第83話:無限加(陸上編)
第一幕:退屈と閃き
平心湯の、ごく平凡な朝だった。
アレンは朝食を終え、食器の後片付けを手伝っていた。洗い桶に器をひとつひとつ沈めながら、その手つきは落ち着いていた。もう何度も繰り返してきた動きだが、今日は掌に感じる重みがどこか違っていた。窓から差し込む日差しは穏やかで、柔らかく、彼の手の甲をそっと照らしている。ふと、前はこうしたことを「仕事」だと感じていたのに、今では「日常」だと思っている自分に気がついた。
厨房では、カノンが新作のデザートを研究していた。空気にはほろ苦いチョコレートの香りが漂い、甘ったるくないその匂いが、ゆっくりと広がっては、呼吸そのものを優しくしていくようだった。彼女はうつむき加減で、チョコレートの入ったボウルを一心にかき混ぜている。額にはうっすら汗がにじんでいたが、口元はずっと緩んでいた。新しい配合を試しているのだ。「ちょうどいい」甘さに仕上げたくて。甘すぎるのではなく、口にした人が「幸せだ」と感じるような、そんな甘さを追い求めていた。
アルトは自分の専用作業台に座っていた。アレンが心を込めて作ってくれたその机の角に取り付けられた青い飾りが、朝日を受けて鈍く光っている。彼女の電子眼はタブレット端末の画面に真剣に向けられ、指がそっとそれをなぞりながら、平心湯の日々のデータを整理していた。その動作はひどく静かで、この朝の静けさを邪魔するまいとしているかのようだった。
天神は座卓の横でだらりと伸び、猫バスの抱き枕を抱えていた。両目は半開きで、どこを見るともなく焦点が合っておらず、何に対しても気乗りしない、そんな気怠い空気を全身から漂わせている。見終えたばかりのアニメの結末が、彼の心を沈ませていた。主人公が想い人と結ばれず、孤独な道を選んでしまう。そんな物語だった。あれはただの物語だとわかっている。それでも彼の胸は、こうして簡単にざわついてしまう。彼は抱き枕に顔の半分を埋め、聞こえるか聞こえないかの、とても小さなため息をついた。
小さくつけっぱなしのテレビからは、鮮やかなCMが流れてきた。
「今日、あなたの『楽しかった』はどこにありますか? 『ムゲンカ』遊園地は、二十四時間いつでも、誰でも、遊びに来るのを待っています。門限も、入場料も、『あなたにはまだ早い』という言葉も、ここにはありません。どんな人でも、どんな年齢でも、どんな背景でも。来たいと思った、そのときから、門はいつでも開かれています。」
画面の中では、家族連れが芝生を駆け回り、若者が歌い踊り、老人が木陰でヨガをし、子供たちが安全そうな遊具で歓声を上げている。最後に大きく映し出された「無限」のマークが、優しく光を放っていた。
そのCMをぼんやりと見つめる天神の瞳から、焦点の合わない気怠さが、ゆっくりと、しかしはっきりと消えていった。代わりに宿ったのは、小さな子供が巨大な菓子の家を目の前にした時のような、純粋な昂揚の輝きだ。彼は突然上体を起こし、抱き枕を抱えたまま、高らかに宣言した。
「出かけるぞ! 遊びに行くんだ!」
第二幕:出発、「無限カ」へ
天神の一言で、平心湯は一気に動き出した。
「遊びに行く? どこへ?」
アレンが手にしていた食器を置き、目を輝かせた。それは心の奥底から自然と湧き出た光で、「公園に行く」と聞いた子供の本能的な反応そのものだった。
カノンが弾かれたように厨房から飛び出してくる。エプロン姿のまま、手にした泡立て器からはチョコレートの雫がポタポタと落ちていた。
「主様がお出かけですって!? すぐに準備を! お弁当は? お菓子は? 救急箱、タオル、着替えも要りますね!?」彼女は遠征の準備に取りかかるかの如く、その場で右往左往し始めた。頭の中は「完璧な出遊リスト」でいっぱいになり、弁当の献立から緊急用の絆創膏に至るまで、全てを揃えようとしている。
アレンも輪に加わり、あれこれと疑問を口にする。
「どうやって行くんだ? 乗り換えは? 切符はいるの? 向こうに着いたら何か食べられるのかな?」
その時だった。アルトが音もなく、静かに歩み出てきたのは。手にしたタブレットの画面には、既に詳細な路線図が映し出されている。彼女の電子眼は淡く瞬き、その口調は相変わらず平坦だったが、一言一言が驚くほど明瞭だった。
「検索済みです。平心湯より徒歩八分の駅から、特急『飛騨号』に乗車し、四十二分後に『無限カ』正面玄関へ到着します。乗り換えは不要。座席はすでに四人分、窓側で予約してあります。往復分です。」
場が、一瞬息を呑んだ。
「……アルト、いつの間にそんなことを?」
アレンの問いかけに、彼女はあくまで淡々と答える。ただ、その口元に、見逃してしまいそうなほど微かな笑みが浮かんでいた。
「天神様が『遊びに行く』とおっしゃった、その時です。」
彼女は嬉しかったのだ。自分が誰かの役に立てることが。
カノンは「きゃあ」と声を上げてアルトに飛びつき、そのまま全身で抱きついた。
「アルト! あなたは私たちの天使よ! 私はお菓子のことで頭がいっぱいだったのに、切符まで手配してくれるなんて!」
天神は笑みを浮かべ、抱き枕を抱えたまま、座卓のそばから立ち上がった。目の前で騒ぐ三人の「家族」を見渡す。興奮して飛び跳ねるアレン。アルトに抱きついて離れないカノン。口元に笑みを讃えたアルト。彼の胸にぽっかりと空いていた「退屈」という名の穴は、いつの間にか、あたたかいお湯で満たされていた。
「よし、着替えだ。五分後に玄関へ集合。」
第三幕:門前での即興魔法
彼らは「無限カ」の正門の前に立った。
そこは、アレンが想像していた「遊園地の入り口」とは何もかもが違っていた。改札はなく、切符売り場もなく、フェンスもなければ「ここに並べ」という案内板もない。ただ一つ、巨大な「無限」の紋章が、優しい光を放ちながら、門の上部に浮かんでいる。横倒しになった「8」の字のようなその紋章には、始まりも終わりもなく、永遠に循環しているようだった。
視線の先に広がるのは、賑やかさの極みにある中央広場だ。歌う者、踊る者、子供や老人と一緒に遊ぶ者、そして動物や植物と触れ合える区画の一角までもが見える。歓声と音楽、誰かが駆ける足音。それら全てが混ざり合い、暖かく、生命力に満ちた「騒音」となって響いていた。その騒音は、不思議と人を苛立たせず、むしろ、ここは「生きている」場所なのだと感じさせる。
アレンは深く息を吸い込んだ。空気には、青草の匂い、汗の匂い、遠くから漂う綿菓子の甘い香りが混ざっている。彼の心臓は、この場の空気に「感染」したかのように、遠くで打ち鳴らされる太鼓のリズムに合わせて、鼓動を速め始めた。
門の前に立ち、その光景を眺めていた天神は、深く息を吸い込んだ。そして、不意に。
「おい、あれを見ろ! UFOだ!」
天神が大空を指さして叫んだ。
四人と、そこに居合わせた数人の通行人が、一斉に顔を上げ、空を見上げる。アレンは目を凝らし、雲の切れ端の一つ一つまで本気で探し始めた。カノンが「どこですか、主様、どこに──」と言いかけた、その瞬間。
「パンッ」
小気味よい指鳴らしの音が一つ、静寂を破った。
その軽やかな音と共に、世界が優しく、しかし決定的に塗り替えられる。冬の午後のひんやりとした空気は、たちまち夏の盛りの日差しと、けたたましい蝉時雨、そして太陽に焼かれたばかりの青草の香りへと塗り替えられた。その香りは土や木の葉、そして遠くで焼かれる焼きとうもろこしの匂いが混ざり合ったものだ。
四人が身に着けていた服は、爽やかな藍色の半袖運動着へと一変する。よく空気を通す麻が混ざったような素材で、袖を通すだけで心地がいい。胸の辺りには、精緻な銀の刺繍で特別な徽章が施されていた。一筋の湯気が優雅に五芒星を支え、その星の下には「平心湯快楽防衛隊」の可愛らしい文字が踊っている。
そして、彼らの体は十歳前後の子供の姿に戻っていた。
自分の小さくなった掌を見つめながら、アレンは飛び上がって喜ぶ。
「また来た! 今度は遊びだ!」
彼は自分の両手をまじまじと見つめた。小さく、節のところには昔のように器用さが宿っている気がした。
アルトは冷静に、自分の小さくなったプロポーションを分析していた。電子眼はかすかに輝き、この「変身」のエネルギー値を計測している。だが、その口元は、自分でも抑えきれずに上がっていた。このデータは、「楽しさ」を説明できないと、彼女は知っている。
カノンは弾力のある自分の頬を両手で包み込み、目を回しながら恍惚の声を上げる。
「天っ、天神様が……また、また私を変身させてくださいました……これは、こ、これは、専属の寵愛ですね!?」震える指がそっと胸の徽章をなぞる。その「証」が本物かどうか、確かめるかのように。
だが、今度ばかりは、空に本当に何かが走った。
一筋の流星が、驚くほど長い銀色の尾を引きながら、「無限カ」の真上を、音もなく青天に刻んでいったのだ。銀色の光は、青い空というキャンバスに、銀色のインクでさっと一筆描いたかのような、薄く、それでいて鮮やかな痕跡を、ゆっくりとゆっくりと残しながら消えていく。
「うわっ! 本当に流れ星だ!」
アレンが叫び、指を差したまま飛び跳ねた。
「真昼間の流れ星……ですか?」
カノンは目をしばたたかせ、天神と空を交互に見つめ、困惑した表情を浮かべている。彼女の「天神専用レーダー」は、これは絶対に主様の仕業だと告げている。しかし、彼女の「理性」は、白昼に流れ星など滅多にない自然現象だとも囁くのだ。
アルトの電子眼が一際強く輝き、無数のデータが視界を流れ落ちた。
「分析結果。昼間流星は極めて稀な大気現象に分類。しかし、観測されたエネルギー波形と振幅から判断し……人為的な可能性を排除できません。」
天神はただ、何も知らないといった顔で、にこにこと笑っているだけだ。その「私は何も知りません」という顔は、まるで小さい頃、こっそりお菓子を食べたのがバレた時の表情とそっくりだった。
カノンは、そんな天神の笑顔を見つめながら、心の中で「天神専用レーダー」と「理性」を激しく戦わせる。そして、ついに彼女は決断した。
「……Just Perfect。これはきっと、天神様が私たちに下さった奇跡なんです。」
四人の小さな影が、晴れ渡る青空と、流星が消えた銀色の尾の下、「無限カ」の門前に並んだ。お揃いの藍色の隊服を着て、胸には「平心湯快楽防衛隊」の徽章が光っている。彼らの瞳は、つい今しがた空を走ったあの光を映したかのように、どれもがキラキラと輝いていた。
天神隊長は、太陽よりも眩しい笑顔を見せると、小さな手を「ビシッ」と遊園地の中央へ向けて振り下ろした。それに応えるように、残る三つの手——アレン、アルト、カノン——が同時に差し出され、ぎゅっと互いを握りしめる。汗で少し湿って、でも信じられないほど力強く。
「平心湯快楽防衛隊、全員──出撃ぃッ!」
四人の子供たちは、手を繋いだまま、目の前に広がる陽光と歓喜の渦の中へ、一斉に飛び込んでいった。
第四幕:歓喜の渦、遊び伴の感染力
中央広場に飛び込んだ彼らは、「次は何をして遊ぼうか」と計画を立てる間もなく、あっという間に「楽しさの渦」に巻き込まれてしまった。
「わあ! いらっしゃい! 元気いっぱいの四人組だね!」
色とりどりの柄のTシャツを着て、満面に笑みを浮かべた若い兄ちゃんが、なりふり構わずアレンと天神の手を取った。彼の大きな手のひらは温かく、「君たちと一緒に汗をかくのが楽しみだ」と言わんばかりの熱気に満ちている。彼は二人を、すでに始まっている「信号ゲーム」の輪の中へと引き入れた。
「人数が足りなかったんだ、丁度いい! ルールは知ってる? 簡単さ! 赤は止まれ、青は進め、黄色はね、その場で三回転!」
すると今度は、ポニーテールをして全身に汗を滲ませた明るい姉ちゃんが、笑いながらカノンとアルトの手を引いた。
「おチビちゃんたちは二人でこっちのチームね! 一緒に『人間チーム』をやろう!」
カノンは「え? ちょっと待ってまだ心の準備が……」と戸惑ったが、その手はもうお姉さんにしっかりと捕まっており、足は自然と駆け出していた。お姉さんの手のひらは少しゴツゴツしていたけれど、不思議なほど温かかった。
こうして四人は、準備運動も、様子見も、何もないまま、いきなりゲームの「中」に放り込まれたのだ。
遊び伴の兄ちゃんは、ゲームを「仕切る」のではなく、本当に自分も一緒になって遊んでいた。鬼に捕まれば、他の子供たちと同じように大げさに叫ぶ。
「うわあ、やられたあ! 罰ゲーム罰ゲーム! カエルのモノマネで三周跳んでやるう!」
そして本当にその場にしゃがみ込み、両手で足首を掴んで、ぴょんぴょんと跳ねてみせる。その笑い声は、その場にいる誰よりもずっと大きい。彼の遊びへの没頭ぶりは、見ているだけで周りに伝染していく、そんな感染力があった。
アレンは気がつくと、どうやって動こうかと「考える」のをやめて、「本能的に」走り、叫び、笑っていた。彼の体が、「子供の頃」の純粋な楽しさを思い出していたのだ。頭で考える必要も、次の動きを計算する必要もない。ただ心の赴くままに体を動かす。滲んだ汗が額を伝い、眉毛をちょっと掠めて目にしみたが、そんなことはどうでもよかった。笑いが止まらないのだから。
そう、この感染力こそが鍵だった。遊び伴たちの笑い声、彼らの流す汗、全身全霊で「楽しみきる」その姿勢。それが、広場に足を踏み入れた全ての人を、知らず知らずのうちに「感染」させていくのだ。シャイな子供は、遊び伴にそっと手を引かれて輪の中へ入り、最初は「僕、できないよ」と呟いていたのに、最後には「もう一回!」と叫ぶようになる。自分は「遊び方が下手だ」と思い込んでいた大人は、遊び伴の笑い声につられて肩の力が抜け、不格好に数歩走ってみて、転んで、それから起き上がって、また走り出す。彼らの仕事は、自分の「遊び心」で、他人の「遊び心」に火を点けることなのだ。
カノンは、あっという間に件のポニーテールの彼女とすっかり意気投合していた。ゲームの合間、息を切らせてタオルで額の汗を拭いながら、お姉さんはカノンにこう話しかけた。
「私ね、小さい頃はいつも『おてんばすぎる』とか『もっと女の子らしくしなさい』って言われてきたの。無理にスカートを履いて、おとなしくしてた時期もあったけど、全然楽しくなかった。でも今は、『遊ぶのが上手』ってことが、私の才能なのよ。人見知りの子が、勇気を出して何かに挑戦するきっかけを作れるの。自分は『遊び方が下手』だと思ってる大人が、子供の頃の笑顔を思い出す手伝いができるの。」
彼女はそこで言葉を切り、カノンの目を真っ直ぐに見つめた。その視線は真剣で、そしてひどく優しかった。
「この世界ではね、誰かを楽しませるってことは、すごく尊敬される仕事なの。だって『楽しさ』って、『愛』と同じくらい、私たちに必要なものだから。」
彼女の顔には、心の底から湧き上がるような満足感が満ちていた。カノンは彼女を見つめながら、ふと、もう一人の自分を見ているような錯覚に陥った。かつて旧世界で「変わってる」「ちょっと痛い」とレッテルを貼られていた、もう一人の自分を。そうか、この世界では、「普通じゃない」ことは、そのまま「才能」に変わるのか。あなたの「変」は、あなただけの「魔法」なのだ。
第五幕:三つのエリア、三つの喜び
激しい追いかけっこが終わった頃には、四人の隊服は汗でぐっしょりと背中に張り付き、髪もびっしょりだった。しかし、どの顔の、どの瞳も、みんなキラキラと輝いている。
遊び伴のお兄さんとお姉さんは、笑顔で手を振って彼らを見送った。
「さあ、冒険にお行き! ここにはまだまだ楽しいことがいっぱいあるんだから! いいかい、時間を忘れるくらい遊ぶのが、一番の極意だよ!」
二人の笑顔は、夏の太陽のように爛々と輝いていた。
音楽エリア:カノンの歌
ふと耳を澄ますと、優しいギターの音色に導かれるように、彼らは静かな野外広場へとやってきた。ここは先ほどの中央広場の熱狂とは打って変わり、ひどくリラックスした、怠惰な空気が流れている。
広場の中央には小さなステージがあり、木のアコースティックギター、ジャンベ、キーボード、そして色々な長さのウィンドチャイムが数本、風に揺れてカランコロンと涼しげな音を立てている。客席などなく、ただ広大な芝生があるだけだ。ある人は草の上に座り込み、ある人は木の幹に背を預け、またある人は空を仰いで寝転びながら、ただ音に耳を澄ましている。時間の流れが、ここだけ特別にゆっくりなのではないかと思うほど、心地よい空気に包まれている。
カノンはその音楽を耳にした瞬間、瞳を輝かせた。彼女がステージに上がり、ギターを弾く女性と微笑みを交わす。女性がそっと弦を爪弾くと、水滴が水面に落ちて輪を広げるような、シンプルで美しい和音が響き渡った。
そして、カノンが口を開く。
小さな子供の姿になった彼女の歌声は、以前よりもずっと透き通っていて、驚くほど純粋だった。普段の、どこか気を張ったような堅さは微塵もない。それはただひたすらに優しく、澄み渡っていて、まるで星の下、一人きりで海に向かって歌う誰かのようだ。一つ一つの音符が真珠のように喉から零れ落ち、空気の中を漂い、ゆっくりと、聴く者の胸の奥へと降り積もっていく。
気がつけば、広場全体が静まり返っていた。
さっきまで喋っていた人も、遊んでいた人も、ただそこを通り過ぎようとしていた人も、みんな立ち止まっている。彼らはステージの上の小さな女の子を見つめながら、彼女の声に耳を傾け、まるで優しい光のヴェールに包まれているようだった。それは眩い光ではなく、月明かりのように柔らかく、すべてを穏やかに包み込む光だ。
アレンは呆けたように聴き入っていた。カノン姐さんの歌声が、こんなふうだなんて、彼は知らなかった。胸の奥が、誰かに柔らかな絹の布でそっと包まれているようで、温かくて、とても心地がいい。
アルトはその歌声を、静かに録音していた。彼女の電子眼は、こんな一文を記録する。
『カノン姐さんの歌声。これは彼女の魂と同じもの。天使の周波数だ。』
ステージ上の彼女を見つめながら、アルトの胸に不思議な感覚が込み上げる。これはもしかして、「感動」というものだろうか。
天神隊長は芝生に座り込み、膝を抱えて、そんなカノンをじっと見つめていた。その口元には、ひどく優しい、満ち足りた微笑みが浮かんでいる。その眼差しは「主人が使用人を見守る」ものでは決してなく、「一つの魂が、もう一つの魂の輝きに、ただ見惚れている」、そんな眼差しだった。彼は知っているのだ。カノンのあの歌声こそが、彼女の心の奥にある、一番本物で、一番美しい「言葉」なのだと。
ダンスエリア:爆音と熱狂
カノンの歌声の余韻がまだ空気に漂う中、今度は彼らの耳を、強烈なビートが奪い去った。
そこは先ほどの音楽エリアとはまるで別世界だ。広大な野外フロアの床には無数のライトパネルが埋め込まれ、音楽のリズムに合わせて赤、青、緑、紫と、光の海原のようにチカチカと点滅している。流れているのは、身体をじっとしてはいられなくさせるダンスミュージック。リズムは強烈で、重低音が腹の底にドスドスと直接響いてくるようだ。
何十人もの人々が、思い思いに体を揺らしている。関節という関節が全て音楽を聴いているかのように、流麗に踊る者。手足をメチャクチャに振り回しているだけの、完全にフリースタイルな者。何人かで輪になって手を繋ぎ、同じ方向にぐるぐると回っている者たち。大人の真似をして踊っていた小さな子供が、途中で自分の足に躓いて転がり、ケラケラと笑いながら、それでも立ち上がってまた踊り出す。
「よお、お前らも一緒に踊ろうぜ!」
汗だくでTシャツが透けている兄ちゃんが、四人を見つけて手招きした。その笑顔は、フロアのどのライトよりも眩しい。
カノンは迷うことなくフロアへ飛び出した。彼女のステップはとてもユニークだ。まるで「失われた古代文明のダンス」とでも言うべきか、手足の角度が奇妙で、けれど誰もが彼女に続いていく。重力から解き放たれたかのように、彼女の体は自由に回転し、跳ねる。
天神隊長は、小さな女の子に手を引かれて輪の中へ入り、笑いながらメチャクチャに跳ね回った。そこに振り付けなど一切なく、ただビートに合わせて適当に動いているだけだ。それでも彼は、アレンが見た中で一番、心の底から楽しそうに笑っていた。
アレンとアルトは顔を見合わせる。そして同時に、笑顔でその輪の中へ飛び込んでいった。
誰も、お前のダンスが上手いか下手かなど気にしない。リズムに乗れているかどうかすら、どうでもいい。ただ、動けばいい。汗が吹き出すまで。笑いが止まらなくなるまで。余計なことを考える余地が、頭の中から完全に消え去るまで。君の体は、「動くこと」の楽しさを、必ず思い出すのだ。
瞑想エリア:静寂の片隅
ひとしきり激しく踊った後、さすがに四人の子供たちにも疲れが見え始めた。滲んだ汗は額から首筋、背中へと伝い、服は体に張り付いているが、そんなことは誰も気にしない。ゆっくりと歩いて辿り着いたのは、大きな木々に抱かれたような、そんな場所だった。
そこは、先ほどのダンスフロアとはまるで別世界だ。
恐ろしいほど静かで、そして、どこまでも穏やかだ。「音がしない」のではなく、「優しさに包まれている」と感じるような静寂。耳に届くのは、岩の間をチョロチョロと流れる小さな小川のせせらぎと、風にそよぐ木の葉のサラサラという音だけ。自然が、とても小さな声で語りかけているようだ。遠くからは、かすかにシンギングボウルの響きも聞こえる。あの震えが、体の中を通過して、内側に溜まった疲れのようなものを、ゆっくりと解かしていってくれるかのようだ。
数人の白髪の老女たちがクッションの上で目を閉じ、何とも安らかな、穏やかな笑みを浮かべて座っている。その呼吸はひどくゆっくりで、この場所に流れる時間と、一体になっているように見えた。
カノンが、一番にバタリと寝転がった。遊び疲れて、全身の力を抜き、大の字になって、木々の間からこぼれる日差しを見上げる。陽だまりは暖かく、風はひんやりとしていて、彼女の体からは、少しずつ力が抜けていく。瞼が、どんどん重くなる。
アルトはそんな彼女の隣に座り、自身の電子眼の輝きもゆっくりと暗くしていく。それはまるで「待機中だが覚醒はしている」、そんな状態のようだった。彼女のコアは、この瞬間を記録し続けている。先ほどの「ダンス」のデータとは全く異なる、けれど、これもまた間違いなく「楽しさ」の一つの形なのだ。
アレンは、老女たちの真似をして、足を組んで座り、目を閉じて深呼吸をした。瞼の裏に、木の葉の隙間をくぐり抜けてきた日差しが、あたたかなオレンジ色の光を届けてくれるのがわかる。激しく脈打っていた心臓が、ドクン、ドクンと、ゆっくりと落ち着いていくのがわかる。そして、自分の鼓動の音が、とてもゆっくりで、とても安定しているのを聞いた。
天神隊長だけは、座らなかった。彼は大樹の前に立ち、そっとその樹皮に手を触れる。ゴツゴツとしているのに、どうしてか、ひどく温かい。彼は顔を上げて、梢の合間からこぼれ落ちる無数の光の粒を見つめた。その光は彼の顔の上でゆらゆらと揺れ、まるでかくれんぼでもしているかのようだ。彼の口元には、とても、とても淡い微笑みが浮かんでいた。
この遊園地は、二十四時間、いつだって開いている。太陽が沈めば、この場の明かりが自動で灯り、優しい暖色の光が、陽光の代わりとなって、ここで遊ぶ者、静かに座る者、ただ休息する者を見守り続ける。誰も、お前を追い出したりしない。「閉園の時間ですよ」と言う者もいない。お前が満足するまで、いつまででも、ここにいていいのだ。
第六幕:夕景と、次の目的地
どれほどの時が経ったのか。
瞑想エリアの静寂を、ぐう、という腹の虫の音が破った。
自分の腹を押さえ、アレンの顔がみるみる赤くなる。隣で大の字になっていたカノンはもう半分眠りかけていたが、彼女のお腹からも、全く同じ音が鳴った。アルトの電子眼が一瞬光り、データが記録される。『隊員エネルギー指数:低』。
そんな彼らの様子に、天神隊長はニヤリと笑うと、マジックのように後ろ手から何本もの「惑星アイスキャンディー」を取り出した。ビニールの包みを開ける「シュルッ」という小気味よい音と、真っ二つに割る時の「パキッ」という快感。少しずつ静まっていく蝉の声を背景に、それは、この上なく心地のいい、夏の儀式の音がした。
アレンがアルトのアイスを割って渡す。カノンが天神のを割いて差し出そうと身構えた瞬間、天神は自分の分を自分で割って、しかも、カノンより素早くやってのけた。口の中に広がる、冷たくて、ひたすら甘い味。火照った体の内側に、その冷たさが、何とも言えない絶妙な対比を生み出す。彼らはしばらく無言で、溶け出した甘い汁をチューチューと吸いながら、夕日に焼かれて黄金色と紅に染まる雲を、ただ眺めていた。
「遊び足りたか?」天神隊長が尋ねた。
「まーだ!」
アレンとカノンの声がピッタリと重なり、そして、どっと笑い声が起こる。その笑い声が、静かな瞑想エリアに、優しくこだました。
「ですが、少し空腹です。」
アルトが静かに付け加える。天神を見つめる彼女の電子眼に、ほんの少しの、とても淡い期待の色が浮かんでいた。
天神隊長は、それには答えず、ただ微笑んで、パン、と手を叩いた。その軽やかな一回の拍手で、世界が優しく元の姿を取り戻していく。冬の午後の陽射しが、再び四人の上に降り注ぐ。身体は元の大きさに戻っていくけれど、胸の中に満ちた「遊び尽くした」という満足感は、変わらずそこに在り続けた。
天神は伸びを一つすると、抱き枕を抱え直し、顎で遊園地の別の方角をしゃくって見せた。そこから一本の道が、海辺までずっと真っ直ぐに伸びている。そして、その海辺には、まるで巨大な貝殻のような形をした建物が、夕日を浴びてキラキラと輝いていた。
「よし。しっかり休んだしな。今夜のメインイベント、海底レストランへ行くとするか。」
アレンの目が、再び輝きを取り戻す。アルトの電子眼が、一際強く光った。カノンはと言うと……もう頭の中は「海底レストランには、どんなデザートがあるんだろう」ということでいっぱいだった。
夕映えの黄金を背に浴びて、四人の影が、その輝く建物へと歩き出す。背後ではあの巨大な「無限」の紋章が、優しい灯りをともし始め、夜を遊ぶ来訪者たちを迎え入れる準備を静かに整えているのだった。
第八十三話 完
天神のPM
今宵は、とても小さな、昔話をしよう。
君はまだ覚えているだろうか。まだほんの小さな子供だった頃、ある一日、君は家の近くの公園で、どこかのお兄さんか、お姉さんに出会ったことがあったね。その人は、君と一緒になって遊んでくれた。汗でびっしょりになるまで。太陽がすっかり山の向こうに隠れてしまうまで。君のお母さんが、夕飯の時間だからと迎えに来るまで。
別れ際、その人はしゃがんで、君の目を真っ直ぐに見て、こう言った。
「約束だ。また明日、同じ時間に、ここで遊ぼう。」
君は、何度も、何度も、力の限り頷いた。その夜、嬉しくてなかなか寝付けなかったのを覚えている。明日、あの人と何をして遊ぼうか、そればかりを考えていた。あの人は、ちゃんと覚えていてくれるだろうか、と。
次の日、君は「約束」を胸に、同じ公園へ行った。でも、その人は来なかった。
ずっと、ずっと待った。日が暮れて、お母さんがまた迎えに来るまで。けれど、その人はついに来なかった。
二度と、会うことはなかった。
それなのに、どうしてだろう。あれから随分と長い年月が経って、君はその人の顔も、名前も、何をして遊んだのかさえ、忘れてしまった。でも、あの日、本当に、本当に、心の底から楽しかったことだけは、はっきりと覚えている。あの夕暮れの風が、不思議と温かかったこと。誰かが、家に帰るのも忘れるくらい、一緒に遊んでくれた。そのことだけは、決して忘れてはいないのだ。
もしかすると、その小さな「忘れられない欠片」があるからこそ、君の心はあの日の楽しさを、ずっと大切に握りしめていられるのかもしれない。その大切な思い出は、心の奥の小箱にしまわれたビー玉のように、思い出すたび、優しい光を放つだろう。
その甘やかな記憶は、いつだって、君の胸の中にある。天神は言う。その記憶こそが、私たち人間が、一番最初に「愛」を知る、その原初の姿なのだと。
今日、君は、かつて君と遊んで家に帰るのを忘れてしまったあの人のことを、少しでも思い出せただろうか。
おやすみ。今宵の夢で、どうか、あの日の午後の公園へもう一度帰れますように。眩しい陽射しがあって、けたたましい蝉の声があって、顔も名前も思い出せないのに、その笑顔だけは、はっきりと憶えている、そんな人にもう一度、会えますように。
―― 天神
読者の皆さん、いつも応援してくださって本当にありがとうございます。
皆さんが物語を読んでくださるその一回一回が、私にとって最大の励ましです。
第83話「無限加」では、家族のような仲間と共に、即興の冒険と遊びの中で「快楽の力」を描きました。
この世界では、誰もが毎日、愛と喜びを感じることができます。
皆さんがこの物語を通して、少しでも幸せや温かさを感じていただけたら嬉しいです。
そして昨夜、久しぶりに『ドラゴンボールGT』の結末を見ました。孫悟空Jrが大切なおばあさんのために勇気を振り絞り、四星球を探しに行く姿に心を打たれました。
ふと思ったのです。もしかすると、私たち一人ひとりの心の中にも、目を輝かせ、胸に光を宿す少年がいるのではないでしょうか。彼は、私たちが若かった頃の自分自身——内なる子供——なのかもしれません。
もし皆さんが、その少年に再び出会うことがあったなら、どうかこう伝えてください。
「ありがとう。ずっと守ってくれて、本当に辛かったね。私の大切な四星球を、ずっと守ってくれてありがとう。」




