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11 「私のどこが好きなの?」を考察してみよう


 恋人がいる人ならば、こういうことを何気なく聞かれて、困った経験があるかもしれない。


 この場合、どうやって答えてやれば良いのだろうか?


 今回は、こんな質問をいままでの哲学を使って考えてみたい。


「私のどこが好きなの?」と聞かれたら、カント哲学でアプローチしてみよう。


 そうすると、まず、質問者がどうやってものを認識しているか、それを一から解明してみる必要がある。


 これくらいなら軽くジャブを返す程度だからまだ大丈夫だろう。それに彼女は、諸君の意外な返答に首を傾げ、興味を示すだろう。


 さて、まず彼女の云っている『私』とは、いったい何であるか復習する。純粋理性批判で言えば、『私』とは、肉体としての『他人から見たわたし』、そして、魂としての『考える私』の二つがあると説明した。そして、さらに、その二つはあくまで虹のような現象であり、物それ自体ではない。物それ自体としての『私』は、『主体』と表現し、この主体がなければ、肉体としての『他人から見た私』も、魂としての『考える私』も存在しない。


 この場合、「私のどこが好きなの?」と言った本人は、どちらの『私』を想定して質問しているのか、それを確かめないことには、答えようがない。


 もし、『他人から見た私』を想定しているのであれば、相手のことを物質的にとらえてから言葉を返すことになろう。たとえば、髪型、洋服、体が痩せた、または太った、化粧が変わった、云々。


 それにくわえ、「私のどこが好きなの?」という質問には、『私』だけではなく、まったく異なる概念が付け足されている。『どこ』と聞かれているので、これには、「そこだよ」と指さして教えられる場所が一般的には当てはまらなくてはならない。そして『好き』は、一般的に欲望を表す言葉であるから、たとえば食欲、ハンバーグやステーキでも良いわけである。


 だから、「きみのすい臓が一番好きだよ。ここが一番おいしいんだよね」となるわけだ。恋人のことを食べながら会話しているのならこの会話は成立するし、正解になるだろう。


 または、その欲望が、美しさに惹かれる。つまり美術館で、絵画を眺め、これ以上ない、素晴らしい作品に出合ったような、そんな感情であれば、「きみの髪の毛」とか、「君の瞳」とか、「君の脚」といった言い方になるだろう。


 さらにまた、その欲望が、社会的欲求や自己実現欲求であった場合、たとえば、交際相手が億万長者の息子で、彼ともし結婚すれば、死ぬまで好きなだけ遊んでくらせるとか、彼女と結婚すれば世間体が保てるとか、そんなような理由が考えられる。よって、「(自分から見て)手段としての君が好きだ」と答えることになる。


 ということは裏を返せば、つまり、『他人から見た私』だけが好きなのであれば、その対象(恋人)が不慮の事故で大けがをしたような場合、「もう君のことは好きじゃない」ということになってもおかしくはないだろう。例えるなら、恋人を、壊れたボールペンくらいの感情で眺めるようになるだろう。場合によっては、どうして壊れたんだ、と怒り出すかもしれない。なぜならば、用度品としての役割を、その恋人は果たせなくなってしまったのだから。


 次に、『考える私』のほうで考察してみよう。


 『考える私』、要するに、「君の魂が好きだ」と答えることになる。しかし困ったことに、魂は、取り出して相手に見せたりすることができない。


 世の中には、われわれの常識を超えたものが可能性としてだけはあるわけで、だから、彼ないしは彼女には、魂が本当に見えているのかもしれない。しかし、残念なことに、世界に、魂を本当に見ることのできる人物、さらに恋人同士とともなれば、人数は極めて少ないであろう。


 しかも、そのような超越的な能力が備わっていないわたしのような一般人には、彼ないしは彼女、は魂が見えていると証明する手段も持ち合わせていない。だから、相手は思弁的にそのような仮説を立てて、独断的に、あたかもわかったかのように、それを述べているに過ぎない可能性のほうが、大いにありうるわけだ。


 仮に、それがわかったとして、それをどのように表現したらよいのであろうか。


「君の魂は虹色に輝いていて、純潔で美しいから」とでも言うのであろうか。


 ただ注意しなければならないことは、そのように認識されてしまった時点で、それは魂を愛したわけではなく、肉体のほうを愛したのと何ら変わりはない。なぜならば、魂を認識できる人にとって魂は、肉体と同じ、単なる現象でしかないからである。


 前回のエッセイで、トルストイの『人生論』を紹介したが、自分の生命を知っている人など、この世にいるはずがない、と説明した。


 たとえば、虹であれば、その現象は、水蒸気と光によって現れることが、容易に説明できる。言葉で表現できなくとも、良く晴れ渡った日に庭で水をまき散らせば、証拠をそろえることができよう。


 自分自身の魂――考える私――ではどうだろうか? その魂とやらは、虹のようにうまく分析できるであろうか? 


 魂のように、別の要素に分解できないものを、カントは『単純なもの』と呼ぶ。たとえば、虹にもたくさんの種類があるが、わたしたちは、どの虹も、虹として認識することができる。


 その理由は、さまざまな虹を、抽象的な虹、つまり虹一般として認識しているからである。その虹一般は、足したり引いたりするのに大変便利なもので、わたしたちはそれを使って、手で掴むこともできない虹の数を数えることができるのである。


 しかし魂は、そもそも抽象化されてしまっているのである。


 たとえば、虹を足したり引いたりするのであれば、虹をただの点に抽象化してから数えても、なんら間違いは起こらないであろう。


 しかし、ただの点から虹を思い浮かべることは不可能である。


 わたしたちが思い浮かべる魂は、この点となんら変わりがない。


 だから、魂を思い浮かべる本人も、そもそも自分の魂というものを勘違いしていると言って良いだろう。


 この場合、「私のどこが好きなの?」には、答えられるはずがない。そもそも、自分の魂の理解も、無に等しいのであるから。


 よって、この「私のどこが好きなの?」という質問に答えようとすれば、『他人から見た私』の方を想定して回答するしかない。これは質問者が「自分のことを物として扱ってほしい」と言っているのと、なんら変わりがないことになってしまう。物として扱われたくないのであれば、わざわざそれに誘導するような質問はしないほうがいいだろう。それがお望みなら話は別だが。


 もし「私のどこが好きなの?」と聞かれて、魂の方を想定したいのであれば、沈黙するしかないであろう。逆に、はっきりと体の一部を答える輩は、ただの変態である。


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