EP 9
大手上場企業からの年間スポンサー契約と、アッパーマス層への王手!
九月中旬、秋晴れの澄んだ青空が広がり、工場の敷地を取り囲む金木犀が甘く爽やかな香りを漂わせ始めていた。
だが、正午のサイレンが鳴り響いた三晃紙器工業の第一工場・社員食堂には、そんな季節の風情を吹き飛ばすような、絶望の叫び声がこだました。
「……う、嘘だろ……! ガソリン代がまた上がってリッター百八十五円突破ぁぁぁっ!? スーパーの卵も一パック三百円超えてるじゃねえかぁぁぁっ!!」
パイプ椅子に頭から突っ伏し、特売チラシとスマホのニュース画面を交互に見つめながら、髪を掻きむしって床をバンバンと叩いている男がいた。
同期採用の山岸だ。
作業着の襟元は汗で黄ばみ、目の下には消えないドス黒い隈が二重に張り付いている。
「おい山岸。床を叩くな、ホコリが舞って弁当に入るだろ」
俺――倉科湊が、母が持たせてくれた銀杏と舞茸の炊き込みご飯弁当を開きながら声をかけると、山岸は鬼のような形相で俺のテーブルへ這い寄ってきた。
「ホコリどころの騒ぎじゃねえよ倉科ぁぁぁっ!
給料は昇給千五百円で据え置きなのに、ガソリン代も、電気代も、食費も、全部一・五倍に跳ね上がってんだぞ!?
車がなきゃ工場に通えねえ田舎で、ガソリン代が月二万円超えるとかマジで死刑宣告だろ!
しかもよ、十月から厚生年金保険料と雇用保険料の料率がさらに引き上げられるって総務の掲示板に貼ってあったんだぞ!?
真面目に工場でフルタイム働いて、夜勤まで入ってんのに、なんで毎月毎月、手取りの実質購買力が削り取られていくんだよぉぉぉっ!!」
周囲のベテラン工員たちも、手元の給与明細を見ながら「本当、物価ばかり上がって生活が苦しくなる一方だな」「昇給分なんて物価高で一瞬で消し飛んだよ」と、諦めのため息をつきながら具のない素うどんをすすっている。
俺は小さく息を吐き出し、水筒の冷たいほうじ茶を一口喉へと流し込んだ。
「山岸。中学生でもわかる、インフレとステルス増税の算数をしよう」
「算数なんか聞きたくねえ! 俺の生活費がショートしてんだよ!」
「ショートしているのは、お前が『日本経済の構造』を無視して思考停止しているからだ。
現在、日本の消費者物価指数(CPI)は年率三%前後で上昇し続けている。
物価が三%上がっているということは、銀行預金や据え置きの給料の価値は、何もしなくても毎年実質【三%ずつ目減りしている】ということだ」
俺はテーブルの上の紙ナプキンにペンを走らせた。
「さらに、政府は名目上の大増税を避ける代わりに、社会保険料の料率を少しずつ引き上げる【ステルス増税】を三十年間ずっと繰り返している。
インフレで物の値段が上がり、社会保険料で手取りが削られる『ダブルパンチの搾取構造』だ。
額面の給料に依存して、自ら価格決定権を持たない労働者は、物価高という名の見えない税金によって、毎年自動的に貧乏へと追いやられるようにプログラムされているんだよ」
「ぎゃあぁぁぁっ! 国全体が俺を殺しにきてるじゃねえかぁぁぁっ!!」
頭を抱えて食堂の隅へと逃げ出していく山岸。
その背中を見送りながら、俺は胸ポケットからスマートフォンを抜き出し、画面をタップした。
(インフレで苦しむのは、他人に給料を決めてもらう消費者だけだ。
資本主義において、インフレの波に乗って価格をコントロールできる資本家にとっては――
むしろ、資産を爆発的に押し上げる最高の追い風にしかならない)
午後十七時零二分、定時退社。
タイムカードを切った俺は、爽やかな秋風を切り裂き、地方都市の駅前に構えた合同会社ミナト・キャピタルのオフィスへと自転車を疾走させた。
◇ ◇ ◇
午後十七時三十分、合同会社ミナト・キャピタルのオフィス。
室温は二十四度、ディフューザーからはペパーミントとベルガモットの清涼感あふれるアロマがふわりと漂っていた。
「湊くん……! お疲れ様!」
扉を開けると、そこには白石詩織が待っていた。
淡いボルドーワイン色の秋らしいリブニットに、清楚なオフホワイトのコーデュロイタイトスカート。
ショコラブラックの豊かな髪を後ろでハーフアップにまとめ、黒縁メガネを外した大きな茶褐色の瞳が、夕陽を浴びてキラキラと輝いている。
すっかり垢抜けて洗練されたその姿は、雑誌の表紙を飾るトップモデルのように華やかで美しく、部屋に入った瞬間にふわりと広がる甘い石鹸とバニラの香りに、俺の心拍計がピクリと跳ね上がる。
デスクの上には、最新のM4搭載iPad Proと、大手上場企業からの重厚な契約書PDFが開かれていた。
「白石、待たせたな」
「ううん、全然待ってないよ! 湊くん、工場のライン作業お疲れ様……!
これ、喉渇いてるでしょ? 地元の果樹園から取り寄せた『最高級・完熟巨峰の搾りたてフレッシュジュース』だよ! 冷たいうちに飲んでね!」
「サンキュー、白石。生き返るよ」
グラスを受け取り、一気に喉を潤す。
濃厚な紫の果汁とともに、芳醇なブドウの甘みとほのかな酸味が全身に染み渡っていく。
めちゃくちゃうまい。
だが、俺は彼女の華奢な首筋に、長時間の画面凝視による微かな強張りがあるのを見逃さなかった。
(……いかんな。また俺の経営者センサーが過敏に作動している)
俺はデスクの引き出しから、あらかじめ用意しておいた重厚な桐箱をスッと取り出し、詩織の前に差し出した。
老舗パティスリーが完全予約制で仕立てた、桐箱入りの『最高級・丹波黒豆と完熟無花果の極上キャラメルテリーヌ』と、首筋を包み込んで温熱パルスで自律神経を整える最新のスマートネックケア機だ。
「ほら、白石。これを受け取れ」
「えっ……!? これ、すごく高そうないちじくのテリーヌ……! それに、最新のネックケア機……!?
湊くん、私がお茶を出しただけなのに、どうしていつもこんなに高価なものをくれるの……?」
「勘違いするなよ」
俺は腕を組み、冷徹な仮面を必死に張り直して早口でまくしたてた。
「中学生でもわかる組織財務と人的資本レバレッジの講義だ。
我が合同会社ミナト・キャピタルの最高アートディレクター(お前)が、秋口の気圧変動による頸部筋肉の緊張によって新広告バナーのカラーパレット選定を〇・四秒遅延させた場合、大型タイアップ案件の公開遅延に伴う機会損失は【試算で最低でも月額五百万円】に跳ね上がる!
無花果に含まれる良質な植物性エストロゲンとペクチンによる抗酸化作用、ならびに温熱パルスによる僧帽筋の血流改善は、組織の基幹クリエイターの【中長期的アジリティを担保するための戦略的秋季BCP防衛および役員福利厚生投資経費】だ!
お前への甘やかしなどではない!
今後生み出される何千万円もの法人純利益から逆算すれば、このテリーヌ代などROI(投資対効果)は【実に三千万%】を超える!
極めて合理的でドライな財務上の防衛支出だから、一ミリも遠慮せず胃袋に収めて首に装着しろ」
息をつかずに言い切った俺の、世界一長くて過保護な言い訳。
詩織は桐箱を胸にぎゅっと抱きしめ、目をパチクリさせて聞いていたが――やがて、その桃色の唇をふにゃりと綻ばせ、クスクスと愛おしそうに笑った。
「ふふっ……あはは! そうぼうきん……? ROIがさんぜんまんパーセント……?
湊くんの言い訳、本当に世界一長くて……世界一甘くて幸せだよ!」
「な、何がおかしい。純粋な企業防衛だぞ」
「うん、そうだね! じゃあ私、湊くんの『防衛経費』で首をポカポカにして、三千万パーセントのお返しができる世界一可愛いデザインを描き続けるね!
……あ、湊くん! テリーヌ、いちじくがプチプチしててすっごく美味しそう! はい、あーん!」
フォークに濃厚なキャラメルテリーヌと艶やかな無花果をたっぷり乗せ、夕陽に照らされた満面の笑顔で差し出してくる詩織。
至近距離から漂う甘美なキャラメルの香りと、彼女自身の透き通るような白い肌、潤んだ茶褐色の瞳。
「お、おい……自分で食える……」
「ダメー! 社長さんへのエネルギー補給なんだから! ほら、あーん!」
観念して口を開けると、濃厚でビターなキャラメルのコクと、無花果の上品なプチプチ感が口いっぱいに広がった。
めちゃくちゃうまい。
そして――心拍数が異常なスピードで跳ね上がり、俺の脳内プロセッサが完全に一時停止しかける。
(……ダメだ。この女の『あーん』の破壊力は、資本主義のどんなアルゴリズムをも一瞬で停止させる……)
「ふふっ、美味しい? 湊社長!」
「……ああ、最高だ。……よし白石、本題に入るぞ」
◇ ◇ ◇
「白石、今から中学生でもわかる、BtoBエンタープライズ契約の算数をしよう」
俺はノートPCを開き、画面に届いていた一通の電子契約書を表示させた。
送信元の企業名は――東証プライム上場の超大手FinTech企業『株式会社マネーフォワード・フィナンシャル(仮称)』。
「白石、これを見てみろ」
「えっ……? 上場企業さんからの……年間オファー……?」
「そうだ。
俺たちの特化ブログ三サイトの合計PV数は月間六十万を超え、さらに前話(第53話)で立ち上げた月額コミュニティ『ミナト・キャピタル・アカデミー』は会員数三百名を突破した。
この圧倒的な『金融・副業リテラシーの高い濃いユーザー層』に目をつけた大手FinTech企業から、正式なスポンサーオファーが届いたんだ。
その契約条件が、これだ」
【東証プライム上場企業との年間独占スポンサー契約】
① 契約内容:
・特化ブログ3サイトのヘッダーおよびサイドバーにおける【年間独占バナー掲載】
・月額アカデミー会員向け限定ウェビナーにおける【公式協賛・特別登壇枠】
② 契約期間:【1年間(更新あり)】
③ 契約金額:【年間6,000,000円(月額換算50万円)】
④ 支払条件:【年間一括・全額前払い(来週月曜日に着金)】!
「……えぇっ!? ろ、ろくひゃくまんえん……!? しかも、一括前払い……!?」
詩織が息を呑み、両手で小さなお口を押さえた。
「そうだ。
世間の三流アフィリエイターは、成約するかどうかも分からない『成果報酬(一撃数千円)』で広告主のご機嫌を伺い続ける。
だが、メディアのブランド力とリストの質を高めたトップメディアは違う。
成果に関係なく、枠を押さえるだけで【年間六百万円の固定費】を相手企業から堂々と勝ち取ることができるんだ!
さらに凄まじいのは【年間一括前払い】という資金調達のチート性だ」
俺は電卓アプリをタップした。
「通常、ビジネスは『後払い(売掛金)』で資金繰りに苦しむ。
だが、年間前払いなら、一年分の広告料【六百万円の純現金】が、一秒の労働をする前に会社の銀行口座にドカンと全額先に入ってくる!
この手に入った六百万円のキャッシュを、即座に新NISAや事業投資に回して【複利で運用】することすらできるんだよ!」
「すごい……! 成果が出る前にお金が全部入ってきちゃうなんて、会社にとって一番安全で強い仕組みだね……!」
「そうだ。詩織、お前がデザインしてくれたこの完璧なメディア媒体資料と、アカデミーの熱狂的な実績データがあったからこそ、上場企業の本部長が一発で年間契約にサインしたんだ。
お前の功績だぞ」
「ううん、湊くんの戦略がすごすぎるんだよ……っ!」
詩織は茶褐色の瞳に感動の涙を浮かべ、満面の笑顔で俺の手をぎゅっと握りしめた。
◇ ◇ ◇
午後二十一時、丘の上の九条源蔵の屋敷。
欅の一枚板テーブルの前で、源蔵は老眼鏡を外し、年間スポンサー契約書と最新の資産集計画面をじっと見つめていた。
そして――「カッカッカ!」と豪快に喉を鳴らした。
「年間一括前払いで六百万円か!
ワッハッハッハッ! 上等だ湊!
成果報酬の小作人を卒業し、大手上場企業から年間契約金を前金で毟り取る『メガメディアのオーナー』になりやがったな!」
「ええ。契約書の電子署名は完了し、来週月曜日に法人口座へ六百万円全額が着金します」
俺はノートPCを開き、最新の資産管理スプレッドシートを源蔵に提示した。
【合同会社ミナト・キャピタル&倉科湊 統合資産集計】
・前回までの総純資産:25,325,520円
・大手上場企業 年間スポンサー前受金(確定分):+6,000,000円
・月額サブスク(MRR 300名分純利益):+2,830,000円
・特化ブログ特単アフィリエイト利益:+1,650,000円
・エバーグリーン自社講座自動売上純利益:+890,000円
・法人税・消費税中間納税引当プール金:▲6,900,000円
★ 確定総純資産残高:【29,795,520円(2,980万円到達!)】
「……二千九百七十九万円。
納税引当金を安全のために手厚く引いた上で、資産は【2,980万円】に達しました」
「ケッ! 二千九百八十万か!」
源蔵のぎょろりとした鋭い眼光が、獲物を仕留める直前の猛獣のようにギラリと光った。
「いいか湊。日本の全世帯のうち、純資産三千万円未満の層は【マス層(約七十八%)】と呼ばれる。
世間の約八割の人間が、一生このマス層の檻の中で、物価高と増税に怯えながら死んでいく。
だが――純資産三千万円を超えた瞬間、人間は【アッパーマス層(上位十三%)】へと進化するんだ!
三千万円の山頂まで、あと残り――わずか【二十万四千円】だぞ!!」
ドンッ、と源蔵の拳がテーブルを叩いた。
「東京へ行った金子拓海や佐伯凛どもは今頃、サマーインターン全落ちと借金の督促状で心が完全に粉々に砕け散っている頃合いだ。
だが、てめえはどうだ?
手取り十四万の工場ライン工の仮面を被りながら、十九歳にして三千万円の純資産を動かす本物の怪物だ!
――次なる第55話、第5章クライマックス!
アッパーマス層(純資産3,000万円)の巨大な扉を、その手で完全に蹴破ってみせろ!」
「はい、じいさん!」
俺の力強い咆哮が、静かなリビングに響き渡った。
窓の外を見上げると、秋の夜空に輝く満月が、俺たちの登るべき次なる頂を静かに照らし出していた。
同級生たちが大学を卒業し、社会に出て自らの市場価値の低さに絶望するまでの、残り八百五十日。
十九歳のライン工社長と、覚醒した天才美少女絵師。
いよいよ次話、二人は資本主義の巨大な関所――【純資産3,000万円(アッパーマス層)突破】の歴史的瞬間を迎える!0
【現在の倉科湊ステータス】
・年齢/肩書:19歳/食品工場ライン工・合同会社ミナト・キャピタル 代表社員
・総資産残高:29,795,520円(前話比:+4,470,000円 ※年間スポンサー契約着金+MRR+自動売上)
・月間不労/事業キャッシュフロー:+5,800,000円(ブログ特単+自社教材自動販売+MRR+スポンサー)
・【今日の源蔵のマネー格言】:「物価高に泣く奴は価格を決められる側の奴隷、インフレを味方につけて前金で億を抜く奴が資本家だ。3,000万円のアッパーマス層の頂に立った瞬間、世間の8割の人間とは住む世界が完全に分断されるんだよ」
読んでいただきありがとうございます。
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