85.【激高の瞳】 改
優しい温もりを感じながら目を覚ましたユイ。その温もりの主がクラネルだと気が付き、昨夜彼がシャワーを浴びている間にソファーで眠ってしまった事を思い出した彼女。
善処しますといいながらも、彼女も覚悟を持って答えた言葉だったのだが。なんとも情けなく、溜息が漏れた。
自分の身体に回されたクラネルの腕の重みに幸せを感じながら、瞳を閉じていても分かる端正な彼の顔をマジマジと見つめた。
いつも自分を愛おしそうに見つめる瞳は閉じられ、濃く長い睫毛にそっと触れてみるユイ。そしてクラネルが瞼を擦りながら目を覚ました瞬間、ユイは焦りながら布団を捲り飛び起きた。
「今、何時?」
枕元にある時計を見ると、起きる予定時刻の少し前。ホッとして息を吐いて安心すると、クラネルが優しい瞳を自分に向けていることに気が付き、自分のいつもの寝起き姿を思い出して慌てた。
決して寝相がいいとは言えないユイ。爆発しているであろう髪の毛を触ると、案の定とんでもないことになっている。恥ずかしさで顔を赤くし、寝癖を直している彼女に「おはよう」クラネルは優しく微笑む。
「時間大丈夫か?」
「あの、昨日寝ちゃってごめん......なさい」
少しばかりの罪悪感を感じながら、ユイは俯いた。
「色々あって疲れてたからしょうがないだろ。それに......」
クラネルはユイの頬に手を伸ばし指の腹の反対側でそっと撫で、彼の手を両手でギュッと握りしめるユイ。優しくて愛おしいその指先にキスをすると、クラネルは身体を起こし彼女を引き寄せ唇を重ねた。
起き抜けのまだ頭のはっきりしない状況での優しいキスに、時間が過ぎるのも忘れそうになる。
「仕事行くの嫌だと思ったの初めてだな」
クラネルの言葉で現実に引き戻されたユイは、時間を確認し慌ててベッドから飛び降りた。
「準備しなきゃ。レオさんまた後でね」
いきなり飛び起き自分が持ってきた枕も防音の魔道具もそのままにして、パタパタとスリッパの音をさせながら急いで戻っていくユイの後姿を見詰めるクラネル。次に会う時、彼女は自分がした悪戯に気が付いているのだろうかと、楽しみになるのだった。
自分の部屋に戻りベッドの上で眠っているノアに「おはよう。昨日はごめんね」と声を掛けながら、服を着替えようと寝間着に手を掛けた時、彼女は違和感を覚えた。きちんと上まで締めていたボタンが一つ、外れているのである。
不思議に思いながらも自分の寝相の悪さを思い出し、きっとそのせいだろうと考えたユイだったが、寝間着を脱いだ時に言われたノア言葉でその理由が分かった。
『ユイ、それどうしたの? 胸のところ赤いよ?』
何のことだろうと思いながら自分の胸元を見ると、左胸の膨らみのところにはっきりとした赤いアザがあるのが目に入った。慌てて洗面台の大きな鏡の前に行き、自分の胸元をマジマジと見つめるユイ。その赤いアザには見覚えがあった。
親友の有希が彼氏の健太に付けられたキスマークに、そっくりなのだ。寝間着のボタンが外れていたことも、先程のクラネルが濁した言葉の意味もこれで納得がいく。
「やられたぁ」
クラネルの悪戯に気が付き、恥ずかしさで赤面するユイ。この後、どんな顔をして彼に会えばいいのだろうかと、彼女は洗面台の鏡の前で自分の赤くなった顔を見つめて溜息をついた。
仕事服に着替え薄化粧を施すと、ユイはいつもの時間に食堂棟に向かった。日本よりは暖かいと言っても、本格的な冬に入った早朝の寒さは身に堪える。食堂棟の入口にある楓の木も葉をなくして、目に映る景色からも寒さを感じる。
白い息を吐きながら、食堂棟の前で既に身体を動かしている騎士達と挨拶を交わすと、ユイは暖かい食堂に急いで入った。食堂を手伝い初めて既に一ヶ月以上が経過し、朝の準備も手慣れたものだ。
最近のノアは、竜王の結界の範囲が広がったこともあり、食堂の中では割と自由にしていることが多い。時々、仲の良くなった騎士のところに行っては、食事にありついてることもあるくらいだ。
五の刻を過ぎ次々と入って来る討伐部隊の騎士の中に、クラネルを見つけるとユイは無意識に顔を赤くした。そんな彼女に気が付き、一人ほくそ笑むクラネル。
食事を終えた帰り際、忙しくしている彼女に近づき耳元て「気が付いたみたいだな」と囁くと、彼女は無言で彼を睨みつけた。
「お預けくらったんだから、それくらいいいだろ」
クラネルの言葉に反論出来ないユイは「行ってらっしゃい。気を付けてね!!」と語気を強めて、いつもの言葉で彼を送り出した。二人がケンカをしているのかと周りは心配したが、クツクツを笑うクラネルを見て、それは要らぬ心配だと悟った。
周りには、ただただイチャイチャしているカップルにしか見えていない。
それから十日程たった今日、二人は散歩がてら馬場に遊びに行く予定にしていた。
実は二人で街に出掛けた日の朝、隊馬に仔馬が生まれたのだ。仔馬はクレイと牝馬の間に生まれた子供で、前日から馬場で待機していたクラネルは出産に立ち会うことが出来た。
「クレイに似て、とても綺麗な仔馬だ。ユイもきっと気に入るぞ」
仔馬に会える日を心待ちにしていたユイは、昨夜から眠れない程ワクワクしていた。
しかし馬場に向かうと仔馬の姿はなく、厩務員に声を掛けると「仔馬の体調が昨夜から思わしくなく、奥で獣魔導師に診てもらっているんです」と申し訳なさそうに言われた。
「獣魔導師?」
「動物を専門で診てる聖魔導師がいるんだ。騎士団にはたくさんの馬がいるからな」
仔馬に会えることを楽しみにしていたが、こればかりは仕方がないと気持ちを切り替え、思い付きで「久しぶりに練習場に行きたい」と言い出したユイ。寒いから今度にしようと提案するクラネルに、馬場に来るためにズボンで来ていたことが幸いしたと彼女は言う。
「じゃあ、馬で行くか?」
「それじゃ散歩にならないでしょ」
自分を置いてスタスタと歩き始める彼女の後姿を、深い紫の瞳で見つめるクラネル。
あの日、誰かに愛されたくて、人懐こい人間を演じてきたと告白した彼女。もしかしたら、最初はそうだったのかもしれない。だけど今の彼女は紛れもなく、親しみをもって誰からも愛される存在だと感じている。
自分が傷つき苦しんだからこそ、彼女の優しさは人の心を掴むのだろう。自分が傷つくことが怖くて、自分を守る為に周りの人を傷つけてきた自分は、そんな彼女に見合う男なのだろうかと不安になるクラネル。
だからといって、彼女を手放す気はない。
自分が犯した罪も一緒に背負って生きていくと言った彼女に報いるためにも、クラネルも変わろうと心に決めていた。彼女のように周りの人々も幸せに出来るような、彼女に見合う男になるために。
『レオ、早く来い。ちょっと飛んでくるからユイを頼む』
その言葉でクラネルがユイに駆け寄ると、ノアは安心したように薄曇りの空へと羽ばたいていった。
「ノアはレオさんがいると、本当に安心して遊びに行くよね」
「信頼してもらって光栄だな」
少し冷たくなった彼女の手を取り、またゆっくりと歩き出す二人。
そう言えば、あれから二人にはなんの進展もない。ユイが女性特有の理由で体調が思わしくなかったり、タイミングが合わなかったりして、彼の部屋に泊りに行ったりしながらも、相変わらずの二人である。
ユイとしては以前より彼と過ごす時間が増え、イチャイチャ出来ていることで満足している。不安だった気持ちもほぼ解消され、甘えることも自然に出来るようになってきた。
だからこそ、しんどいのはクラネルの方である。まぁ、ユイに男心を分かれと言っても無理なので、そこはゆっくりと前に進むしかないのだ。
練習場に着き高い塀の上の見学場に上ると、この寒い中自主練をしている若い騎士達が何人もいた。
「第七部隊の奴らだろうな」
第七部隊というのは、騎士団に入って二年目以内の若い騎士が所属する部隊である。遅くても三年目の春には魔物討伐部隊の第五部隊と街の衛兵部隊の第六部隊に振り分けられ、その後優秀な騎士は第三、四部隊または第一、二部隊に昇格していくのだ。
「ケントさんって騎士になって三年目よね。それで第三部隊にいるのっていことなんじゃないの?」
「あいつは努力の塊みたいな奴だからな。根性はすげえよ。まぁ実力はまだまだだけどな」
そう言いながらも、クラネルは少し誇らしげに微笑んでいる。鍛えがいのある可愛い後輩なのだ。
ちなみにクラネルは二年目に第五部隊、三年目に第三部隊に配属され、それから五年で副隊長にまでなった、前例のない程のずば抜けた実力の持ち主である。
そんな彼の姿を見つけた後輩が見学場の近くに駆け寄り、稽古をつけて欲しいと頼んできた。しかし遊びに行ったきり、ノアはまだ帰ってきていない。
ノアが側にいない為、自分が離れるとユイは無防備な状態になってしまう。だから稽古は出来ないと断ると、少しぐらいなら大丈夫だと彼女は言う。
「ノアを呼んでみるから、レオさんは下に降りてあげて」
ユイにそう言われ躊躇いは感じたが、クラネルは二階建ての建物くらいの高さがある塀から飛び降り、練習場に降り立った。
薄曇りの空を見上げ、歌うようにノアの名前を呼ぶユイ。
「ノア、そろそろ帰ってきてー!」
何度も呼んでいると、突然ノアの声が聞こえた。
『ユイ、レオの側を離れるな!』
何者かがこちらに迫ってきている事に気がついたクラネルが空を見上げると、もの凄い勢いで帰ってくるノアが目に入った。
そして次の瞬間、ユイの真後ろ、石畳の街並みを望む塀の際を下から舐めるように飛んでくる影が......。それと同時に身体強化【飛躍】で塀を飛び越え、直ぐにユイを庇うようにして立ったクラネル。
「きゃぁぁぁぁっ」
その大きな影に驚き尻もちをついてしゃがみ込むユイ。クラネルが腰に挿しているブロードソードを抜き身構えると、ユイを襲った影の正体をノアが追いかけた。
「ノア、やめて。帰ってきて~!!」
自分と一緒にいればノアも攻撃を受けることはないと分かっているユイは、必死になってノアの名前を叫んだ。しかしユイの必死の声を無視し、ノアは自分の倍以上もあるワイバーンを追撃する。
逃げ回るワイバーンとの距離を一気に詰めると、ノアはその口を大きく開け、黒い炎を相手に向いて吐き出した。吐き出された黒い炎は螺旋を描きながら、ワイバーンに直撃する。その瞬間爆音と共に、立っていることもままならないような爆風が、ユイ達を巻き込んだ。
彼女を庇いながら見上げた空には、ノアの攻撃を受けたワイバーンの姿は跡形もなく、塵ひとつも見当たらない。戦闘とは言えない一方的な攻撃に、騎士の誰しもが黙り込んだ。あっけに取られているユイの下へ、平然とした様子で戻ってくるノア。
『ユイ、帰るのが遅くなってごめんね。つい楽しくって』
悪びれたようすもないノアに激怒するユイ。
「どうして追いかけたのよ。何かあったらどうするの!? ノアは私といれば攻撃受けないんでしょ? ならどうして戻ってこないのよ!!」
『ユイにはレオがいるから大丈夫だと思って。それにあんな弱い奴に僕が負けるわけないじゃん。ユイ、僕のこと弱いと思ってるの?』
「だってノアの倍以上の大きさあったじゃない」
今度は心配から涙があふれ出したユイ。
『あんな奴、僕の敵じゃないよ』
ワイバーンと言えば、空を飛べない騎士達にとっては、倒すのが難しい魔物のひとつだ。一撃で倒すことは難しく、鋭い爪を避けながらの攻撃は簡単ではない。ワイバーンとの戦いでは、必ずケガ人が出ると言っても過言ではない。
それをノアはたったの一撃で、しかも塵も残さない程に木っ端みじんにしたのだから、騎士達が言葉を失うのも頷ける。自分に近寄ってきたノアに抱き着き「お願い、無茶はしないで」そう言って涙を流すユイ。
『ごめんなさい。そんなに心配させると思わなかった』
ノアが似つかわしくない、しおらしい声で謝ると、ユイは「もういいよ」と彼の身体を優しく撫でた。しかしノアの瞳は激高の色を映し、無意識のうちに周りに威圧を放っていた。




