15 倫理の考え方
人は、学校であれ、企業であれ、家族であれ、とにかく組織に属している。倫理という言葉は、組織の中で用いられる場合がほとんどだ。組織の道徳と言っても一般的な日本語として問題はないが、このエッセイでは、道徳と倫理という言葉は、分けて考えている。道徳は、自由を前提とする一人の人間の頭の中にある独自の立法(自律)、倫理は組織の中で守るべきとされている立法(他律)ある。組織とは、主観的かつ外的なものである。組織は自然発生するものではなく、契約によって地盤を固めなければならない。
組織の目的とは、快適(または幸福)である。そしてその快適を達成するための手段は、偽善か露悪となる。一人の人間にとっては、どちらも悪だ。トロッコ問題を思い出してみれば、納得できるだろう。一人死ぬか、百人死ぬか、どちらが正解か? 一千万の機械と、一億円の機械、どちらが正解か? たとえば会社に属していれば、労働契約があり、さらにプロジェクトに属していれば、その中でも契約を行う。どちらが妥当かを判断するとき、人は、契約を確認して、契約に合った判断を行う。判断をしない判断をするのである。
人を動かす方法は二つある。一つは、契約で、二つ目は、支配である。契約で行う場合、それはマネジメントと言える。支配で行う場合は、マネジメントではなく、暴力である。
組織の契約に従って行動する場合、それは格律に従っていると言えるが、一人の人間の自由からきたものではないため、道徳とは言えない。道徳とは、自由からくる自身の立法に従うことだからである。ところで、さらに外の問題がある。それは倫理の問題である。倫理とは、理論や道徳の外にある問題である。倫理の問題とは、例えば、「人はなぜ人なのか?」という問題である。そのひとつの答えは、「自由だから」である。自由とは、世俗では、契約ができることである。人は生まれながらにして自由とは、生まれた瞬間から人は契約をしているということである。その契約相手とは、自分である。自分との契約に、組織の偽善や露悪は、はみ出ていないか、それを判断すること、それをわたしは倫理の問題と呼んでいる。いくら自分が、「こうあるべし」と決める場合でも、同じである。
最初の契約は何だったか、それと矛盾はないか、を考えるわけである。しかしながら、自分の最初の契約がなんだったのか、メモでも残していなければ、ちゃんと知ることはできないが、大まかには、誰しも知っているはずだ。それは、「よく生きること」である。人は、目の前の契約を眺めるとき、「よく生きること」に反していないかを判断することがある。この命題は、あらゆる問題に対して一つの解を導き出す手掛かりとなってくれる。
その手掛かりとは、「死ぬことは契約違反である」ということだ。この場合、『死』とは、肉体が滅ぶことではなく、魂の、もっといえば、主体としての生命の問題である。トルストイの人生論では、肉体が生きていることを生存と呼び、魂が生きることを生命と使い分けている。だから、肉体だけが生きていても、それは生存であって、生命ではないのである。
生命とは、この世界との関係である。だから、たとえわたしの肉体が死んでも、わたしとこの世界の関係は残る、と考えるわけである。さらに、そこに、ささやかな思想や哲学、意志があれば、その人はまだ、「よく生きている」と言えるのである。読者がある病院の医者か看護師だとして、「自分は絶対に嘘をつかない」という道徳法則を持っていたとする。しかし生前の患者から、「親戚に、私が亡くなったことを伝えないでほしい」とお願いされたら、それは患者の「よく生きること」に関わる問題であるため、自分の道徳に反してでも、尊重されるべきであろう、とも考えられる。だから人は偽善でも、「患者の言う通りにした方が良い」と判断することがある。このように倫理の問題は、二人以上の組織の場合に表面化する。偽善を選んだ本人にとって、その判断は、悪でしかない。これを善だとすることは、自分を偽ることにしかならない。
幸福を求めることは生存を求めることである。マンデヴィルによれば、組織とは、主観的かつ外的なものである。外的なものだけで構築されたものに、魂はない。だから、外的なものの目的は、生存のための快適となる。快適のための手段は、個人にとっては、偽善か露悪なのである。「私悪すなわち公益」である。
組織に長く属していると、それに合わせようとしてか、人は、自身の最初の契約を忘れてしまうことがある。きっかけがあれば、それを思い出すことはあるかもしれないが、生き返ってすぐ鏡を見て、ゾンビのようになった自分を見た恥ずかしさのあまり、酒に溺れ、快適に流され、魂はもとの棺に戻されるのである。そして肉体は、いつまでも動物のように飴と鞭で生き長らえるのである。そのとき人は、死んでいる人よりも死んでいるのである。




