ようやく癒え始めた傷
古い建物の空気が、どこか変わったように感じられた。
埃が消えたわけではない。
壁の傷みがなくなったわけでもない。
それでも――。
三年間、この場所に残り続けていた重苦しいものが。
ようやく少しずつ、消えていこうとしていた。
校長は、原稿の原本、拓海の告白書、そして葵の証言を丁寧に新しいファイルへと収めた。
そして、その表紙にゆっくりと一行を書き込んだ。
「文芸部事件――正式再調査」
それから、静かにファイルを閉じた。
「明日から、学院のすべての記録を訂正するための手続きを開始する」
校長は拓海へ視線を向けた。
「そして君の証言は、関係機関へ提出されることになる」
「自分のしたことに対する責任を、君自身が負わなければならない」
拓海は深く頭を下げた。
「分かっています」
「自分がしたことを……変えることはできません」
少しだけ間を置いて、彼は続けた。
「でも、その結果を受け入れることはできます」
校長は黙ってうなずいた。
その顔に満足そうな表情はなかった。
そこにあったのは――。
もっと早く気づいていれば、避けられたかもしれない苦しみを思う、大人としての深い悲しみだけだった。
皆がそれぞれ話している間。
舞耶は少しだけ離れた場所へ歩いていった。
北棟の窓際まで進む。
窓ガラスは割れていて、夕方の風が彼女の髪を優しく揺らしていた。
俺はゆっくりと彼女のそばへ近づいた。
考え事を邪魔したくはなかった。
「何を考えてるんだ?」
舞耶は学院の中庭を見つめたまま、小さく微笑んだ。
「葵のこと」
少しだけ間を置いて、続ける。
「葵はいつも言ってたの」
「一番きれいな物語は、主人公たちが苦しむのをやめたときに終わるんじゃないって」
俺は黙って彼女の言葉を聞いた。
舞耶はゆっくりと続けた。
「もう一度笑う勇気を見つけたときに……その物語は終わるんだって」
俺は何も言わなかった。
舞耶はゆっくりと目を閉じた。
「長い間、私は思ってた」
「自分だけ前に進んだら……」
「それは蓮や葵を置いていくことになるんじゃないかって」
彼女は少しだけ俯いた。
「忘れることは……二人を裏切ることなんじゃないかって」
舞耶は静かに首を振った。
「でも……間違ってた」
そして目を開け、俺を見た。
瞳には、まだ涙が残っていた。
けれど。
今度の涙は、絶望の涙ではなかった。
それは――。
ようやく肩の荷を下ろすことができた人間の涙だった。
「二人だって……」
「私たちがずっと過去に閉じ込められたまま生きることなんて、望んでない」
俺は微笑んだ。
「俺も、そう思う」
舞耶は小さく一歩、俺のほうへ近づいた。
「ありがとう、大輝」
「なんで?」
俺が尋ねると、彼女は少し照れたように笑った。
「もし大輝が、あそこまで調べようって言ってくれなかったら……」
「私はきっと、この場所に戻る勇気なんて持てなかった」
俺は笑いながら首を振った。
「俺一人でやったわけじゃない」
「結衣がいたから、俺たちが嫌がっても無理やりここまで連れてこられてただろ」
まるで自分の名前が聞こえたかのように。
その瞬間、後ろから結衣の声が聞こえた。
「ちょっと!」
俺たちは振り返った。
結衣が、わざとらしく不満そうな顔で立っていた。
「今、私の話してた?」
舞耶が小さく笑った。
その笑い声を聞いた瞬間。
俺は気づいた。
清龍学院へ来てから初めて。
舞耶が心の底から笑ったのだ。
結衣は腕を組み、誇らしそうに笑った。
「そのほうがずっといいわ」
「ずっとそんな暗い顔されてたら、こっちまで退屈してくるんだから」
「あなた、相変わらず石みたいに繊細さがないわね……」
舞耶は笑いながらそう返した。
「でも、効果はあったでしょ?」
結衣は得意げに言った。
三人の視線が交わった。
その瞬間だけ。
俺たちはただの学生だった。
事件を調べる者でもない。
三年前の悲劇を知る証人でもない。
ただ――。
静かな時間を共有する友人たちだった。
坂本先生は、そんな俺たちの様子を扉の近くから見守っていた。
その顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「葵……蓮……」
「これで、ようやく安心できるわね」
俺はもう一度、古い北棟を見渡した。
以前の俺なら。
ここを、過去の影が残る場所だと思っていただろう。
けれど、今は違う。
ここは――。
長い間閉ざされていた真実が。
ようやく光の中へと歩き出した場所だった。
そして、俺は一つのことを理解した。
傷の中には。
完全に消えることのないものもある。
それでも――。
隠されるのをやめたとき。
誰かと共有できるようになったとき。
その傷は、ようやく癒え始めるのかもしれない。
第153話を読んでいただき、ありがとうございました。
長い間、過去に縛られていた舞耶たちは、少しずつ前へ進むための答えを見つけ始めました。
すべての傷が消えるわけではありません。
それでも、真実を受け入れ、大切な人たちと共に歩き出すことで、未来は少しずつ変わっていくのかもしれません。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
次回もぜひお楽しみに。




