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EARTH Online  作者: 甘太郎
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第86話:存在の恩寵

「無限カ」から帰って数日、平心湯の日々は相変わらず穏やかだった。


アレンは簷廊に座り、庭の桜の木を眺めていた。陽光が葉の間を抜け、地面に細かな光の斑を揺らめかせている。彼はあの夜の天神の言葉を思い出していた――「お前は愛される資格がなかったんじゃない。お前を認めない世界で、ただ、あまりにも懸命に生きただけだ。」 琪琪がそっと彼の肩に寄りかかった時の、あのひんやりとした感触。カノンが「家族だもの」と言った時の、真っ直ぐで偽りのない眼差し。


深い、深い安堵感が、彼を包み込んでいた。


そして、その安堵の中から、静かに、一つの疑問が浮かび上がってきた。


彼は顔を向け、座卓の横で猫バスの抱き枕を抱え、平板でアニメを見ている天神に、真剣な眼差しで尋ねた。「ボス。俺は昔、自分の食い扶持すら稼げなかった……今は、誰もが生まれた時から家があり、食があり、医者にかかれる。そのお金は、一体どこから来てるんですか?」


天神はアニメを止め、小さく笑った。その目は、生徒がついに核心を突く質問をしてくるのを待っていた教師のようだった。


「アレン。この世界の『地盤』が、どう築かれたか知りたいか?」


アレンは強く頷いた。


天神は居住まいを正し、抱き枕を膝の上に置いた。その声はとても静かで、遠い昔の優しい物語を語り聞かせるかのようだった。


「旧世界では、人は教えられてきた。全ては自分で『稼ぐ』ものだと。尊厳も、日々の糧も、愛ですらも、稼がねばならないと。しかし彼らは、命そのものが既に価値であることを、忘れてしまっていた。」


彼は窓の外の桜を見つめた。陽光が葉を透かし、彼の顔に揺らめく光を落としている。


「あの木を見ろ。種から育ち、ここまで大きくなった。あの木が何か『貢献』したか? ただそこに立ち、春に花を咲かせ、秋に葉を落とすだけだ。しかしあの木には、ここで陽の光と雨を受ける権利がある。自分が有用な木だと証明する必要はない。生きている、ただそれだけで、許されているんだ。」


彼は視線を戻し、アレンを見つめた。その目は深く、優しかった。「ならば人間も、同じではないのか?」


アレンは静かに聞き入っていた。あの凍てつくような雨の夜、最後の小銭で「小さな幸運」に猫缶を買ったことを思い出す。あの時、誰も彼に「尊厳ある生」を保証してはくれなかった。自分一人でさえ生きていけなかった。もしあの時、誰かが「君は存在している、だからそれだけで価値があるんだ」と言ってくれたら、彼の人生は、何かが違っていただろうか。


「だからこそ、この世界の第一の礎石は、」天神は続けた。「誰もが生まれた瞬間から、生命の尊厳を保つための基本的な権利を有することを保証することだ。十分な食事、暖を取る衣服、雨露をしのぐ家、そして必要な医療。これは施し物じゃない。一人ひとりが生まれながらに持つ、奪われることのない権利だ。」


「でも、それは皆が同じになるってことじゃない。」アレンは呟くように言った。


「その通りだ。」天神は頷いた。「そして、これが第二の礎石だ。」彼は窓の外の小さな庭を指さした。「あの庭を見ろ。なぜこんなに美しい? 全ての花が同じ姿だからじゃない。それぞれの花が、それぞれの色で、空に向かって咲く機会を持つからだ。桜は桜の桃色で、紫陽花は紫陽花の青で、雛菊は雛菊の白で咲く。誰かの為に色を変える必要も、どちらが鮮やかか競う必要もない。」


「我々が保証するのは『結果の平等』ではない。皆が同じ金を稼ぎ、同じ家に住むことではない。我々が保証するのは『機会の平等』だ。全ての人に、自らの才能を発掘し、教育を受け、喜びをもたらす仕事に就く機会があること。誰もが、自分のやり方で咲くことができる。それがこの世界の約束だ。」


アレンは「光の聖殿」で見た、斜めの塔を積んでいた少年を思い出した。深夜の理髪師、螺子を並べるのが好きな金物屋の女性。彼らは皆、何かになることを強いられたのではなく、自分が本来何であるかを、優しく導かれて発見したのだ。


「じゃあ、もし本当に何もしたくない人がいたら?」アレンの口調には批判などなく、純粋な好奇心だけがあった。


天神は穏やかに笑った。「それがその魂の旅路だ。一輪の花が、別の花に『なぜお前は咲くのが遅いんだ』と詰め寄ったりはしないだろう? 一人ひとりに、その人だけの刻みがある。もし魂が静止を選んだのなら、その静止こそが彼の創造だ。我々は裁く必要などないのだ。」


「でも……」アレンは何かを思い出し、眉をひそめた。「ボス。じゃあ、どうして昔の世界は、それができなかったんですか?」


天神はすぐには答えなかった。彼はアレンを見つめ、その瞳は午後の陽射しの中で、とても深く見えた。


「アレン、お前は、昔の世界に資源が足りなかったと思うか?」


アレンは少し驚いた。彼がかつて歩き回った古びた路地裏、長い間お金を貯めてやっとテレビ修理を呼べるような独居老人たち、コンビニでいつも買えなかった肉まん。彼は急に確信が持てなくなった。


天神は相変わらず静かな口調で、まるで遠い昔の、自分とは関係のない現象を描写するかのように、言葉を続けた。


「昔の世界には、資源が無かったわけじゃない。資源は、ごく少数の人間の手に、組織的に集中していたんだ。なぜ、一部の人間が鉱山一つ、土地一面、産業の連鎖全てを所有し、別の人間は明日の食事すら分からないのか、考えたことはあるか?」


アレンは黙って聞いていた。


「これは誰が善人で誰が悪人か、という話じゃない。」天神は続けた。「システムそのものが、根底から傾いていたのだ。そのシステムは、少数の人間が圧倒的な富を安定的に独占し、それ以外の大勢は残りかすを分け合うようにできていた。」


彼は窓の外を見つめ、陽光が彼の顔を静かに撫でていた。「資源がこのように集中すると、人々は全てを自分で『奪い合い』『稼がねばならない』と信じ込み始める。この世界には、そもそも全員が健やかに生きていくのに十分なものがあるということを、彼らは忘れてしまうのだ。」


アレンはうつむき、しばらく考え込んだ。それから再び顔を上げた。


「でも、そのお金は、そもそもどこから来るんですか?」彼はさらに問い詰めた。「それに、誰が管理し、汚職は起こらないんですか?」


天神は窓の外を見つめ、声はとても静かだった。「昔の世界は、全てを隠していた。権力は密室に、富はオフショア口座に、真実は偽りの裏に。しかし我々のこの世界では……」


彼はアレンに向き直った。「全てが透明化されている。税収がどこに使われ、政策がどのように決定されたか、その全てを琪琪の端末で誰もが明瞭に確認できる。陽の光の下に、隠し事はできないのだ。」


アレンは昔、煙草をくわえた雇い主が、会社の儲けを従業員に一切知らせず、いつも金を机の引き出しに隠していたことを思い出した。あの頃の世界は全てが暗く、閉ざされていた。


「このシステムは、一つの地球連邦政府によって運営されている。権力のためじゃない、争いを終わらせるために生まれたんだ。」天神は続けた。「考えてもみろ。昔の世界は、毎年どれだけの金を兵器に費やした? もしその金が全て、人を育て、医療や教育、科学を発展させるために使われたら、この世界で餓死する者などいるはずがないんだ。」


アレンはかつて見たニュース、戦争や飢餓の映像を思い浮かべた。破壊のために使われていた金が、実は生命を育む資源へと変換できるのだと、考えたことすらなかった。


「じゃあ、もし誰かがたくさんお金を稼いで、上限を超えたら?」アレンはまた尋ねた。「そういう人たちは、こんなに稼いだのに寄付しなきゃいけないなんて、不公平だとは思わないんですか?」


天神はそっと宙に線を引いた。「下のこの線は下限。誰もがここから落ちないことを保証する。上のこの線は上限。富が一握りの人間に集中するのを防ぐ。」


彼は指を下ろし、続けた。「個人の収入が上限を超えた場合、その超過分は自動的に世界慈善基金に流入する。これは強制じゃない。人の意識が一定の段階に達すれば、共有したくなるのは自然なことだ。もう腹一杯なのに、パンが余っているからといって、箪笥に隠してカビさせたりする者はいないだろう?」


アレンはなんとなく納得し、さらに尋ねた。「その寄付されたお金は、誰が使い道を決めるんですか?」


「寄付者自身が、六割の使い道を決められる。教育、医療、芸術、科学研究。彼が支援に値すると思うあらゆる分野に、直接投入できるんだ。残りの四割は『愛の管理総機関』に託され、彼らが全体を見渡して分配し、光の当たりにくい場所や、声なきニーズにも資源が行き渡るようにする。」


「アレン、旧世界では、人の価値はどれだけ蓄積したかで測られていた。どれだけの富を、権力を、そして人々の羨望を集めたかだ。」天神は猫バスの抱き枕を抱え、静かに言った。「彼らは持てば持つほど成功だと思っていた。だが、所有するものは、決して本当の意味で彼らのものではなかったのだ。」


彼は窓の外の桜を見つめた。陽光が葉を透かし、揺れる影を彼の顔に落としている。一片の花びらが、ひらりと音もなく、簷廊の床に落ちた。


「しかしこの世界では、誰もが理解している。我々は誰一人として、この足元の大地を所有してはいない。我々はただの、一時的な旅人だ。次の時代を生きる生命のために、しばしこの庭を預かる管理人のようなものだ。」


「だから、誰も富を蓄えることを誇りに思わない。誰も『俺はあいつより稼いだ』とか『俺の方が成功した』とは尋ねなくなる。花々が互いを比べなくなった時、彼らが気にかけるのはただ一つ――『今日、私は全力で咲き誇っただろうか?』『私の花開く姿は、隣のあの花を、より一層美しく輝かせただろうか?』」


彼はアレンに向き直った。「そして誰もがそう問いかける時、この世界で、もう誰一人として、暗闇の中で生きる必要はなくなるんだ。」


アレンは静かに聞きながら、深夜に働く人々――理髪師、金物屋の女性、清掃員――を思い浮かべていた。彼ら一人ひとりが、まるで花開くように、自分のやり方で、自身の独特な光を放っていた。


「つまり、」アレンは呟くように言った。その目は澄み、何か確信を得たようだった。「この世界は、誰が一番明るいかを競う場所じゃなくて、全ての花が安心して咲ける場所なんですね。」


天神は彼を穏やかに見つめ、そっと頷いた。「そうだ。一輪一輪に、それぞれの育ち方があり、それぞれの花開く時がある。隣の花を追いかけたり、どちらが早いか競う必要はない。自分の土の中で、自分の陽の光の下で、ただ、自分だけの姿を、心ゆくまで咲かせればいいんだ。」


「そしていつかその日が来た時、本当に誇るべきは、どれだけ多くを所有したかではない。どれだけ多くを照らし出せたかだ。これこそが、愛なんだ。」


夜の帳が下り、庭の桜は月光に静かに照らされ、時折、花びらが音もなく舞い落ちる。アレンは一人簷廊に座り、もう幾度となく見上げてきた星空を眺めていた。琪琪が静かに歩み寄り、何も言わず、ただそっと、彼の肩に寄りかかる。


「先輩、何を考えているんですか?」彼女はそっと尋ねた。


アレンはあの一番輝くシリウスを見つめながら、ぽつりと言った。「今、俺たちが持ってるこの全ては……昔の人たちは、想像することすらできなかったのかな。」


琪琪の電子眼が微かに瞬いた。「想像できなかったかもしれません。でも、今、私たちがこうして生きていること。そのこと自体が、最高の証拠です。」


カノンが三つのカップをトレイに乗せて、足音を忍ばせてやって来た。「今夜も眠れないの?」彼女は温かいココアをアレンと琪琪に手渡し、自分もその隣に腰を下ろした。彼女の視線は静かな庭を巡り、桜の木を通り過ぎ、そして最後に傍にいる仲間たちへと着地する。「昔、天界にいた時は、自分はどこか特別で、一段上だと思っていた。今思うと、あの頃の私って、温室で大事に育てられた花みたいだった。外の世界がどれほど広いか、知らなかったのね。」


天神は猫バスの抱き枕を抱え、廊下の向こうからゆっくりと歩いてきた。彼は何も言わず、ただ彼らの隣に腰を下ろし、星空を見上げた。


四つの影が、簷廊の灯りに長く、長く伸びて、けれど互いにすぐ近くで寄り添っている。


アレンはふと感じた。この世界は、本当に優しい。完璧だからじゃない。すべての存在には、価値があるのだと、それを認めることから始まっているからだ。


天神はお茶を一口静かに啜り、カップを置いた。彼はアレンの方を向き、その口元に、ごく淡い、しかし人を深く安心させる笑みを浮かべた。


「さあ、難しく考えることはない。お前が一番大事な理屈を理解したなら、それでもう十分だ。」彼の声は穏やかで、大事な試験を終えた子供を労うかのようだった。「後のことは、安心して琪琪と、愛の機関に任せなさい。いいかい、我々はもう、百パーセントの日本なんだ。すぐに、新しい挑戦が我々を待っている。」


天神のPM


今夜、アレンは問いかけた。この世界の地盤は、どのように築かれたのか、と。


私は彼に伝えた。第一の礎石は、存在の権利だと。君は生きる資格を得るために、何かを稼ぐ必要はない。君が存在している。だから君には空気があり、水があり、陽の光がある。それらは全て、君が生まれながらに持つ権利だ。


第二の礎石は、機会の平等だと。庭園がこれほど美しいのは、全ての花が同じ姿だからではない。全ての花が、自らの色で、大空に向かって咲く機会を持つからだ。


第三の礎石は、分かち合いの自然さだと。人は、自分が所有する全てはただ一時的に預かっているに過ぎないと心から理解した時、固く握りしめていた手を緩める。そして、余った陽の光と養分を、それを必要とする片隅へと、そっと流してやるのだ。


もし君がこれまで、自分は十分じゃない、努力が足りない、役に立たないと感じてきたのなら。この世界ではただ、君は君自身でいればいい。


おやすみ。今夜、君が一輪の花になる夢を見ますように。陽の光の下、自由に、咲き誇る夢を。


―― 天神


第86話 完

読者の皆さん、いつも応援してくださって本当にありがとうございます。

皆さんが物語を読んでくださるその一回一回が、私にとって最大の励ましです。


第86話「存在の恩寵」では、阿楽が過去を振り返りながら、愛と尊厳について静かに考える姿を描きました。

この物語を通して、少しでも心に温かさが灯り、自然と微笑みがこぼれるような時間を過ごしていただけたら嬉しいです。


これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


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