2 エリシャさん
ぼくが本館の裏手にある作業場で薪割りにいそしんでいると、すぐそばにある裏口からエリシャさんが現れた。
「どうも、こんにちは。エリシャさん」
「ああ、アルトか。ご苦労さん」
エリシャさんは、標準的な身長のぼくより背が高く、すらっとしていて、銀色の長髪とサファイア色の瞳、透き通るような白磁の肌がそこはかとない儚さを漂わせている。
エリシャさんは祖母の代からこのハイネ&ハイネで料理人をしてくれている人で、おそらくはもう三〇代の半ばを過ぎているはずだけど、見た目は二〇代の前半くらいにしか見えない。エルフの血が入っているせいらしい。
アンネがよく羨ましいと言っている。
アンネも兄としてのひいき目を差し引いてもかなりの美少女だと思うけれど、エリシャさんの凛とした美しさや、触れれば壊れてしまいそうな儚さからはほど遠い。
小柄な身体をばたばた動かして忙しく立ち働く姿は健気だし、お客さまに見せる笑顔もチャーミングだと思うのだが、人は自分にはないものをほしがる生き物らしく、アンネはエリシャさんみたいになりたいと言ってはため息をついている。
エリシャさんは調理服のポケットからタバコを取りだして一服しはじめた。
館内は禁煙なので、喫煙するには外に出てもらうしかないのだ。
エリシャさんはタバコの煙を吐きだしてから言った。
「おまえたち兄妹がここを継いでから、もう二年か」
「ええ。そうですね」
「最初はどうなることかと思ったが、よくやっていると思うよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですが、どうしたんです? いきなり」
「……うむ。このところ、嫌な予感がしてな」
エリシャさんにはエルフの血が入っている。
エルフは自然との交感を重んじる種族で、そのなかでもとくに感覚に優れたものは超自然的な予知や予言の能力を持っているらしい。
エリシャさんはエルフの血よりも人間の血が濃いから、予知や予言のような超能力は持っていないけれど、時折こうして悪い物事の前触れを感じることがある。
祖母もエリシャさんの予感に助けられたことが何度かあったらしい。
十年ほど前、エリシャさんがまだハイネ&ハイネにやってきたばかりの頃、グリンス=ウェルを地震が襲った。
その時も、エリシャさんはいち早く異常を察知し、前もって地震の対策をとることができた。
祖母はエリシャさんの話をグリンス=ウェルの町内会にも伝えたのだけれど、町内会の人たちはその話を信じず、ろくな対策を取らなかった。
結果、グリンス=ウェルには甚大な被害が出たらしいが、それ以来エリシャさんの予感は町内会でも重んじられるようになったという。
その後も、隣家の小火を消し止めたり、温泉の突沸事故を防いだりと、エリシャさんの予感は大いにグリンス=ウェルの役に立ってきた。
そのエリシャさんが、なにか嫌な予感を感じているという。
「嫌な予感ですか。
いったい、何が起きるんです?」
「この感じは、自然災害ではないな。
もっと複雑な……人間同士の間柄から生じてくるような災いだ。
それが具体的にどのようなものになるのかは、複雑すぎてわからない。
ただ、それがきわめて近くで起きることは確かなようだ」
「きわめて近く……。
ハイネ&ハイネの中で、ということですか?」
「ハイネ&ハイネを含むこの辺りだな。
ハイネ&ハイネと……あの新しくできたスパリゾート。
そのくらいの範囲だ」
「スパリゾートですか……。
ハイネ&ハイネとのあいだに何かいざこざが起こるとか、そういうことでしょうか」
「それがいちばん考えやすいが、断定はできない。
なにしろ人間同士の関係は複雑で、自然現象のようにはっきりとは識別できないんだ。
わたしの予感はあくまで『そういう感じがする』だけのもので、エデンにいるエルフの長老たちのような予言や予知ではないからな」
「それでも、覚悟だけはできますから。
助かります」
「うむ。注意していてくれ。
それと、このことはアンネには言うなよ。
このところ、あのホテルのことで神経質になってるみたいだから、余計な刺激は与えたくない」
「そうですね。ぼくの胸の裡に留めておきます」
そう言って胸をなでたぼくを、エリシャさんがまぶしいものを見るような目で見ている。
「……本当に、人間はいつのまにか成長しているものなんだな。
わたしがここに来た頃には、アルトはまだ寝小便垂れの坊主だったのに」
「そういうことは忘れてくださいよ」
「わたしは感心してるんだよ。
アルトは立派になった。
おまえたち兄妹がハイネ&ハイネを継いだ時は、まだ少し不安だった。
だけど、この二年でおまえたちは随分と成長した。
アルトはまだ一八で、アンネは一六だというのに、こと旅館の経営に関してはもう玄人はだしだろう。
立派だよ、本当に」
「よしてくださいよ。照れくさいですって」
「ふふっ。そうか。
だが、おまえたちなら多少の災難がふりかかってきても、たくましくやっていけるとわたしは思っている。
まだ若いと言う者もいるが、わたしはそうは思わない。
自信を持って、胸を張ってやっていけばいいよ」
ぼくは照れくさくて、返す言葉が思いつかなかった。
そんなぼくをエリシャさんは目を細めて見つめていたが、不意に真顔になって聞いてきた。
「……だが、本当に良かったのか?」
「何がですか?」
「進学のことだ」
「ああ……」
ぼくは高校卒業と同時にハイネ&ハイネの五代目館主になった。
ちょうどその頃に祖母が急逝し、ハイネ&ハイネを継ぐ人が他にはいなかった。
それぞれに自分の職業を持っている両親は旅館を継ぎたがらなかったし、ハイネ&ハイネの従業員の中にも適当な人がいなかった。
勤続年数で言えば、十年以上ハイネ&ハイネにいるエリシャさんがいちばんだし、さまざまな知識を持った頭のいい人でもあるから、後継者にという声もあったのだが、エリシャさんは「自分は一介の料理人にすぎないから」と言って固辞した。
それに、その時点ですでに、ぼくと妹のアンネがハイネ&ハイネの経営にいちばん詳しく、年が若いことを除けば誰もが適任だろうと思っていた(らしい)。
「わたしは、少し後悔しているんだ。わたしがハイネ&ハイネを一時的に預かることにして、アルトが学問を修めるのを待ってやることもできたんじゃないかと。
だが、わたしが一料理人にすぎないことも事実で、伝統あるハイネ&ハイネを背負うだけの覚悟はできなかった。
結果、おまえはあんなに好きだった学問の道をあきらめて、ハイネ&ハイネを継いだ」
「やめてくださいよ。
ぼくはたしかに学問が好きですけど、それ以上にこのハイネ&ハイネが好きなんです。
どちらかを選べと言われたら、何度選びなおしてもハイネ&ハイネを選びますよ」
学問に全く未練がないと言えば嘘になるが、それは偽りのないぼくの気持ちだった。
ぼくは妹と二人でこのハイネ&ハイネを守っていくと決めたのだ。今更そのことを悔いたりはしない。
「そうか……。
そう言ってくれると救われる。
困ったことがあれば、何でもわたしに相談してくれ。
知っての通り料理しかできない無骨な女だが、相談相手にくらいはなれるからな」
エリシャさんはそう言い残すとタバコを揉み消して本館の中へと消えていった。