私に恋をしなさい
「気づいたときには、もう手遅れだった。」
一体、いつからだったんだろう。
すべてが狂い始めたのは。
もし「あの瞬間だ」と言える出来事があるなら、
きっと、あの日だ。
彼女が俺を真っ直ぐ見つめて、
俺たち二人の未来を、
まるで当然のことのように決めてしまった、あの日。
夕焼けが教室を柔らかな茜色に染めていた。
放課後。
誰もいない教室には、
静寂だけが残っている。
静かだった。
いや、
静かすぎた。
本当なら、
とっくに帰っている時間だ。
それなのに俺は、
なぜかまだ教室に残っていた。
自分の机の横に立ち、
窓から差し込む夕日をぼんやり眺める。
まるで、
この景色だけが時間から取り残されてしまったみたいだった。
「……南くん。」
その声が、
静寂を優しく切り裂いた。
澄んでいて、
どこまでも落ち着いた声。
だけど、
不思議なくらい耳に残る。
ゆっくり振り返る。
そこに立っていたのは――
八神舞夜。
長く艶のある黒髪。
夕日に照らされ、
まるで絹糸のように静かに揺れている。
吸い込まれそうなほど真っ直ぐな瞳。
学校中の誰もが憧れる、
高嶺の花。
気軽に話しかけられるような存在じゃない。
そんな彼女が、
どういうわけか、
今は俺だけを見つめていた。
「……どうしたの?」
できるだけ平静を装ったつもりだった。
……まあ、
きっと全然隠せていなかっただろうけど。
舞夜は何も答えない。
代わりに、
静かに教室の扉を閉めた。
――カチッ。
小さな音。
本当に、
それだけの音だった。
なのに、
その瞬間だけは妙に大きく聞こえた。
まるで、
ここから先へ戻る道が、
静かに閉ざされてしまったような気がした。
舞夜はゆっくりと歩き出す。
一歩。
また一歩。
急ぐこともなく、
迷うこともなく。
俺は動かなかった。
……いや、
動けなかった。
彼女には、
人の足をその場に縫い付けてしまうような、
そんな不思議な空気があった。
やがて、
舞夜は俺の目の前で立ち止まる。
近い。
思わず息をのむほど近かった。
ふわりと甘い香りが漂う。
優しくて、
どこか儚い香り。
それなのに、
なぜか胸の奥がざわつく。
「話があるの。」
その声は少しも震えていなかった。
迷いもない。
ずっと前から決めていたことを、
ようやく口にする人の声だった。
「……何?」
眉をひそめながら問い返す。
何が起きているのか分からない。
それでも、
この妙な空気だけは、
嫌というほど伝わってきた。
舞夜は小さく息を吸う。
そして、
何の前触れもなく口を開いた。
「今日から――」
ほんのわずかな沈黙。
それでも、
彼女の瞳は一瞬たりとも俺から逸れない。
そして、
静かに、
だけどはっきりと告げた。
「あなたは、私に恋をしなさい。」
……
……は?
頭の中が真っ白になった。
一度、
瞬きをする。
もう一度。
聞き間違いだと思った。
いや、
聞き間違いであってほしかった。
けれど、
舞夜の表情は少しも変わらない。
冗談を言った人間の顔じゃなかった。
「……え?」
ようやく絞り出した声は、
自分でも情けないくらい間の抜けたものだった。
笑うかと思った。
「冗談よ」と言うかと思った。
何か説明があるのだと、
そう思っていた。
だけど、
何もなかった。
「お願いじゃないわ。」
舞夜は静かに言う。
「これは決定。」
「……決定って。」
思わず眉をひそめる。
「誰が決めたんだよ。」
彼女は一瞬も迷わず答えた。
「私。」
教室に沈黙が落ちた。
重い。
息が詰まりそうなくらい重たい沈黙。
「……いや。」
考えるより先に言葉が出ていた。
「いやいや、それはおかしいだろ。」
思わず首を振る。
「そんなの勝手すぎる。人に『恋をしろ』なんて言われて、はいそうですかって――」
「できるわ。」
俺の言葉を、
舞夜は静かに遮った。
声は少しも大きくない。
表情も変わらない。
だからこそ、
冗談ではないことが痛いほど伝わってくる。
「難しいことじゃない。」
そう言って、
彼女はほんの少しだけ微笑む。
「自然に、その時を待てばいいだけ。」
「自然って……何の話なんだよ。」
「私に恋をすること。」
「……。」
意味が分からない。
本当に、
何一つ理解できない。
学校一の美少女が、
放課後の誰もいない教室で、
俺に向かって「恋をしなさい」と命令している。
そんな状況、
誰が想像できる。
「八神。」
深く息を吐く。
「もしこれが冗談なら、全然笑えないぞ。」
「冗談じゃない。」
「じゃあ悪いけど。」
首を横に振る。
「それは無理だ。」
「無理じゃない。」
即答だった。
迷いがない。
「……どうして、そこまで言い切れる。」
すると、
舞夜は静かに答えた。
「必要だから。」
その一言だけが、
胸の奥へ重く沈んでいく。
必要。
恋が、
必要?
「……必要って、どういう意味だ?」
その瞬間だった。
初めて、
彼女の表情が揺らいだ。
ほんの少しだけ。
本当に、
一瞬だけ。
だけど、
確かに見えた。
今まで隠し続けていた、
何か。
悲しみとも違う。
後悔とも違う。
もっと深く、
もっと言葉にできない感情。
「……そう。」
舞夜は小さく頷いた。
「必要なの。」
その声は、
さっきまでよりずっと弱かった。
俺は思わず口を開く。
「理由を――」
聞こうとした。
だけど、
その前に。
舞夜はもう一歩だけ近づいてきた。
近い。
さっきよりも、
さらに。
彼女は俺の目を見つめたまま、
囁くように言う。
「もし、あなたが私に恋をしてくれなかったら……」
そこで言葉が止まる。
続きを口にしようとして、
飲み込んだ。
言えないのか。
それとも、
言ってはいけないのか。
俺には分からなかった。
数秒の沈黙。
やがて舞夜は、
ふっと小さく笑った。
綺麗だった。
優しくて、
どこか寂しそうで。
だけど、
その笑顔の意味だけは最後まで分からなかった。
「……また明日、南くん。」
それだけ言うと、
彼女は静かに背を向ける。
教室の扉が開く。
夕焼けの光が廊下から差し込む。
そして、
彼女はそのまま歩き去っていった。
残されたのは、
静かな教室と俺一人。
さっきまでの出来事が、
全部夢だったんじゃないか。
そう思いたくなるほど、
教室は何事もなかったような顔をしている。
だけど、
俺の頭の中では、
たった一つの言葉だけが、
何度も何度も繰り返されていた。
『あなたは、私に恋をしなさい。』
……一体、
何だったんだ。
あれは。
そして、
どうして俺は、
胸の奥で確信してしまったんだろう。
――今日という日が、
俺の人生を変える始まりになるのだと。
第一話を読んでいただき、ありがとうございました。
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