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君に恋をすることができた

俺の言葉のあとに訪れた沈黙は、舞夜とこれまで共有してきたどの沈黙とも違っていた。


一緒に歩いているときの心地よい沈黙でもない。

二人だけに分かる思い出を振り返りながら、写真を眺めているときの沈黙でもなかった。


まだ口にできていない言葉のすべてを、そこに閉じ込めているような沈黙だった。


舞夜は俺の前に座っていた。

公園の風に、長い紫色の髪が柔らかく揺れている。

同じ紫色の瞳は、じっと俺を見つめていた。


彼女は急かさなかった。


俺の言葉を先回りして予想しようともしなかった。


ただ、待ってくれていた。


そして、初めて舞夜と出会ったあの日から、俺はようやく理解した。


その待つ時間は、言い訳を探すためのものじゃない。


素直になるための時間なのだと。


「舞夜……俺たちが初めて会ったとき、君が最初に言ったことを覚えてる?」


彼女は驚いたように瞬きをした。


「最初に言ったこと?」


俺は頷いた。


「俺に、君に恋をしなきゃいけないって言っただろ」


一瞬、舞夜の表情が止まった。


それから、彼女の唇に小さな、どこか懐かしそうな笑みが浮かんだ。


「もちろん覚えてるよ。忘れるわけないじゃない。……かなり大胆な近づき方だったよね?」


「かなりな」


「ちょっと!」


舞夜の抗議に、俺は思わず笑ってしまった。


いかにも彼女らしい反応だった。

その瞬間、俺は少しだけ、あの頃に戻ったような気がした。


まだ、自分の人生に突然現れて、好き勝手に変えていこうとする女の子に、どう接すればいいのか分からなかった頃。


けれど、今は思い出に逃げたくなかった。


あの思い出が俺にとって何を意味するのか、ちゃんと伝えたかった。


「最初は、君がどうしてそんなことを言うのか分からなかった。何を期待しているのかも分からなかった。君の言う通りにして、質問に答えて、一緒に過ごす時間を増やせば、いつか君の目的が分かるんじゃないかって思ってた」


舞夜は視線を逸らさずに聞いていた。


「何を言えばいいのか。どう振る舞えばいいのか。君の笑顔にはどんな意味があるのか。君が俺に近づいてくるようになってからは、何か失望させるようなことをしてしまわないか、そんなことばかり気にしていた」


俺は小さく笑った。


「今思えば、結構疲れることをしてたな」


「だったらもっと早く言ってよ!」


「君が疲れるって言ってるわけじゃないぞ」


「そう思ってたんでしょ?」


「……少しだけ」


舞夜は頬を膨らませた。


俺は笑った。


この瞬間を軽くしたかったわけじゃない。

ただ、彼女の前では別の誰かを演じる必要がない。


こんなときでも、俺は俺のままでいられる。


それも、彼女と出会ってから変わったことの一つなのかもしれない。


いつも正しい答えを見つけなければ、彼女の隣にいる資格がない。

そんなふうには思わなくなった。


間違えてもいい。


緊張してもいい。


不器用でもいい。


それでも、彼女に近づいていきたいと思えるようになった。


俺の笑みが、ゆっくりと消えていく。


「でも、あるときから、君に恋をするために何をすればいいのか、考えなくなったんだ」


舞夜が少しだけ首を傾げた。


「……いつ?」


「分からない」


それは本当だった。


カレンダーに印をつけられるような日があったわけじゃない。

何かの鐘が鳴って、俺に知らせてくれたわけでもない。

頭の上に光が差したわけでも、謎の声が教えてくれたわけでもなかった。


変化は、もっと静かに訪れた。


彼女が好きなことについて話しているのを聞いていたとき。


彼女からメッセージが届いて、開く前から笑顔になっていたとき。


店で綺麗なものを見つけて、彼女にも見せたいと思ったとき。


学校に着いて、別々のクラスだと分かっているのに、自然と彼女の姿を探していたとき。


写真が上手く撮れなくても、隣で彼女が笑っているだけで、それが完璧な一枚に思えたとき。


そして、特別なことが何もない日でさえ、彼女と一緒にいたいと思っていたとき。


「たぶん、自然にそうなったんだと思う」


俺は言った。


「ある日、気づいたんだ。もう君のお願いを叶えようとしているわけじゃないって」


息を吸う。


「だって、もうお願いされる必要なんてなかったから」


舞夜の目が、少し大きくなった。


「大樹……」


「君に会いたかった。君と話したかった。君の一日がどんなものだったのか知りたかったし、自分の一日も君に話したかった。君から会いに来てほしかった。でも、俺からも君を見つけに行きたかった。君が俺に近づいてくれることも嬉しかったけど、もう理由を作らなくても、君に近づきたいと思っていたんだ」


俺は二人の手を見つめた。


一緒に歩いた日々。

初めて指先が触れたとき。

そして、元日のあの日、舞夜が俺の手を握って、逃げないでと言ったこと。


それから顔を上げた。


「理由がなくても、君の手を握りたいと思うようになった」


舞夜は俺たちの手に視線を落とした。


ゆっくりと、彼女が片方の手を開く。


二人の間に差し出された手。


俺に握ってほしいと、言葉にする必要はなかった。


俺は自分から腕を伸ばし、彼女の指に自分の指を絡めた。


その手は温かかった。


何度も繰り返してきた仕草なのに、今日は違う意味を持っているように感じた。


ずっと理解できずにいた問いに、ようやく自分で答えを返したような気がした。


「君が過去のことを話して、悲しそうにしていたときのことも覚えてる。あの思い出と向き合うのが、君にとってどれほど難しいことだったのか。俺には分からないこともたくさんあった。何を言えばいいのか分からなくて、余計に傷つけてしまうんじゃないかって怖かった」


舞夜が、そっと俺の指を握り返した。


「でも、俺はそばにいた」


俺は言った。


「君の問題を解決できると思ったからじゃない。君に起きたことを消せると思ったからでもない。ただ、君が一人で全部を抱え込まなくてもいいんだって、知ってほしかったから」


舞夜は俯いた。


紫色の髪が一房、彼女の顔にかかった。


「それから、また一緒に楽しい時間を過ごせるようになって、君が少しずつ穏やかに笑うようになって……そこで気づいたんだ。君のそばにいるために、特別な誰かになる必要なんてないんだって。君を何もかもから救わなきゃいけないわけでも、二度と苦しませないと約束しなきゃいけないわけでもない」


俺は彼女の手を優しく握った。


「ただ、そばにいたかった。君が嬉しいときも。心配事があるときも。何をすればいいのか分からないときも。話したいときも、少し静かにしていたいときも」


喉が詰まりそうになった。


何度も夜の間に考えていた言葉が、頭の中から少しずつ消えていく。


けれど、不思議と怖くはなかった。


初めて、完璧な言葉を暗記しようとしているわけじゃない。


ただ、本当のことを伝えているのだから。


「それから、バレンタインとホワイトデーがあって……君に贈ったペンダントも」


舞夜が空いている手を胸元に添えた。


小さなペンダントが、午後の光を受けて控えめに輝いている。


「……つけてくれてるんだな」


「ほとんど毎日つけてるよ」


あまりにも簡単な返事だった。


それなのに、胸の奥が少し痛くなった。


あのペンダントを手に入れるために費やした時間。

選ぶときに感じていた迷い。

彼女が受け取ってくれたときの喜び。


あのとき、俺は彼女に、自分が大切に思っていることを思い出してもらえるようなものを贈りたかった。


でも今なら分かる。


本当の意味は、物そのものにあったわけじゃない。


あの贈り物に込めたかったのに、まだ上手く言葉にできなかった気持ちにあったんだ。


「渡したときは、俺のことを思い出してくれるようなものを持っていてほしかったんだ。見たときに、少しでも笑顔になってくれたらいいなって」


「……なるよ」


舞夜が答えた。


「でも、今思えば、ちょっと自分勝手だったのかもしれない」


彼女が顔を上げた。


「自分勝手?」


「君の中に、俺の何かを残したかった。俺のことを考えてほしかった。ペンダントを見たときに、君の隣でこれからも思い出を作りたいと思っている誰かがいるって、思い出してほしかったんだ」


俺は一度言葉を切った。


「でも、当時は分かってなかった。俺自身も、君を思い出すものばかりで生活がいっぱいになっていたことに」


舞夜は動かなかった。


「俺たちが残した写真。辛い日に読み返すメッセージ。学校へ向かう途中に思い出す会話。君が好きそうだと思って目に留まった小さなもの。まだ一緒に行ったことのない場所だってそうだ」


俺は照れくさそうに笑った。


「俺の生活は、君でいっぱいになっていたんだ。舞夜」


彼女の唇が、わずかに開いた。


けれど、言葉は出てこなかった。


俺も、声が震えそうになるのを感じた。


それでも続けた。


「だから、最初に君がお願いしたから、こんなことを言っているんじゃない。君がそばにいることに慣れたからでもない。君を失うのが怖いから、今の関係を手放したくないからでもない」


ゆっくりと首を横に振る。


「君だから、一緒にいたいんだ」


ようやく、何度も夜の間に並べようとしていた言葉が、その場所を見つけ始めた。


「君が嬉しいときに見せる笑顔が好きだ。俺をからかって、怒ったふりをするところも好きだ。勇敢なのに、同時に怖がりなところも。いつもは俺を困らせるくらい言葉が上手なのに、何を言えばいいのか分からなくなるところも」


舞夜が、涙に濡れた声で笑った。


「それに、俺が何も言えなくなるくらい、君のほうがずっと上手に気持ちを伝えてくれるところも好きだ」


彼女の頬を、一筋の涙が伝った。


「そして、未来にやりたいことを考えるとき、君がそこにいるかどうかを考えずにはいられなくなったから」


俺は親指で、彼女の涙をそっと拭った。


舞夜は一瞬だけ目を閉じて、俺の手に自分の手を重ねた。


「大樹……」


「まだ、終わってない」


思っていたよりも、俺の声はしっかりしていた。


怖さが消えたわけじゃない。


でも、もうその怖さに決めさせたくなかった。


「舞夜。君が俺に頼んだことの中に、一つだけなかったことがあるんだ」


彼女が目を開いた。


俺はまっすぐに彼女を見つめた。


「君は、俺に君を好きにならなきゃいけないって言った。だから、俺はそうした」


舞夜の唇に、震える笑みが浮かんだ。


けれど、俺は目を逸らさなかった。


「でも、君は明日も君に恋をしてほしいとは言わなかった。明後日も。一年後も。初めての恋じゃなくなって、二人で歩くことに慣れて、何でもない日々を過ごすようになったあとも、また君を選んでほしいとは言わなかった」


彼女の手を、少し強く握る。


「それを、俺は自分の意思でやりたいんだ」


周囲の木々の葉が、風に揺れた。


遠くで誰かが笑っている。

自転車が遊歩道を通り過ぎる。


世界はいつも通り、何事もなかったかのように動いていた。


まるで、この瞬間が何も変えないかのように。


けれど、俺にとっては、すべてが変わろうとしていた。


「いつも正しい言葉を選べるとは限らない。喧嘩をしないとも、間違えないとも、毎日が幸せだとも約束できない。未来のことを全部分かっているなんて言うのは、嘘になる」


俺は深く息を吸った。


「でも、間違えたときには君と話したい。すぐに気持ちを理解できなくても、ちゃんと聞きたい。嬉しいことも、怖いことも、一緒に分かち合いたい。それに、これから先、二人の関係を繋ぎ止めるために、いつも君だけが最初の一歩を踏み出すようなことにはしたくない」


あの日、舞夜が俺に逃げないでと言ったことを思い出した。


あの日は彼女が俺の手を握った。


彼女が一歩踏み出した。


俺がまだどうすればいいのか分からないときに、彼女が俺たちを繋ぐ糸を支えてくれた。


今度は、俺の番だ。


「俺からも君を探しに行きたい。君が自分に自信をなくしたとき、俺を頼ってほしい。嬉しいことがあったら、最初に伝えたい相手の一人に俺を選んでほしい。俺に怒ってもいいし、一緒に笑ってもいい。本当に感じていることを、何でも言ってほしい」


喉が一瞬、詰まった。


「君が俺の隣で、君らしくいられるようにしたい」


舞夜はもう、涙を隠そうとしていなかった。


俺は理解した。


今は、彼女を急かしてはいけない。

涙を止めようとしたり、安心させるために笑顔を求めたりする必要もない。


彼女が、俺の言葉を聞けるように。


だから、少しだけ彼女に近づいた。


「舞夜。俺たちが初めて会った日、君は俺に近づいてきて、君に恋をしなきゃいけないって言った」


俺は笑った。


「そのときは、君が俺にとってこんなに大切な人になるなんて、想像もしていなかった」


彼女は涙の中で笑った。


「私も、大樹がこんなに鈍い人だなんて思ってなかったよ」


「それはひどいな」


「事実だもん」


「……告白の途中なんだから、少しは優しくしてくれ」


「ごめん……」


舞夜の笑い声が、ゆっくりと静かになった。


俺たちは手を繋いだままだった。


そして、初めて、俺は彼女の目を逸らさずに見つめることができた。


「もし、あの日に戻れるなら。今の俺が、あの日の俺だったら」


舞夜の瞳が、俺を探す。


「もう一度、君に近づくと思う」


「……大樹」


「君の言葉をもう一度聞く。君の誘いを受ける。君が何をしようとしているのか分からないふりをしていた、あの時間も。くだらない話も。不格好な写真も。目的もなく歩いた道も。何かが起こるたびに、少しずつ近づいていった、あの瞬間も」


俺の笑顔が、少しだけ温かくなる。


「同じ失敗を繰り返すだろうけど、今度はもう少し早く学びたい。君が過去を思い出して苦しむとき、もう一度そばにいたい。あのペンダントも、もう一度君に贈りたい。今年、クラスが分かれてからも、もう一度君を探しに行きたい」


少しだけ、彼女に近づいた。


「完璧な物語にはしたくないんだ。俺たちの物語がいい。迷ったり、不器用だったり、冗談を言い合ったり、何でもない日々の中で、少しずつ近づいていく。君と俺が作ってきた物語が」


心臓が、激しく鼓動していた。


もう戻れないところまで来ていた。


それは、舞夜が俺を拒むかもしれないからではない。


もう、止まりたくなかったからだ。


「もし、もう一度君を選ぶかって聞かれたら……」


一瞬、言葉を止める。


彼女の顔を、今この瞬間の彼女の表情を、心に刻みたいと思った。


「答えは、もちろん『はい』だ」


繋いだ手が、わずかに震えた。


「義務だからじゃない。君に頼まれたからでもない。俺たちの物語を続けなきゃいけないからでもない」


俺は首を横に振った。


「君と出会って、一緒に過ごして、本当の君を知った今だからこそ、確信できることがある」


息を吸う。


もう、綺麗な言葉を探す必要はなかった。


残っているのは、ただ一つの真実。


「舞夜……俺は、君に恋をした」


彼女は一瞬、息を止めた。


俺の中に、何ヶ月も抱えていた恐怖がほどけていくのを感じた。


これからどうなるのか分かったからじゃない。


ようやく、ずっと言いたかったことを口にできたからだ。


「君に会いたい理由を考えるのをやめて、ただ君を探し始めたとき。君のメッセージが、いつの間にか楽しみに待つものになったとき。君の悩みが気になって仕方なくなったとき。それは、解決しなきゃいけないからじゃない。君が自分の道を見つけるまで、一緒にいたいと思ったからだ」


俺の頬にも、涙が伝っていた。


いつから泣いていたのか分からない。


けれど、初めて、それを恥ずかしいとは思わなかった。


「大切な瞬間だけじゃない。誰も覚えていないような、何でもない瞬間にも、俺は君に恋をした。長く続いた会話。なかなか帰ろうとしなかった別れ際。失敗した写真。君が俺の手を握ってくれたとき。そして、俺から君の手を握りたいと思ったとき」


彼女の指を、優しく撫でた。


「そして、これからも、まだ知らないたくさんの瞬間に、俺は君に恋をしていくんだと思う」


声が震えた。


それでも、続けた。


「だから、この告白を俺たちの物語の終わりにはしたくない。君が最初にお願いしてくれたことの、ただの答えにもしたくない。二人で決める、新しい始まりにしたいんだ」


俺は、彼女の胸元にあるペンダントを見てから、もう一度その瞳を見つめた。


「これからも、君と一緒に思い出を作りたい。未来の写真にも、俺の予定にも、嬉しい日にも、苦しい日にも、君がいてほしい。もう君のことを全部知ったと思っても、これからも君を知り続けたい。何年も先に、最初のことを振り返って、俺が自分の気持ちに気づくのがどれだけ遅かったのか、二人で笑いたい」


涙の中で、俺は笑った。


「それに、いつか君がまた、俺に君に恋をしなきゃいけないって言ったら……」


少しだけ、身を乗り出す。


「もう恋をしてるよって答えたい。明日も、また君に恋をするって」


再び、沈黙が訪れた。


でも、もう怖くなかった。


隠すことは何もない。


俺は彼女の手を、最後にもう一度握りしめた。


そして、今日この日、最初から伝えたかった言葉を口にした。


「八神舞夜……愛してる」


声は小さかった。


けれど、確かだった。


「君に恋をしなきゃいけないって言われたからじゃない。告白する時期が来たからでもない。君と出会って、君を選んで、これからも自分の意思で君を選び続けたいから」


深く息を吸った。


「君と一緒にいたい。これからも二人で物語を作っていきたい。そして今日から、俺が君に近づくための一歩を、君がいつも待たなくてもいいようにしたい」


俺は微笑んだ。


「これからも、君を探しに行くよ」


ようやく、俺の心が言葉に追いついた。


そして、隠すことのできない感情を込めて、最後に言った。


「君に恋をすることができたんだ、舞夜」


舞夜は片手で口元を覆った。


涙が頬を流れ続けている。


それでも、彼女の笑顔は、今まで見たどんなものよりも美しかった。


「大樹……」


声が震えていた。


彼女は、続けて何かを言おうとしたけれど、言葉にならなかった。


俺は、この瞬間を何度も想像してきた。


告白したあと、もう一つ言葉を探すのだろうか。

何か質問をするのだろうか。

この時間を完成させるために、何かを付け加えなければならないのだろうか。


けれど、目の前で涙を流しながら笑う舞夜を見て、俺は理解した。


彼女が答えを見つけるまで、無理に言葉を重ねる必要なんてない。


ずっと、どうすれば彼女に恋をすることができるのか考えてきた。


そして今、ただ彼女の手を握りながら、彼女自身の答えを待ちたいと思っていた。


舞夜が、小さく一歩近づいた。


そして、俺の胸に額を寄せた。


制服の袖を、そっと握る。


「……大樹のバカ」


俺は動きを止めた。


「え?」


「バカ、バカ、バカ……」


彼女の声は涙で震えていた。


「どれだけ待ったと思ってるの?」


俺は目を閉じた。


「……ごめん」


「謝らないで」


舞夜が顔を上げた。


紫色の瞳は濡れていたけれど、そこには今までにないほど強い喜びがあった。


「もう一度、言ってほしい」


俺の心臓が跳ねた。


「……何を?」


彼女は、愛しさと怒りが混ざったような表情で俺を見つめた。


「今、わざと聞き返さないで!」


俺は思わず笑ってしまった。


舞夜も笑った。


泣きながら、二人で笑った。


まるで、何ヶ月もの間、胸の中に積もっていた感情が、ようやく出口を見つけたかのように。


俺は彼女の顔を両手で包み込んだ。


心臓が激しく鳴っているのとは対照的に、その動きは慎重だった。


「愛してるよ、舞夜」


今度は、迷いなんてなかった。


果たすべきお願いも、探すべき答えもない。


ただ、二人が聞くことのできる真実があった。


舞夜は一瞬、目を閉じて、俺の手に自分の手を重ねた。


「私も愛してるよ、大樹」


その声は柔らかかった。


けれど、今まで聞いたどんな言葉よりも、はっきりと心に届いた。


「ずっと前から、大樹のことが好きだった。大樹が自分の気持ちに気づくよりも前から。……いつか、こんなふうに言ってくれる日が来るのか、怖くなったこともあった」


彼女は、繋いだ手に視線を落とした。


「でも、無理に言わせたくなかった。いつか、大樹自身が私と一緒にいたいって思ってくれる日を待っていたの」


そして、もう一度俺を見た。


「今日は、大樹が自分の意思で私を探しに来てくれたんだね」


俺は頷いた。


「そうだよ」


舞夜が笑った。


「じゃあ……一つお願いしてもいい?」


「何でも」


「もう、私だけに頑張らせないでね」


俺は思わず笑った。


「それは、あまりロマンチックなお願いじゃないな」


「とっても大切なお願いだよ!」


「分かった、分かった」


俺は彼女の指に、自分の指を絡めた。


「これからは、二人で最初の一歩を踏み出そう」


舞夜は俺の手を見つめ、それから抱きついてきた。


俺も彼女を抱きしめた。


しばらくの間、二人とも何も言わなかった。


彼女の呼吸が、俺の胸に触れながら少しずつ落ち着いていく。

舞夜は肩に頭を預け、俺は目を閉じた。


この瞬間を、ずっと大切にしたいと思った。


アルバムの中に残すのではなく。


写真に収めるのでもなく。


いつか、時間が他のすべてを変えてしまったとしても、思い出せるように。


自分の記憶の中に、そっとしまっておきたかった。


やがて、舞夜が少しだけ体を離し、俺を見上げた。


「大樹」


「ん?」


「ねえ、今の一番面白いところ、分かる?」


「……聞くのが怖いな」


彼女は笑った。


「最初は、ただ大樹に私を好きになってほしかっただけなのに」


「それは知ってる」


「今は、大樹のほうがこんなに素敵なことを言ってくれるんだもん」


俺は頬を掻いた。


「そう言われると、ちょっと恥ずかしいな」


「ちょっと?」


「……かなり」


舞夜は声を上げて笑った。


それから、もう一度俺の手を握り、肩に頭を預けた。


「大樹に出会えてよかった」


俺は、目の前に続く道を見つめた。


公園は、何も変わっていなかった。

葉は風に揺れ、太陽はゆっくりと地平線へ向かって沈んでいく。


世界から見れば、何も特別なことは起きていない。


音楽が流れているわけでもない。

告白を祝う人々が集まっているわけでもない。

空を彩る花火も、映画のような完璧な演出もなかった。


そこにいたのは、舞夜と俺だけだった。


大胆なお願いから始まった二人。


写真を撮り、散歩をして、迷い、笑い、時には傷つきながら、少しずつ互いに近づいてきた二人。


そして、ようやく。


自分たちの関係が、ただの何かではないことを認めた二人。


「俺もだよ。……本当に」


舞夜が顔を上げた。


「じゃあ、これからどうする?」


俺は数秒考えた。


「……家に帰る?」


舞夜が信じられないという顔をした。


「ええっ!? 告白したあと、最初に考えることがそれなの!?」


「だって、何をすればいいのか分からないんだよ!」


舞夜は笑い始めた。


「本当に、信じられないくらい大樹らしいね」


「それは褒めてるのか?」


「まだ考え中」


俺は彼女の手を握り直し、笑った。


「じゃあ、考える時間をあげるよ」


「優しいね」


「思いやりのある彼氏だからな」


言葉が口から出た瞬間、俺は自分の発言に気づいた。


彼氏。


舞夜も、動きを止めた。


俺たちは顔を見合わせた。


そして、二人そろって真っ赤になった。


「い、今……」


「……分かってる」


「彼氏って……」


「うん」


舞夜は俯いた。


けれど、その笑顔を隠すことはできなかった。


「……その響き、好きかも」


俺の心臓が、また速くなった。


「俺も」


彼女は指を、さらに強く絡めてきた。


「じゃあ、帰ろう。大樹」


「うん」


俺たちは、公園の遊歩道を一緒に歩き始めた。


今度は、手を繋ぐことが何を意味するのか、迷う必要はなかった。


まだ果たされていない約束ではない。


答えを待っている問いでもない。


ようやく互いを選んだ二人が、違う形で一緒に歩き始めた、初めての午後だった。


指を絡めたまま歩き、時折肩が触れ合う。


そのとき、俺は写真では教えてくれなかったことを理解した。


思い出は、過去を残してくれる。


約束は、未来を想像する助けになる。


けれど、愛とは。


夢見ていた場所にたどり着いたあとも、同じ人へ向かって歩き続けることなのだ。


舞夜を見た。


彼女も、俺を見ていた。


「どうしたの?」


「……何でもない。ただ、君を見たかった」


舞夜は俺の手を握り、そっと腕に頭を寄せた。


「じゃあ、好きなだけ見ていいよ」


俺は、そのまま彼女の隣を歩き続けた。


結局、舞夜に「恋をしなきゃいけない」と言われたあの日から始まった物語は、俺の告白で終わったわけじゃない。


ようやく、始まったばかりなのだから。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

大樹と舞夜、二人の想いがようやく一つになりました。

これから始まる二人の新しい日々も、見守っていただけたら嬉しいです。

引き続き、よろしくお願いいたします。

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