1 温泉旅館の兄妹
ぼくがハイネ&ハイネケン旅館のロビーで本を読んでいると、不意に声をかけられた。
「お兄ちゃん、なに読んでるの?」
声をかけてきたのは妹のアンネだ。
翡翠色のくりくりした目と、それに似つかわしい控えめな背丈。
今は長いピンク色の髪をツインテールにまとめ、学校の制服の上に旅館のロゴがプリントされたエプロンをかけている。
ぼくは黙って本の表紙を見せた。
「『グリンス=ウェル発展史』……? また難しい本読んでるね」
「そんなに難しくないよ。この町の歴史が素人にもわかりやすい文章で丁寧に書かれてるんだ」
だけど、たしかにぼくは小難しい本を読むのが好きで、旅館の仕事のあいまによくこうしてロビーで本を読んでいる。
お客さまが多い時は、ロビーにいるわけにはいかないけれど、ぼくはここのクッションの効いた革張りのソファが好きだった。
ロビーには、フロントの他に待合のためのスペースがあり、そこに二人がけのソファが二つ向かい合わせに置いてある。ソファに面した壁はガラスになっていて正門までの敷地が見渡せる。
その反対側の壁には、『グリンス=ウェル発展史』にも登場した温泉王ウィスコット一世の肖像画がかけられている。庶民にも慕われていた温泉王はふっくらとした口元に磊落そうな笑みを浮かべていた。
「……今日はお客さんは来そうにないね」
ぼくが言う。
「うん。
今日は、昨日到着したドワーフの老夫婦さんだけかな。
さっき、湯畑を見にいくって出て行ったけど」
アンネの言うドワーフの老夫婦は、昨日から二泊三日でこのハイネ&ハイネケン旅館に投宿しているお客さまだ。
名前はたしか、ングトゥフ夫妻。
ドワーフの名前は人間には発音のむずかしいものが多いけれど、夫妻の名前はそのなかでもとびきりだったので、逆に覚えている。
もちろん、お客さまの名前は基本的にすべて覚えることにはしているけれど。
「日が暮れるまでに、薪だけ割っておかないといけないね」
もう初夏と言っていい時期ではあるが、グリンス=ウェルは標高一四〇〇メテルを超える山間の町だ。
夜には暖房が必要なくらい気温が下がることもある。
もうそろそろその心配もなくなってくるはずだが、今年はなかなか気温が上がってくれない。
夏祭りを三日後に控えたこの時期の寒さには、町内会のグレッサさんも頭を抱えていた。
「うん。お願いね」
ぼくとアンネはこのハイネ&ハイネケン旅館の跡取りだ。
もともとこの旅館を切り盛りしていたのはぼくとアンネの祖母だったのだが、一昨年に風邪をこじらせて亡くなってしまった。
ぼくとアンネの両親は草本学者と冒険家で(父が草本学者で、母が冒険家だ)、ふたりとも旅館を継ぐ意志はなかった。今も、ぼくらにこの旅館を任せて外国を飛び回っている。
というと無責任なようだけど、ぼくもアンネもこの旅館が大好きで、小さい頃から祖母の手伝いをしていたから、旅館の基本的な業務はこなせる。
それに、なにもこの旅館をぼくとアンネだけで切り盛りしているわけではない。
料理人のエリシャさんもいるし、アルバイトをしてもらっているアンネの同級生のザッハとトルテもいる。
「そういえば、今日はザッハとトルテを見ないけど」
「うん。今日はお客さんも少ないから、わたしたちだけでも手が足りると思って」
アンネはこの旅館の経理も担当している。お客さまの少ない時などはこうして、自分たちの手だけでおもてなしをして、人件費を少しでも浮かせようというわけだ。
ちなみにぼくは、力仕事の他、宣伝や交渉を担当することが多い。
「じゃあ、料理を運ぶのと布団を敷くのは手伝うよ」
「うーん、でもそっちは、昨日からわたしが担当してるから、代わらない方がいいかもしれないよ。お兄ちゃんは薪割りと、時間があったらロビーの掃除をしてくれると助かるかな」
「わかった。やっておく」
ぼくは読んでいた本を抱えて立ち上がった。
「あ、今すぐじゃなくてもいいよ。本、読んでたんでしょ?」
「いや、そろそろ身体を動かしたくなってたとこなんだ」
ぼくはとりあえず本をロビーのカウンターの後ろに置いた。
「そっか。じゃあ、よろしく」
「うん」
ぼくはロビーから建物の外に出た。
外からハイネ&ハイネケン旅館の姿をながめる。
ハイネ&ハイネケン旅館(愛称・ハイネ&ハイネ)は、創業がヴェルレーン二世の一九年だというから、今年で創業一三〇年を迎える。
有名な温泉王ウィスコット一世の時代には別棟まで構えて隆盛を極めたという。その頃には温泉王直々のご来館もあったらしい。
今では本館だけになってしまったけれど、創業以来建てかえをしていない石造木造複合様式の本館はグリンス=ウェル町の伝統文化財にも指定されている由緒ある建物だ。
本館は二階建てで、一階部分は黒曜石と大理石の石造、二階部分はシィバ檜を贅沢に使った木造。シィバ檜には漆が塗られ、一階部分の黒曜石と合わせて、建物の色調を落ち着きある黒で統一している。屋根には東方から入ってきた瓦が葺かれ、建物に異国情緒を添えている。
ここからは見えないが、建物の内部は東方様式と西方様式の折衷だ。
一階の客室は靴を脱いで上がる東方式の畳敷きの居室だが、二階の客室は靴のまま上がる西方式のカーペット敷きの居室になっている。
なんでも、初代館主のハイネ氏(ぼくのご先祖に当たる)とハイネケン氏がそれぞれ東方と西方の出身だったのだそうだ。
木造と石造の折衷という珍しい外観も、ハイネ氏とハイネケン氏の出身に由来するらしい(ちなみに、この辺りでは珍しいぼくの黒髪もぼくの先祖であるハイネ氏に由来する)。
ひいき目に見ても、やはりいい建物だと思う。
無二の親友だったというハイネ氏とハイネケン氏を象徴するかのように、石と木という異質な素材が違和感なく調和している。
建物の後ろには緑の濃い針葉樹林が広がっている。
その向こうには標高二二〇〇メテルを誇る風越山。
冬には雪が積もり、針葉樹林も、その奥の山も真っ白に染まり、旅館の建物だけが黒い、どこか幻想的な光景を見ることができる。
(父さんも義母さんも、どうしてこの旅館を継がなかったんだろう? こんなにいい旅館なのに)
と思うが、父には父なりの、義母には義母なりの事情があるのだろう。
父は草本学者で、未知の植生を分類、整理するのが生き甲斐だと言っているし、義母は義母で、極地や高山に挑むスリルに魅せられている。
方向性は違うけど、根本的には似たもの同士の夫婦なんだと思う。
それはそれでかっこいい生き方だと思うが、ぼくもアンネもお祖母ちゃん子で、いつかこの素敵な旅館を継ぎたいと小さい頃から思っていた。
この旅館も、この景色も、子どもにそれだけの気持ちを抱かせるのに十分なほど、素晴らしいものだった。
(でも……)
この景観に、最近一つの影が差している。
文字通り、それは影だった。
二階建ての本館から目を離し、東側の敷地を見る。
そこにはかつてハイネ&ハイネの別棟が建っていた。
温泉王ウィスコット一世の時代が終わり、王侯貴族の温泉ブームが一段落すると、グリンス=ウェルへやってくる旅人の数も減り始めた。
グリンス=ウェルの温泉地としてのブランドは温泉王の時代から変化することはなかったが(温泉ブームで乱立した「にわか温泉」が軒並み没落する中でかえって本物の温泉としての磐石な地位を手に入れたともいえる)、かつての異常とも言える賑わいは去り、グリンス=ウェルはのどかな温泉街へと変貌していった。
ハイネ&ハイネへやってくるお客さまの数も減ったため、ぼくの祖母は別棟を売却して営業を本館だけに限ることにした。
温泉王の時代に事業を広げすぎた同業者が廃業を余儀なくされる中で、祖母の選択は正しかったのだと思う。
ハイネ&ハイネケン旅館は、その歴史と伝統を武器に、富裕な貴族や商人はもとより、西のエデンからやってくるエルフのお客さまや、風越山の向こうの自治州に暮らすドワーフのお客さままで、幅広い客層のお客さまをおもてなしすることになった。
そのおかげで、ハイネ&ハイネは湯畑周辺に乱立していた新興旅館の価格競争に巻き込まれずに済み、グリンス=ウェル温泉屈指の高級旅館としての地位を築くことに成功した。
祖母のことを、伝統あるハイネ&ハイネケン旅館を縮小させた無能な女将として責める人もいるのだけれど、むしろ祖母は時代の波をきちんと見据え、量から質への転換をタイミング良く図ることのできたすぐれた女将だったのだと思う。
愚将フォイゲルシュテルンの蛮勇を褒め、名将シュナッファーの賢明な戦略的撤退を誹った愚昧王ヴァルガスの故事を思い出してほしい。
調子のいい時に勝つのは当たり前だ。
問題は、調子の悪い時にいかに損害を抑えることができるかなのだ。
そういうわけで、祖母の三代前に創業され、祖母の代に現在の形となったこのハイネ&ハイネだが、現在、未曾有の危機にあると言ってもいいかもしれない。
かつてこの旅館の別棟のあった東の土地には、今、巨大なリゾートホテルが建っている。
帝都ヴァーデルハルトにある迎賓塔をモデルにしたというそのリゾートホテルは、十八階建ての巨大なタワー。
帝都の建築技術の粋を集めたというその作りは、見るからにオシャレで近代的だ。
――グリンス=ウェル・スパリゾート。
それが、このリゾートホテルの名前である。
「……ほんとに、酷い話だよね」
アンネがいつのまにか後ろに立っていた。
「あの馬鹿みたいに大きいホテルのせいで、午前中お日様がささなくて洗濯物が乾かないし。
せっかくの湯畑も、観光客の多い昼時にあのホテルの陰に入っちゃうんだもん。
その上、各部屋に温泉を引くからって源泉からお湯をどんどん汲み上げてさ。
あれじゃあいつか温泉が涸れちゃうんじゃないかって、町内会のグレッサさんが心配してたよ」
そう。
ハイネ&ハイネケン旅館にふりかかっている未曾有の危機とは、あのグリンス=ウェル・スパリゾートのことだった。
「日照の問題もあるけど、あのホテルがグリンス=ウェルにやってくるお客さまを根こそぎ奪ってるのが最大の問題だな」
「うぅ~。
悔しいけど、そうなんだよね。
昔ながらの旅館がいいって言う人もいるんだけど、帝都圏の人はテレビとかで宣伝も打ってるあっちになびいちゃうんだよね」
このままでは他の旅館が壊滅しかねないということで、町内会でも頻繁に会議を行っているのだが、今のところこれといった打開策は見つかっていない。
「……だけど、今いるお客さまを大事にすることじゃないか。
いいサービスを続けてれば、きっと大丈夫だよ」
「お兄ちゃんは帳簿を見てないからそんなことが言えるんだよ!
ほんとに、採算ギリギリにまで売り上げが落ちちゃってるんだから!
あのスパリゾートが開業してからまだ三ヶ月でこうなんだよ!?
お兄ちゃんも、もっと危機感を持ってよ!」
「開業したばかりだから、目新しさで客を集めてるだけかもしれないじゃないか。
まだわからないよ」
「そうだとしても!
確実にお客さんを奪われてるんだからね!
ここで気を抜いたらお客さんごっそり取られちゃうよ!」
「とは言ってもね。
うちにはうちのやりかたがある。
代々続いてきた伝統を守っていかないといけない。
あのスパリゾートみたいに、フィットネス施設を作ったり、外国から有名なシェフを呼んだりするわけにもいかないよ。
……そんなお金もないし」
そう。
問題はお金なのだ。
グリンス=ウェル・スパリゾートは、帝都の大財閥シュルンベルクの傘下にある。
シュルンベルクはその資金力と財閥としての総合力を生かして、家族経営の小規模旅館には真似のできないサービスで人を集めている。
フィットネス施設や外国の有名シェフの招待もそうだけど、それ以外にも、シュルンベルク財閥系の店舗での優待券を配ったり、各地に点在する系列リゾートホテルの宿泊料を割引したり。
そしてもちろん、「市民生活を美味しく楽しくサポートするシュルンベルク財閥」(シュルンベルク財閥のテレビコマーシャルのキャッチコピーだ)という国民的に形成されたブランドイメージがある。
よく知らない旅館に行くのは不安だけど、シュルンベルク財閥系列のホテルなら安心、というわけだ。
でも、
「うちにはうちのよさがある。
こういうのはお金をかければいいってもんじゃないから。
小さい旅館ならではの暖かみとか、細かく行き届いたサービスだとかで差をつけられるんじゃないかな」
「うぅ~。
それは、そうだけど……」
アンネはまだ不安顔だ。
アンネの気持ちもわかる。
敷地のすぐ隣にあんなに大きなホテルを突然建てられて、ぼくだって驚いた。
その上、そのホテルは大資本ならではの資金力や総合力でぼくらには真似のできないサービスを提供している。
これで不安にならない方がおかしい。
「ぼくたちはぼくたちにできることをやろう」
ぼくはそう言ってアンネの頭をぽんぽんと叩いた。
アンネは不安顔ながらもロビーへと戻っていく。
ぼくはぼくにできること(とりあえずは薪割り)をするために本館の裏手へと回った。




