表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サバサバしたアラサー女子が、元後輩にだけ悶える理由  作者: 寝不足魔王


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/26

第13話(前編):日常の侵食と、一人の「悠真」

 月曜日の朝、株式会社朝日フーズのフロアに足を踏み入れた私の背筋は、定規で測ったかのように真っ直ぐだった。

 デスクに鞄を置き、端末を起動させ、メールの優先順位を瞬時に判断してフラグを立てていく。周囲の雑談や、週末の出来事を報告し合う緩やかな空気。それを否定はしないが、私はあえてその輪から一線を画し、画面上の数字と文字の羅列に没頭する。これこそが私の聖域であり、自分を律するための儀式だった。


「高橋さん、おはよう。……って、その資料、もう共有フォルダに上がってるわね。相変わらず、仕事が早すぎて怖いくらいだわ」

 佐々木リーダーが、感心と呆れが半分ずつ混ざったような苦笑いで声をかけてくる。

「おはようございます。週末に頭の中で構成を済ませておきました。月曜の朝からゼロベースで悩むのは、時間の有効活用とは言えませんから。リソースは有限ですよ」

 私はサバサバとした口調で返し、迷いなくキーボードを叩き始めた。


 完璧な事務屋。感情に左右されない冷静なリーダー候補。

 その鎧を着込んでいる間だけは、先日のカフェで見せられた佐藤の、あの眩しすぎる笑顔を忘れられる気がした。

 ……あんな風に、屈託なく笑う男だったかしら。

 緑豊商事時代、私の隣で常におどおどとして、見積もりのミスを謝りに来ていたあの頼りない後輩。その記憶の中の彼と、今の彼が、自分の中でどうしても上手く噛み合わない。


(……何やってるのよ。仕事に私情を持ち込まないのが私のモットーでしょ。あの挽肉小僧の笑顔なんて、業務上の進捗には一ミリも関係ないわ)

 心の中で自分を厳しく叱責し、エンターキーを強く叩く。

 だが、ふとした瞬間に、窓の外を流れる雲の形や、マグカップから立ち上るコーヒーの湯気の中に、あの晴れやかな表情が重なって見える。視界の端に、意図せず彼が残していった「熱」がちらつくのだ。


「高橋さん、今、珍しくボーっとしてなかった?」

 同僚の鋭い指摘に、私は一瞬だけ指を止めた。自分では完璧に隠しているつもりだったが、プロの事務屋としての「隙のなさ」が、僅かに揺らいだのかもしれない。

「……次の工程のシミュレーションをしていただけです。データの整合性を多角的に確認するのに、少し集中が必要だったもので。ご心配なく」

 即座に、事務的な正論を盾にして言い返し、私は画面に視線を戻した。危ない。サバサバと割り切って生きてきた私の日常に、あいつという不確定要素が着実に、そして厚かましく侵食してきている。


 お昼休憩。屋上へ続く非常階段の踊り場で、私は一人、スマホを取り出した。

 佐藤から、今度の映画のチケット予約完了の報告とともに、数枚の写真が届いている。

『佐藤悠真:お疲れ様です、遥さん。チケット、無事に一番見やすい席を確保できました! それと、遥さんの好きそうな、レトロな雰囲気の古民家カフェも予約しておきました。当日、ここでお茶してから行きませんか?』

 写真に写っているのは、確かに私が好みそうな、落ち着いた佇まいの内装だった。照明の落とし方や、木の温もりを感じさせる調度品。

(……生意気。誰がそこまでしろと言ったのよ。……まあ、私が店を探す手間が省けたと思えば、効率的でいいけど)

 自分を納得させるための、いつもの強引な論理。だが、以前の「マニュアルの質問を繰り返すだけの後輩」から、徐々に「一人の男として私をエスコートしようとする」姿勢への変化。その明確な「攻め」の気配に、私はどうしようもない居心地の悪さと、それ以上の心細さを感じていた。


 私は短い返信を送る。

『了解。場所は任せるわ。遅れないようにしなさいよ。それと、予約したからって調子に乗らないこと』

 送信ボタンを押してから、私は自分のこめかみを押さえた。

 「佐藤」。その苗字を口にするたびに、あるいは文字として打つたびに、以前よりもずっと、その響きが自分の中で「遠く」なっていることに気づく。


 一人の残務整理中、私は誰もいない、薄暗くなったフロアで、小さくその名を呟いてみた。

「佐藤……。……悠真」

 

 フルネームを口にした瞬間、心臓の奥が、これまでのトラブル対応でも感じたことのないような、嫌な、けれど抗い難いリズムでドクンと跳ねた。

 今の私にとって、彼はもう単なる「元の職場の後輩(佐藤)」という安全なカテゴリーには収まりきらなくなっている。

 その事実を、誰もいない静寂の中で突きつけられたようで、私は一気に顔を真っ赤にした。

「……あぁ~…何やってんのよ、私!」

 私は誰もいない闇に向かって、激しく、そして無様に悶えた。

 名前で呼ぶ。そんなこと、私にとっては特別な意味を持つ行為だ。それを意識した瞬間に、これまでのサバサバとした「割り切り」という名の防壁が、足元から音を立てて崩れ去っていくような恐怖。


 (……ダメよ。しっかりしなさい。あいつはただの後輩。私は元先輩。それ以上でも以下でもないはずでしょ)

 自分に言い聞かせる言葉が、以前にも増して空々しく響く。

 朝日フーズで手に入れた、快適でロジカルな新生活。

 そこで「高橋さん」として完璧に振る舞えば振る舞うほど、プライベートで「遥さん」と呼んでくるあいつの存在が、無視できないほどに大きくなっていく。


 私は強引にスマホをカバンに押し込み、逃げるように会社を後にした。

 夜風が頬を叩く。けれど、一度芽生えてしまった「佐藤悠真」という一人の男への意識は、もう、どんなにサバサバと割り切ろうとしても、私の心から剥がれ落ちてはくれなかった。

 週末の映画館。そこで何が起きるのか。

 想像するだけで、私の「サバサバ」という鎧は、もう形を保つのがやっとだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ