序章:失われた三分の一
かつて、世界はもっと単純な色で満ちていた。赤、緑、青。人類が「可視光線(RGB)」と呼んだそのわずかな波長だけが、二十一世紀初頭までの文明を形作るすべての光だった。
人間は目に見えない熱を赤外線と名付け、肌を焼く驚異を紫外線と呼んで、それらをレンズの向こう側に閉じ込めていた。
すべてが変わったのは、二〇二〇年代のことだ。世界を襲ったパンデミック。その収束のために全人類へ投与された遺伝子ベクターワクチンの、たった一つの致命的な設計バグ。それが人類の網膜細胞を不可逆的に書き換え、牙を剥いた。「光のパンデミック」の発生である。
ある日を境に、人類はそれまで決して見てはならないはずだった「二つの不可視の衣」を同時に知覚し始めた。それは進化ではなく、暴力的な情報オーバーロードだった。
太陽光から降り注ぐ凶悪な紫外線(UV)は網膜を焼きちぎり、世界中の医療機関は突発的な失明者と激しい脳疲労を訴える患者でパンクした。
家電製品の通信、自動運転車のセンサーから漏れ出す赤外線(IR)は、新人類となった者たちの目に、狂ったようなフラッシュの嵐となって突き刺さった。
人間関係は一瞬で崩壊した。顔面の血流、すなわち熱(IR)のゆらぎが肉眼でハッキングできるようになった世界では、お世辞も、嘘も、秘めた感情も、すべてが残酷なまでに曝け出された。鼻の頭の色、頬のグラデーション一つで裏切りが証明され、古いコミュニティは激しく破綻していった。
それからニ十数年。人類の九割は、この極彩色の地獄に適応し、「新人類」となった。彼らは街のインフラを完全に再設計した。不要な光漏れを徹底的に排除した「吸光アスファルト」を敷き詰め、感情を偽装する「IRカット断熱ファンデーション」を塗り、肉眼で見える菌の熱管理によって「発酵フード」の味覚を極限まで進化させた。
世界は新人類の過密なサイバー都市へと塗り替えられた。だが、全人類のわずか一割――。バグの恩恵を受けず、あるいは呪いから逃れ、頑なに古い眼球のまま生まれてきた者たちがいた。新人類の浴びる情報過多のノイズを知らず、嘘を暴く熱線も見えず、ただ静寂の中で生きる者たち。人々は彼らを、侮蔑と、あるいは強烈な嫉妬を込めてこう呼んだ。「旧人類(見えざる者)」と。
これは、あまりにも眩しすぎる世界で、世界の三分の一の光を失ったまま、あるいはすべてを見据えながら生きる人間たちの、変革と適応の記録である。




