第11話:鉄火場の采配と、遠くの背中
木曜日の午後、株式会社朝日フーズの営業事務フロアに、不穏な静寂を切り裂くような怒号が響いた。
「なんだって! 物流センターのシステムトラブル? 冗談じゃない、今日の極東水産への納品はどうなるんだ!」
営業部長の叫び声に、フロア全体が凍りついた。物流センター側の基幹システムがダウンし、今日出荷予定だった全ての伝票が宙に浮いたという。極東水産は、今期から取引を拡大したばかりの最重要顧客だ。一度の納期遅延が、数千万単位の損失と信頼の失墜に直結する。
「高橋さん、どうしよう……。代替便の手配も、在庫の引き当て直しも、今のパニック状態じゃ無理よ」
佐々木リーダーが青ざめた顔で私のデスクに駆け寄ってきた。周囲の事務員たちも、鳴り止まない電話と、営業マンたちの詰め寄る声に、今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。
だが、私は動かなかった。正確には、感情を一切動かさなかった。
(……騒いでも、止まったシステムは動き出さないわよ。騒ぐエネルギーがあるなら、手を動かせばいいのに)
私は迷いのない動作で、目の前のモニターに必要なウィンドウを次々と立ち上げた。
「佐々木リーダー、落ち着いてください。パニックは伝染します。今すぐ全営業に、個別の出荷確定リストを送るよう指示してください。私はセンターのバックアップサーバーから、直近一時間のデータを抽出します」
「えっ、でも、そんなこと勝手に……」
「許可を取っている間にトラックが空荷で出発します。責任は私が取ります。定時までに終わらせたいので、無駄口は叩かないでください」
私は管理権限を行使してログを解析し始めた。
仕事は、どんな時でも「事実」と「優先順位」の掛け算だ。感情を挟む余地なんて、この鉄火場のどこにも必要ない。
極東水産への納品分を特定し、近隣の営業所にある余剰在庫を検索。同時に、提携している協力運送会社へ、緊急のチャーター便を出せるか打診する。
「もしもし、朝日フーズの高橋です。ええ、無理を承知で言っています。ですが、今回の件を飲んでいただければ、来月の定期便の枠を調整する材料にさせていただきます。……返事は『了解』だけでいいです。三十分後に車を回してください」
感情を殺した私の指示は、混乱していたフロアに冷徹な秩序をもたらした。
右手に受話器、左手でキーボード。私は一人で三つのタスクを並列処理しながら、関係各所へ「協力依頼」ではなく「決定事項」としてテキパキと指示を飛ばし続ける。
サバサバとした、けれど筋の通った采配。
周囲の事務員たちも、私の迷いのない背中を見て、ようやく自分の役割を思い出したように動き出した。
そんな修羅場の最中、デスクに置いたスマホが短く震えた。
『佐藤悠真:お疲れ様です、遥さん。今日、近くまで仕事で行くので、少しだけお会いできませんか?』
私は画面を、一秒だけ見て伏せた。
『高橋遥:今バタバタしてるから無理。仕事に集中しなさい。持ち場を守りなさいよ』
最短の拒絶。今の私には、彼の言葉を受け止める余裕なんてない。いや、この「高橋さん」としての鎧を、一瞬たりとも緩めたくなかった。
それから三時間。
私は全ての代替手配を完了させ、極東水産への納品が三十分の遅れで済むことを確定させた。
「高橋さん……! 本当に、あなたがいなかったらどうなっていたか。ありがとう、本当に助かったわ」
佐々木リーダーが、安堵した様子で私の肩を叩いた。
「当然のバックアップです。システムが死んでも、仕事は死にませんから。さて、残務整理をして帰ります」
私は称賛をサバサバと一蹴し、乱れたデスクを整えた。
二十時。
トラブルを完璧に片付け、私は朝日フーズの入るオフィスビルから外に出た。
夜の冷気が、酷使した脳を心地よく冷やしてくれる。
私は疲れを微塵も見せず、背筋を伸ばし、ヒールの音を夜の街に響かせながら歩き出した。自分でも納得のいく、完璧な「仕事のできる女」の足取りだ。
だが、その時。
大通りの反対側に、見覚えのあるスーツの背中が、街灯の下で立ち止まっているのが見えた。
……佐藤。
あいつ、本当に近くにいたのか。
佐藤は私に気づいていないようだった。彼はただ、私が今出てきたビルを、眩しいものを見るような、深い敬意を込めた眼差しでじっと見上げていた。
そこには、一人の営業事務が「戦場」を勝ち抜いて出てくるのを、信じているような、そんな静かな信頼が透けて見えた。
私は声をかけようとして、思いとどまった。
今の私は、完璧な「戦士」だ。ここで彼を呼び止めて、安堵を分け合ったりするのは、私の流儀じゃない。
一人で電車に乗り込み、座席に深く腰を下ろした。
張り詰めていた神経が、ようやく緩んでいくのを感じる。
そこへ、再びスマホが震えた。
『佐藤悠真:お忙しい時間にすみませんでした。遥さんならきっと、格好よく解決されているんだろうなと思っていました。本当にお疲れ様です』
(……あんたに言われなくても、解決済みよ。買いかぶりすぎなのよ、あいつは)
私は心の中で、呆れたように呟いた。けれど、表面上の強がりとは裏腹に、私の胸の奥には、自分でも制御できないほどの熱い何かが込み上げてきた。
今の職場の誰も知らない、私の本当の戦い方。
それを誰よりも信じて疑わない言葉が、ボロボロに削られた神経を、不思議なほど滑らかに修復していく。
(……どうして、そんなことさらっと言えるわけ。元先輩としてのプライドを保てたんだから、それで十分でしょ)
私はスマホの画面を伏せ、一人で耳を赤くして悶えた。
完璧なサバサバ系事務リーダー。そんな仮面の下で、一人の後輩からの真っ直ぐすぎる信頼に、これほどまでにかき乱されている自分。
(……ま、あいつに格好悪いところは見せられないからね。次の映画の予定、コンディションを整えておかないと。……あー、もう、何を浮かれてるのよ、私)
カレンダーの予定を確認して、私は自分の甘さにさらに悶えた。
割り切ったはずの過去。けれど、あの遠くから見つめていた佐藤の眼差しを思い出すと、私の「サバサバ」という鎧は、もう形を保つのがやっとだった。
私は激しい動揺を隠すように、カバンの中にスマホを押し込み、夜の闇に消えていく車窓をじっと見つめ続けた。




