第17話 覚醒
扉をノックする音が聞こえてきた時、コンラートはため息を吐いて立ち上がると、玄関まで出て扉を開けた。
「……そろそろ侍女殿の出番かと思ってましたよ」
軽く笑って、コンラートは無表情のまま睨みつけるという器用な表情をしているセラフィーナを招き入れた。
「この扉はどうしたのですか?」
セラフィーナはドアノブも無く、穴が空いた扉を振り返る。
「ライナーがぶち壊していきました。どうやら殿下と出発する直前に来たらしいですけどね」
「ゾンネンフェルト様は何と?」
「明後日……いや、昨日のことだから明日か。明日の朝、港を出発する、と言って出て行きましたけど何か?」
セラフィーナはコンラートが勧めた椅子には座らず、ただそこに美しい所作で立っている。コンラートは再びため息を吐きながら、ノロノロと座り心地の悪い椅子に座った。その様子をじっと黙って見つめてから、セラフィーナが口を開く。
「……貴方はどうしてここにいらっしゃるのですか?」
「は?」
「私は、貴方が大嫌いです」
「……は?」
「けれど、姫様は……貴方のために国を出て行ったのですよ? それなのに、貴方はどうしてこんなところでそんな諦めきったようにヘラヘラしているのですか!? そんな暇があるなら――早く姫様を追いかけなさいよ!!」
コンラートは弾かれたように椅子を倒して立ち上がった。
「俺の……ため?」
「そうです。姫様は辺境伯の企みをお知りになった。貴方がうっかり担がれそうになったことも、借金と共に潰される予定だったことも、ご自分が売られる予定だったことも全部ご存じよ。その上で……その上で自分がこの国にいることで貴方を巻き込んでしまうからって……それで……」
「……」
ロザリンデの勝気な笑みが浮かぶ。いつだって自信満々で、人の気持ちも知らないで好き勝手なことばかりを言って……そんな彼女が……俺のために国を出た……?
「何か言いなさいよ。どうするつもりなのよ。姫様の気持ちを乱すだけ乱して国からも出させて……」
「殿下自身がそうお決めになったことならば、俺に何か言う資格はないでしょう」
「……」
セラフィーナの口元が歪むのが見えた。しかしコンラートにとっては全てがもうどうでもいいことなのだ。ロザリンデはもうこの国からいなくなるのだから。もう二度と会えないのだから。
そう思った瞬間、鋭く突き抜けるような痛みが胸の奥を走ったような気がしたけれど……捨て置く。
「それが殿下にとっての正解だからこそ、その行動をお取りになったんだ。それなら俺から言うことなんて――」
パンっと乾いた音が室内に響いた。
驚くべき速度でつかつかとコンラートの元に走り寄って来たセラフィーナが、コンラートの頬を張ったのだ。
一瞬の間の後、セラフィーナは涙が零れることを意にも介さず、表情もぐちゃぐちゃに崩して淑女にあるまじき大声で叫んだ。
「姫様が大事ではないのですかっ!? 姫様がどうなろうと、どうだって……」
「いいわけないだろうっ!! 大事に決まってる! だから……だからっ……」
王宮騎士団を辞してロザリンデの目の前から姿を消そうとしたのだ。
セラフィーナの勢いに押されて反射的にコンラートの声も大きくなった。言葉遣いも素に戻り、彼女の言葉を遮って思わず叫んでしまったけれど、その先の言葉だけは、喉の奥に詰まったようになって、出てこなかった。
「だから……何です?」
「それは……」
コンラートが言葉に詰まるのを見て、セラフィーナは泣き笑いみたいな顔でフッと笑った。
「だから、の続きに言おうとした言葉は貴方の本心ではないのでしょう? 姫様が仰っていた通りなのですね『コンラートは嘘を言うときは言葉が詰まる』って」
「……」
何も言えないコンラートを見ていたセラフィーナの口元が震えた。そして歪んだ。再び目尻から雫が盛り上がり、涙がぽろぽろととめどなく流れ始めた。
「そんなことが簡単に分かってしまうくらい……それくらい、長い間貴方のことだけを見ていた姫様の手を……離すんですか? それで、いいんですか? 姫様が遠い異国の地で一人泣いていても……いいんですか?」
セラフィーナの涙声が、コンラートの胸を打つと同時に、無意識に本心からの言葉を口から零させた。
「いやだ」
と。
思わず口から零れ出た言葉を、慌てて手で抑えたがもう遅かった。その否定の言葉こそがコンラートの本心なのだから。
「ならば、どうするべきか、お分かりですね」
さっきまで泣いていたはずのセラフィーナが、顔を上げて言った。目元はまだ潤んでいたが、それを隠すかのように扉に向かって歩いて行く。そして、こちらを見ないまま、扉に手をかけて言った。
「姫様は、何でこんなくたびれた外見の、中身乙女思想のおっさんなんかを……!」
心から憎々しげに言い放つのが、はっきりとコンラートの耳に届いた。
・・・*・・・*・・・*・・・*・・・
今度こそ、と旅支度を整えたコンラートが自宅を飛び出すと、副団長のクラウスが目の前に立っていた。
眼鏡を押し上げ、コンラートの旅装を見てフッと笑う。そして水の入った袋とメモを押し付けてきた。
「な、何だよ、これ……」
渡されたメモを開くと、港までの最短の道とその道中に用意している馬宿の名前があった。
「クラウス……」
「私はもうすぐ団長になりますから」
「は?」
「あんたが戻ってくる席はもう無いですからね」
それだけを言って踵を返して去ってしまった。ポカンとしたまま、コンラートはメモと水袋とクラウスの後姿を見て、やっと小さく呟いた。
「皆にここまでさせて……カッコ悪ぃな、俺」
そして目を閉じる。九年前に聞いたロザリンデの声が、再び耳元で聞こえた気がした。
『覚えていないのか? 私が五歳の頃、庭を駆け回るアルが羨ましい、と不貞腐れていた私にお前が言ったんだぞ? 殿下も走ればいいじゃないですか、とな』
コンラートは大きく息を吸って、吐いた。
「姫様を走らせたんだから、俺も走らないと……な」
・・・*・・・*・・・*・・・*・・・
それからコンラートは休みなく馬を走らせ続けた。途中の馬宿でクラウスの名前を出しては馬を替え、土埃にまみれ、汗が目に入るのを腕で拭きながら走り続けた。
馬車で一日半かかる道程を馬で一日。夜通し駆け続けるコンラートの頭には、ロザリンデの声が、顔が、指先の感触が……巡り続けていた。このまま行かせてしまえば、もう二度と触れられないのだという焦りが、更に馬を加速させる。
あんなに心を砕いて、柔らかな表情で、優しい声で、他でもないコンラート自身を望んでくれたのに。
『人生を共に歩む誰かを選んでいい、とアルに言われた時にな……お前の顔しか思い浮かばなかった』
爵位も、剣の腕も、知力も、魔力もパッとしないくたびれた中年男を、何も持っていないただの男として、たった一度、深く考えもせずに覚えてもいなかった適当な言葉を投げかけただけの男を、ロザリンデは求めてくれていたのに。
一度だって、富や名声を求めたりなんかしなかったのに。
「ったく……俺は殿下の何を見てたんだよ……っ!!」
会いたい。どうしても会って話をしたい。しなければならない。このまま去らせてはいけない。
その想いだけで、コンラートは一睡もしないまま、馬を宥め励ましながら、海辺の町をただひたすらに目指した。
・・・*・・・*・・・*・・・*・・・
そして翌日、朝日が昇ると同時に、コンラートはフラフラになりながら、ぼやける視界の向こうに、朝日に煌めく水面を見た。
「……着いた」
モルゲンハーフェンの港に辿り着いたらしい。コンラートは町中に入ると同時に馬を降り、背中が腰が、足が悲鳴を上げているのを感じながら、それでも一歩一歩進めて船着き場を目指した。
そして、港の桟橋が目に入った時、朝の陽光が金色に弾かれて光ったのを見た。
その後ろ姿を見た瞬間、身体中が震えた。
(まさか……いや、……でも……!)
短いけれど美しく滑らかな金色の髪の持ち主に向かって走る。間違いない。あの後ろ姿は。あの歩き方は。何年も何年も近くで見てきたロザリンデでしかない。
足がもつれそうで、腰に痛みが走ってバランスを崩しそうになりながら、それでも必死で走った。そしてもうすぐ手が届きそうという距離で、ふと止まる。
(今更……か)
その瞬間、ロザリンデの少し前を歩いていた騎士が首だけをこちらに向けた。
「……」
ライナーだった。コンラートの姿を目にした途端、子犬みたいに目を輝かせ、王宮騎士団随一の英雄はボロボロになった情けない上司に満面の笑みで親指を立てて見せた。
そしてライナーはロザリンデの前からすっと離れていく。突然離れていく護衛に慌てたように手を伸ばすロザリンデを、ライナーに向かって足を踏み出そうとするロザリンデを、コンラートはたまらず後ろから強く、強く抱きしめた。
(やっと……やっと……!)
ずっとずっと求めて止まなかった存在を、何度諦めようと言い聞かせても諦めきれなかった宝玉を、自分の意思で、自分の手で、引き寄せた瞬間だった。




