Ep6-35 白い霧の異界
瓶の中で魂だけの存在になった英太は桔花を救うすべもなくあがく――
「やめろ。行くな。戻ってこい!」
声を張り上げても霧の中にいるように周囲に吸収されて掻き消される。
連れ去られていく桔花を追うように乳白色の壁をつたうが、壁は緩やかにカーブを描いていて近づくことは出来なかった。
ストレッチャーを押す白田が前室との仕切りの先へ消えていく。
「どこか、どこか出口はないのか?」
俺は背後を振り向いて先の見通せない乳白色の世界を手探りで進む。
瓶の反対側の壁にぶつかることを覚悟していたけれど、どこまで行っても壁はなく、背後の瓶の壁もいつの間にか見失っていた。方向も分からなくなり、ただひたすら真っすぐと思われる方向に足を進める。
「暗い森で迷子になるのは真っすぐ歩いているつもりでも自然と左に進路が曲がっていくせいだって聞いたことがあるけど、このまま永遠に歩くことになるのかな?」
口に出してつぶやいてみる。
すると、霧の中に影のような木々が見えてきた。いつの間にか仄暗い森の中を歩いていたようだ。
光源もないのにやけに明るい霧のせいで木々は影でできているようにぼやけている。間近に見るまでは水墨画のように色を失っていたが、近づくとそれは確かに生きた樹木で、長い年月を感じさせる木肌とそれを覆う苔が静謐な空気を感じさせた。
妖しげな森に迷い込んだけれど俺に恐れはなかった。ここには前に来たことがある。
やがて乳白色の光に満たされた広場に出る。
広場の中央には前回と同様に視界に収まらないくらいの太い幹をもった大木があって、天辺は遥かな高みの霧の中に消失している。広く大地に根を張り、その年月で押し割った岩からはちょろちょろと清水が沸いている。湧き水の周囲を覆う美しい緑の苔の端に祠があって、記憶にあるままの和装姿の幼女が座っていた。
「お約束通り、また来てくださったのですね」
幼女は眉を下げ、困ったような嬉しいような複雑な表情を浮かべて言った。
「ああ、あまりいい状況じゃないけどね」
「それはわかります。ずいぶんと変わった方角からいらしたから」
肩で切りそろえた黒髪を揺らして幼女がくすくすと笑う。
「それに、大事なものを置いてこられたようですし」
「そうなんだ。あの人の体を好きにさせるわけにはいかない。なんとか戻りたいんだけど……」
「あら、それって女のひと?」
少女の瞳がからかうような色を帯びる。
「わたくしが申し上げたのはお兄さんの肉体のことだったんですけれど」
すねたように顔を反らして言った。
「ご自分のお体よりもその方のことをご心配なさるのね」
「いや、その。そういうものだろ?目の前に危険の迫った仲間がいればそちらを優先するのが自然っていうか……。それに、誓ったんだ」
「何を誓ったのです?」
「いつか俺がその人を守れるように、きっと強くなろうって」
「……そう。その方が羨ましいですわ」
少女が長いまつ毛を伏せてつぶやく。
俺は声をかけようとして、あまり無責任なことも言えずに口ごもる。
少女は顔をあげ、先ほどのつぶやきをごまかすように明るい表情を作って告げた。
「お兄さんは今、魂だけの状態でさまよっています」
「そう、みたいだね」
「お兄さんは何度かここを訪れているのでこの場所との縁が魂をこの場所へ導いたのでしょう。ですが、通常の魂は肉体から離れると幽世へと向かいます。『羊脂玉浄瓶』で魄と分けられた魂はそのままでは蒸発してしまうのです」
「そんな。じゃあ、このままじゃいつかみんな死んでしまうってこと?」
「すぐではありません。瓶に閉じ込められた状態なら、それこそ魄より長持ちします」
「どうすれば元に戻せるんだ?」
「魂が他に霧散しないように結界を張ってから、肉体に『羊脂玉浄瓶』の中身を飲ませるのです。結界の中で幽世への行き場を見失った魂は手近にある魄に引かれて肉体に宿ります」
「なるほど」
少女が手を振ると俺の左腕のコンソールが勝手に起動して魔法陣を表示する。
「こちらが魂を閉じ込める結界です」
少女が示した結界は比較的見慣れたものだった。結界の基本形のようなもので、レイドの結界にも織り込まれている。これなら誰にでも起動できるだろう。
「助かるよ」
「ですが、気を付けてください。違う人の魂を使っても魄は結びつこうとします。必ず一人ずつ正しい魂と魄を用意して執り行ってください」
「間違えて別の人の魂を違う人の魄に結びつけちゃったら、中身が入れ替わって目覚めるってことかい?」
「ええ、そうです」
そんな危険なロスト・アセットだったのか。
『羊脂玉浄瓶』を使って白田がやろうとしたこと。片梨さんの体を手に入れた今、彼がたくらんでいることは……
「たいへんだ、片梨さんが危ない」
少女の肩がぴくっと動く。
「慌てることはありません。ここでの時間は現世では刹那にも満たないほんのひとときです。それよりも慌てて迷子になるほうが危ないですよ?」
「でもどうやって帰れば……」
振袖の袂で隠した口元からくすくすと笑い声が漏れる。
「また送って差し上げますわ。そのためにわたくしがここにいるのだもの」
「そうか。いつもありがとう」
伸ばしかけた手を止めて、少女が目をぱちくりとさせる。
「俺、何か変なこと言ったかな?」
「……いえ。ただ、この場所に何度もいらしたのはあなたが初めてですもの。お礼を言われたのも初めてですわ」
「そうか、ここは何度も来るところじゃないって言ってたね。そうだ、自己紹介がまだだったね。俺の名前は石守英太。あっちの世界で会えたらもっと本格的にお礼をさせてくれ」
驚いた少女の顔が一瞬泣きそうに崩れかける。
「あなたとわたくしが同じ時代に生きる者なのかもわからないもの。現世で逢う約束はできないわ。でも、そうね。あなたは名前を教えてくれたわ。あのね、この場所で名前を告げるのはとても危険で重大なことなの。それは相手にあなたの魂魄を縛る力を与えることを意味するのよ」
「ごめん、知らなかったんだ」
少女はニコリと微笑んでいった。
「あなたのお名前をお礼としていただいておくわ。この名前は決して忘れない。わたくしの名前は与えられないけれど、許してね」
「俺の名前が何かのお礼になるならよかった。じゃあ、そろそろ行くよ」
「ええ」
そして俺は幼女の差し出す小さな手をこめかみに感じ、ぐらりと平衡感覚を失って世界が暗転した。
英太の姿が消えたあと、神隠しの辻に一人佇む幼女は小さな手を胸にあててつぶやいた。
「石守英太さん。決して忘れないわ」
和装の幼女に助けられて現世へと戻る英太。果たして間に合うのか――




