に貼られた「不審者に注意」のポスターが妙に仕事をしている場所だ。でも夜中の踏切は違う。遮断機は白い骨みたいに上がり、線路は月明かりを細く反射して、どこまでも遠くへ続いているように見えた。
僕はそこに、望遠鏡を担いで立っていた。
ベルトには小さなラジオを結んでいた。天気予報は、雨は降らないと言っていた。僕はそれを信じていた。雨は降らない。雲は晴れる。流星群は見える。そして、片桐さんは来る。
その三つを信じて、僕はここにいた。
片桐さんは同じクラスの女子だった。
隣の席になったことはない。けれど、プリントを後ろへ回すとき、彼女の指先が紙の端をつかむ一瞬を、僕はなぜか毎回覚えていた。体育祭の練習で日陰に座っていたとき、彼女が「水、飲む?」と差し出してくれたペットボトルの冷たさを、まだ手が覚えていた。放課後、誰もいない教室で窓を閉めている彼女を見て、何でもない顔で「手伝おうか」と言えた日の自分を、僕は少し誇りに思っていた。
たぶん、片桐さんも僕を嫌いではない。
いや、たぶんどころではないかもしれない。
目が合う回数。返信の速度。冗談の浅さ。沈黙の温度。
僕たちはまだ何も言っていないのに、何かが始まる直前の場所に立っていた。
だから僕は誘った。
流星群、見に行かない?
片桐さんは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「夜中に?」
「夜中に」
「親には?」
「寝てる」
「警察には?」
「できれば寝ててほしい」
片桐さんは笑って、「じゃあ行く」と言った。
その「じゃあ」が、僕には星座の名前みたいに聞こえた。
遠くから足音が聞こえた。
僕は背筋を伸ばした。腹も引っ込めた。青春の現場では、姿勢と腹筋が重要である。
「ごめん、遅れた」
片桐さんが小走りでやってきた。薄手のパーカーの袖を手の甲まで伸ばしていて、髪は昼間より少し乱れていた。その乱れ方が、僕の知っている教室の片桐さんではなく、午前二時にだけ存在する秘密の片桐さんみたいで、僕は一瞬、望遠鏡の使い道を見失った。
「大丈夫。まだ流れてない」
「星?」
「うん」
「他に流れるものある?」
その言葉を聞いた瞬間、僕の腹部で何かが返事をした。
ぐる。
それは、小さな音だった。
けれど僕にはわかった。
これはただの腹鳴ではない。前兆だ。
地震の前に動物が騒ぐように、火山の噴火前に山肌が膨らむように、歴史が折れ曲がる直前、体内のどこかで名もなき警鐘が鳴ることがある。
僕は、聞いてしまった。
片桐さんが首をかしげた。
「今の何?」
「宇宙背景放射」
「お腹から?」
「観測機器の問題かもしれない」
僕は笑った。片桐さんも笑った。
まだ笑えた。
その時点では、まだ人類は戻れる場所にいた。
僕は望遠鏡を立てた。三脚の足を広げ、レンズの蓋を外し、空へ向ける。手順は完璧だった。昨日、家で三回練習した。父に「何してるんだ」と言われ、「未来を」と答えたら、しばらく食卓が静かになった。
「見える?」
片桐さんが僕の横に立つ。
近い。
肩が触れそうだった。
僕の体温が上がった。
同時に、腹圧も上がった。
ぐるるるるるるるる。
今度ははっきり鳴った。
それは腹の音というより、地下鉄の開通式だった。僕の胴体の下半分で、まだ誰も許可していない交通網が整備されつつあった。
片桐さんが固まった。
僕も固まった。
夜空だけが無関係に美しかった。
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃない可能性が、今、地平線から昇ってきた」
「トイレ?」
「言語化が早い」
「顔がもうトイレの人だよ」
顔がトイレの人。
好きな人に一生言われたくない分類である。
僕はスマホを出した。地図アプリを開く。検索欄に「公衆」と打っただけで、候補がすべてを察してきた。
公衆トイレ。
公衆トイレ 近く。
公衆トイレ 夜間。
公衆トイレ 祈り。
最後のは表示されていなかったかもしれない。僕の魂が勝手に見たのかもしれない。
「駅前公園にある」
片桐さんが画面を覗き込みながら言った。
「何メートル?」
「六百二十」
六百二十メートル。
平時なら、ただの散歩だ。体育の授業ならウォーミングアップにもならない。だが今の僕にとって、それは砂漠であり、極地であり、神話であり、修学旅行のしおりに載せられない巡礼路だった。
僕は一歩踏み出した。
腹の奥で、何かが首を横に振った。
だめだ。
走れば終わる。
歩いても終わる。
止まっても、終わりがこちらへ歩いてくる。
「行こう」
片桐さんが言った。
「でも」
「私、ついてく」
「ついてくる必要はない」
「あるよ」
「なぜ」
片桐さんは少しだけ黙った。
それから、踏切の赤いランプに照らされながら言った。
「一人にしたら、君、たぶん宇宙になるから」
僕はその言葉の意味を、そのときは理解できなかった。
後に世界中の研究機関がその発言を引用することになる。片桐さんの直感は、科学より先に真実へ到達していた。
僕たちは歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
そこで僕は、人間が二足歩行を選んだ進化を深く恨んだ。四足なら腹圧が分散したかもしれない。あるいは貝ならよかった。貝なら、ただ閉じればいい。僕は貝になりたかった。夜空を知らず、恋も知らず、ただ海底で砂を噛んで生きる貝に。
「ゆっくりでいいよ」
片桐さんが言う。
「ゆっくりだと、間に合わない」
「じゃあ速く」
「速くすると、間に合わない」
「どうすればいいの」
「存在しない」
「答えが暗い」
その瞬間、遮断機が鳴り出した。
カン、カン、カン、カン。
僕たちは足を止めた。
終電は終わっている。始発には早すぎる。こんな時間に電車が来るはずはない。
だが、線路の向こうから光が来た。
ヘッドライト。
いや、違う。
それは星だった。
線路の上を、星座が走ってきた。




