第十四話 イヌ派の反撃
■ロシア軍 東鶏冠山堡塁
ネコを駆使する日本軍は悪辣で、そして執拗だった。
すっかりネコ漬けにされた堡塁に白旗を掲げて訪れた日本軍の軍使はこう述べた。
「明日より我が軍はこの堡塁に全面攻撃を開始します。砲弾や銃弾はあなた方兵士だけでなくネコ達にも分け隔てなく平等に降り注ぐでしょう。我々も友好の証として送ったネコが戦火に飲まれる事を忍びなく思いますが……」
「それは……それだけは困る……」
軍使に応対した指揮官の大佐は苦悩した。
翌日、東鶏冠山堡塁は『ネコと兵士の安全と自由を保障する』という条件で日本軍に降服した。
そしてロシア軍が堡塁を明け渡すと同時に、隣接する盤龍山堡塁、望台陣地に対してネコ投入作戦が開始された。
■ロシア軍 要塞司令部
監視の隙を見て(彼は堡塁がすでに降服したことを知らなかった)なんとか独房を脱出したコンドラチェンコは単身で要塞司令部に戻ってきた。
旅順の旧市街にはネコを愛でる兵士の姿がチラホラと散見された。そんな光景は以前は無かったはずである。コンドラチェンコは嫌な予感を覚えながらも司令部へと急いだ。
「司令!ステッセリ中将!東鶏冠山堡塁が反乱を起こしました!すぐに奪還作戦を……な、なんだと!?」
休む間もなく司令部へ直行し扉を開けたコンドラチェンコは信じられない、いや内心では恐れていた光景を目にしてしまった。
司令部は既に陥落していた。ネコに支配されていた。
ステッセリ中将も司令部要員も、皆がネコを抱き蕩けていた。それはつい先日、東鶏冠山堡塁で見たのと全く同じ光景だった。
「ど、どうしてこんなことに……」
コンドラチェンコは愕然とした。これでは自分は何のために苦労して戻ってきたのか。この要塞は一体どうなってしまうのか。
言葉を失い立ち尽くすコンドラチェンコは、そのまま今度は司令部の独房に再び拘束されてしまった。
「閣下、御無事でしたか!」
その夜、独房の扉が突然開かれた。入ってきたのは司令部付きの少佐だった。コンドラチェンコと同様にロシア軍の中では数少ないイヌ派の人間である。
救出したコンドラチェンコの代わりに少佐は衛兵(ネコと戯れていて用をなしていなかったが)とネコを独房に放り込むと扉を閉める。
「まだマトモな奴が残っていたか……少佐、一体どうしてこうなった?説明してくれ」
廊下を早足で進みながらコンドラチェンコは少佐に状況説明を求めた。
「はい閣下、実は……」
少佐の説明によれば、発端は東鶏冠山堡塁から退却してきた兵士とネコ達だったという。
司令部のある旧市街地を守る兵士らもネコに目がないロシア人である。彼らは退却してきた兵からネコを奪おうとした。当然それは断固として拒否される。そのため市内は一触即発の事態となったらしい。
だがこの時点では司令部はネコに汚染されていなかった。
司令部にネコを持ち込んだのはステッセリ中将だった。いや正確に言えば彼の妻のヴェーラ夫人だった。彼女はその横暴な性格で知られている。当然ながらステッセリ中将の言葉など普段から一顧だにしない。
そんな彼女がどこからか日本軍が送り込んでくるネコの話を聞きつけた。もちろん大のネコスキーで我儘な彼女が我慢などできるはずがない。夫人がいつもの強引さで兵士のネコを奪ったのは言わば当然の事だった。
最初はその行動を諫めたステッセリ中将であったが、彼もまた大のネコスキーであった。夫人のネコを羨ましく思った彼もまた強引にネコを調達し、すぐに腑抜けになった。
その行動が次々と司令部要員に伝搬した。司令部全体が腑抜けになるまで三日と掛からなかったという。今ではネコを奪われた部隊と司令部との関係も最悪に近いものになっている。
すでに旅順要塞はその内側から防衛拠点としての機能を失っていた。
「司令部はもう駄目です。このままでは東鶏冠山堡塁のように全軍が日本軍に降服するのも時間の問題です」
東鶏冠山堡塁の陥落後、日本軍はすぐに隣接する盤龍山堡塁、望台陣地に対するネコ投入作戦を開始していた。すでに両堡塁とも陥落一歩手前らしい。いずれ間もなく日本軍はこの司令部のある旧市街地へもネコの投下を始めるだろう。
「……残念ながら、そのようだな」
コンドラチェンコも少佐の判断に同意する。
「閣下、現状を打開するには新たな司令官が必要です。どうかご協力願えないでしょうか」
少佐の言葉は反乱とも取られかねない危険なものだった。だがコンドラチェンコに躊躇いはない。
「よかろう。ステッセリ中将以下の司令部は指揮能力を喪失したと判断する。よって私が司令を代行する。すぐに同志を集めろ。時間がない。今晩にも司令部を奪還するぞ」
夕刻、コンドラチェンコの前に少佐が選別した兵士が揃えられた。
「何という事だ……たった、たったこれだけしか居ないのか……」
コンドラチェンコの口から落胆した、というよりは愕然とした声が漏れる。
「閣下、申し訳ありません……予想以上にネコの浸透が進んでおりました。私の目で信頼できると思われるものは彼らだけです」
少佐はネコで腑抜けになっていない、なる可能性の低い士官や兵士を探して奔走した。だが結果は思わしくなかった。なぜならロシア人の大多数はネコスキーだからである。
結局、少佐が集められた信頼できる者(イヌ派)の数はわずか20人ほど。半個小隊にも満たない。
「どうせ奴らは全員ネコで腑抜けになり下がっている。司令部の制圧ならばこの数で十分だろう」
時をおけば状況が更に悪化するのは目に見えている。コンドラチェンコはこの兵力で司令部を制圧する事を決断した。
だが整列したイヌ派兵士らの目には少し不安が見える。これは喝を入れる必要があるな、そう考えたコンドラチェンコは少佐を見た。
「作戦開始にあたり閣下がお言葉を下さる!総員、捧げ銃!傾聴!」
すぐにコンドラチェンコの意を察した少佐が号令をかける。兵らは小銃を身体の前に立て姿勢を正した。
それは音がするほど見事なものだった。数は少ないが少佐は精鋭を揃えてくれたらしい。コンドラチェンコは満足げに頷くと皆を見回し訓示を行った。
「よいか、我らは正義の代行人である!!これより本要塞の指揮を正常化するための必要措置を行う!!目標!!「司令部」!!目標!!「ネコ派の馬鹿共」!!司令部内の全員を速やかに拘束せよ!抵抗するなら殺せ!死刑!死刑だ!!我らの敵を根絶やしにせよ!!目標!!「司令部」!!作戦開始!!Урааа!」
「「「Урааа!!!」」」
号令とともにモシンナガン小銃を携えた兵士らが廊下を駆ける。コンドラチェンコは毎朝行われている司令部会議の場でステッセリ中将以下の主要メンバーを一気に抑えるつもりだった。
だが彼は東鶏冠山堡塁での事を忘れていた。ネコ派の人間は、いかに蕩けていようとも一たびネコに危害が及ぶときには恐るべき能力を発揮すると言うことを。
コンドラチェンコに率いられた完全武装の兵士が通路を進んでいく。通路のそこかしこにはネコを抱え蕩けた表情をした兵士が座り込んでいる。
「腑抜けどもめが……」
そんな兵士らを忌々しげに睨みながらコンドラチェンコは司令部へ急いだ。警備兵すらいない(ネコを抱え蕩けたように扉脇で座り込んでいる)司令部会議室の前で立ち止まったコンドラチェンコはイヌ派同志らに今一度振り返る。
「いいか、繰り返す。速やかに全員を拘束せよ!抵抗する様なら殺せ!突入!」
「「「Урааа!!!」」」
扉を荒々しく蹴破り、叫び声とともにイヌ派兵士らが会議室内に突入した。
「どうした少将?朝からなんとも騒がしいな。そう言えばせっかく用意した部屋は抜けだした様だな。遅刻だぞ。もう会議は始まっている」
会議室に乱入され小銃を突きつけられているにも関わらず、ステッセリ中将は落ち着いていた。彼も司令部要員も皆がその胸にネコを抱いている。
「……残念ながら閣下および司令部は正常な判断力、指揮能力を喪失したと判断します。従ってこれより閣下と司令部要員全員を拘束し小官が指揮を代行いたします。どうか抵抗しないでもらいたい」
現状認識すら出来ぬほどに呆けたか。ステッセリ以下の司令部のあまりの危機感の無さに呆れ果てたコンドラチェンコは、出来る限り感情を込めない声で宣言した。
「どうかな?判断力を失っているのは少将の方ではないかね?」
その言葉と同時に会議室の横の扉が開かれ、コンドラチェンコの兵に倍する数の兵が入ってきた。更に背後の入り口からも同数の兵士が入ってくる。コンドラチェンコらはあっという間に大量の兵に囲まれ銃を突きつけられた。
「我々が君らイヌ派の動きに気付いていなかったとでも思っていたのか?ネコ様を信じぬ愚か者の考えなど端からお見通しだ。君らこそ降服しろ。今なら反逆罪には問わないでおいてやろう。しばらく静かな場所で頭を冷やしているがいい」
ステッセリはネコを撫でながらコンドラチェンコらの拘束を指示する。
イヌ派兵士らも激しく抵抗したが多勢に無勢で次々と拘束されてしまう。だがコンドラチェンコはだけは諦めていなかった。
「このネコ豚どもがぁぁぁ!!!」
拘束しようとする兵士の腕をコンドラチェンコは力任せに振りほどいた。そして叫びながらステッセリの抱えるネコに両手で掴みかかる。
だが彼の手がネコに届くことはなかった。室内に小銃の乾いた銃声が鳴り響いた。
「ぐっ……がっ……!」
コンドラチェンコの身体を幾条もの銃弾が貫く。弾かれたようにコンドラチェンコは床に倒れ伏した。
血まみれとなった彼をステッセリは静かに見下ろした。コンドラチェンコはステッセリに震える手を伸ばす。
「コンドラチェンコよ、残念だ……だがお前は我々の主(ネコ様)を豚と呼んだ。それは万死に値する」
「くそ……こんなところで……糞ネコ共に囲まれたまま俺は一人で死ぬのか……嫌だ……嫌だ…Иисус……」
ネコに延ばされていた手がパタリと地におちる。無念さを滲ませながらコンドラチェンコは息を引き取った。
後にコンドラチェンコの非業の最後を伝え聞いた乃木は、同じイヌ派として彼を憐れんだ。そして現地で雑に葬られていた遺体を改めて丁重に埋葬するとともにイヌ派としての奮闘を称える慰霊碑を建立している。
「露将コンドラチェンコ少将戦死の地」
この石碑は現在でも見る事ができる。その簡潔な碑文を刻んだ石碑の前には、彼の愛したイヌの石像も添えられている。
もしかしたら旅順攻囲戦で戦死?したのはコンドラチェンコだけかも……
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