第12話:小さな結実と、不意打ちの笑顔
株式会社朝日フーズのフロアには、先週の騒乱が嘘のような穏やかな時間が流れていた。
大きなトラブルを完璧な采配で乗り越えたことで、周囲の私に向ける視線には、明らかな敬意と信頼が混じるようになっている。
「高橋さん、あの件以来、他部署からの問い合わせがスムーズになったわ。あなたのマニュアルのおかげね」
「ありがとうございます。仕組みを一度整えれば、無駄な摩擦は減るものです。当然の処置ですよ」
私はサバサバとした口調で返し、午後のルーティンワークに入った。
自分の選択したこの場所が、正解であることを再確認する。感情に振り回されず、実力だけで評価されるこの環境。これこそが私の求めていた平穏だ。
だが、その平穏な仕事のリズムを、デスクで震えるスマホが僅かに乱した。
画面には、佐藤の名前。珍しく、チャットではなく着信だった。
「……はい、高橋です。仕事中よ、手短に」
周囲に配慮し、短く、事務的に応じる。
『……遥さん! やりました。新規の大口、一次審査を通りました!』
受話器越しに、佐藤の弾んだ声が届く。その熱量に、私の胸の奥が不意に跳ねた。
「そう。……おめでとう。でも、一次でしょ。浮かれないで、次のプレゼン資料の詰めを甘くしないこと。数字が出るまでが仕事よ」
『はい! 分かってます。でも、遥さんに真っ先に伝えたくて。……ありがとうございます、遥さん。遥さんのアドバイスがなければ、ここまで来られませんでした』
「……私の助言なんて、ただのきっかけに過ぎないわよ。決めたのはあんたの実力。……じゃあ、仕事に戻りなさい。お疲れ様」
通話を切り、私は一度深く息を吐いた。
(……まあ、あいつが結果を出せたのはいいことよ。私の教育が無駄じゃなかったって証明だしね。誇っていいわよ、佐藤)
自分でも驚くほど素直な称賛が脳裏をかすめ、私は慌ててそれを「元先輩としての評価」という箱に押し込んだ。
その日の夜。
「合格祝い」という名目で、私たちはいつもの駅前のカフェで向かい合っていた。
「本当に、あの時遥さんが『相手の困りごとを聞け』って言ってくれたおかげなんです。これまでの僕は、自分の数字のことばかり考えて、空回りしてました」
佐藤は熱を込めて、自分がどう動いたか、どう感じたかを語り続けた。以前の彼なら、成功しても「運が良かった」と俯いていただろう。だが、今の彼の瞳には、自分の足で一歩踏み出した男の自負が宿っている。
「だから言ったでしょ。あんたは元々、誠実さだけが取り柄なんだから。それを武器にしないのは宝の持ち腐れよ」
「……はい。本当に、遥さんは僕の恩人です。……遥さんにそう言ってもらえるのが、何よりのご褒美です」
そう言って、佐藤が顔を上げた。
その瞬間、私は息を呑んだ。
そこにあったのは、これまで見たことがないほど晴れやかで、屈託のない笑顔だった。
(……何よ、その顔。……反則じゃない)
胸の奥が、これまでにないほど激しくざわつく。
名前を呼ばれる衝撃には慣れてきたつもりだった。けれど、一人の人間として成長し、心からの喜びを爆発させた彼の笑顔は、私の防壁を根こそぎなぎ倒していくような破壊力を持っていた。
今の職場で手に入れた完璧な平穏も、合理的な思考も、その笑顔の前では何の役にも立たない。
「……もう、大げさなのよ、あんたは。……さっさと食べなさいよ、冷めるわよ」
私は慌てて視線をメニューに落とし、火照った顔を隠した。
「遥さん。……これからも、ずっと僕のこと、見ていてくれませんか。僕、もっと成長して、遥さんに並べるようになりたいんです」
控えめながら、あまりにも直球の言葉。
いつものように「図々しいわね」と受け流そうとした。けれど、喉の奥が詰まって、そんな軽薄な言葉は出てこなかった。
「……まあ、あんたが変なミスをしないかくらいは、確認してあげるわよ。元教育係としての責任、ってやつ?」
精一杯のサバサバとした返答。けれど、その声が僅かに震えていたことに、自分でも気づいて愕然とする。
「ありがとうございます、遥さん! 期待に応えられるように頑張ります!」
会計を済ませ、店を出る。
駅の改札へと向かう佐藤の足取りは、初めて会ったあの夜とは比べものにならないほど、軽やかで力強い。
一人になった帰り道。
夜風が頬を叩き、私は自分の頬が緩んでいることに気づいて、慌てて手で押さえた。
(……あいつ、あんな風に笑うのね。……私の知らない顔、まだあるわけ?)
割り切ったはずの過去。切り捨てたつもりの情。
それなのに、あの笑顔を思い出すと、私の胸の奥には説明のつかない熱が、しつこいほどに居座り続けていた。
「次行こう」と唱えても、今夜だけは、あの笑顔を記憶の隅に追いやることができない。
完璧だったはずの私の日常に、一人の後輩が、取り返しのつかない「特別」を刻み込んでいく。
私は自分の甘さに激しく悶えながら、夜の街を足早に歩き続けた。
次に会うときは、絶対に揺らがない。
そう心に誓いながらも、カレンダーに刻まれた次の映画の予定を、何度も指でなぞってしまっていた。




