終わりから始まる
次の日。夜中から昼過ぎまで降り続いていた雨が止み、雲の切れ間からこぼれた薄い光が庭の緑を優しく照らし出していた。全く針の進まない刺繍の合間に、ぼんやりと窓からその様子をながめていたディアナの部屋の扉が叩かれる。
「お嬢様、そろそろお着替えの時間です」
「ええ。もう、そんな時間」
今日はアレンと一緒に出席する舞踏会がある日だった。
ディアナを着飾ることが大好きな侍女たちは、いつもなら賑やかにおしゃべりをしながら作業をするのに、今日ばかりは言葉少なだ。昨日のただならぬ様子に、屋敷ではちょっとした騒ぎになったのだ。しかし、ディアナが頑なに何でもないと言い張ったのでそれ以上は誰も何も聞いてこなかった。父が不在だったのも大きい。
彼女たちは時折鏡越しにディアナを心配そうに窺い、それでも慣れた手つきでてきぱきと、ディアナの着替え、化粧、髪の結い上げなどをこなしていった。
いつものように出来栄えはさすがの一言だった。姿見に映るディアナはどこから見ても立派なご令嬢で、昨夜一晩中眠れなかった形跡は全くない。
「ありがとう、とても素敵だわ」
笑顔で礼を言うと、侍女たちはどこかほっとした顔で頷き合い、ディアナに一礼すると退出していった。
誰もいなくなった部屋で、ディアナは小さくため息を吐き、目を閉じる。昨日からずっと瞼の裏で繰り返される、別れの場面。あのまま終わってしまったら、美しい日々が台無しになってしまい、ディアナは一生後悔するだろう。
彼に、伝えたいことがある。
◆◆◆
「アレンさま。それ、一体どうしたんですか?」
「何でもないよ、そこで転んでしまって」
訪ねてきたアレンは、舞踏会にふさわしい正装に身を包んでいた。今何も言わないということは、彼は予定していた舞踏会には出席し、それが終わったら別れを告げるつもりなのだろう。不可解なのは、たしかに服や髪に小さな葉が点々とついているのだが、転んだと言うわりに服がそれ以上汚れていないことだった。ディアナは少し考えて、思い出した。妹が庭の葉っぱをむしりとって集め、通りかかった人にかける悪戯をしているのを見たことがある。
「リリアナですか?」
尋ねたのと同時に、玄関先の木陰から小さな影が顔をのぞかせた。
「お姉さまを泣かせるアレンさまなんて、大っ嫌い」
自身の服にも同じような葉っぱをくっつけたリリアナは、そう言って走り去っていく。幼い彼女でも、昨日の姉の涙の理由をわかってしまったのだろう。
「す、すみません。あの子ったら。リリアナ! 待ちなさい」
「いいんだ、本当に。怒らないであげてほしい。リリアナは何も悪くない」
やんわりとではあるが、いつになく強い口調にディアナは何も返せず、アレンの葉っぱをのろのろと摘まみ取った。気まずい空気のまま、二人で馬車に乗り込む。
馬車の中ではお互いずっと無言で、時折視線が合うこともあったが、すぐにそらしてしまう。アレンはやはりこの場では何も言う気はないらしい。伝えるなら、今しかない。
ディアナがアレンさま、と大きめの声を上げると、彼はかすかに体を震わせた。
「あなたの決断がどのようなものであれ、私はそれに従います。でも、どうか最後に本当のことを打ち明けるのを許してください。誤解から始まった婚約だとしても、それが無しになってしまうのは、とても辛いです。つまり」
ディアナはありったけの勇気を振り絞る。ひどい言葉を投げつけたまま終わりにするのは嫌だった。最後くらいは笑顔で想いを告げたい。
「私は今でもアレンさまを心からお慕いしています。幸せな時間を、ありがとうございました」
きちんと笑えたことに安堵する。何度も言葉に詰まったが、アレンは何も言わずに最後まで聞いてくれた。
自分の気持ちはすべて伝えた。ディアナはどこか晴れ晴れとした心持ちになったのが、一方のアレンは、打ちのめされたような顔をしていた。
「すみません……。困らせてしまったかもしれませんが、どうしても言っておきたかったのです」
「ディアナ」
喰いしばった歯の間から名を呼ばれたが、彼が続きを言う前に馬車が止まり、到着が告げられた。
◆◆◆
「一曲、踊ろう」
会場に着くなり周囲への挨拶もそこそこに、アレンはディアナをダンスに誘った。戸惑う暇もなく、男女が踊りを繰り広げている一帯へと手を引かれる。弦楽隊が奏でる優雅な音色に合わせてステップを踏んだ。ディアナを支える腕は力強く、足を踏み出しやすいように導いてくれている。前のように両者がちぐはぐな動きをすることもほとんどない。ディアナはまたアレンの足を何度か踏んでしまい、彼もディアナの足を踏みかけた。しかし、そのたびに彼はうまく体制を立て直し、何事もないようにダンスを続けた。踊りやすい曲調なのだろうか、今日のアレンはダンスは苦手だと言っていた彼からは想像もできないほどだった。美しい旋律、目の前には愛しい人。こんな状況でなければ最高に楽しいひとときだっただろう。曲が終わってしまうのを少し寂しく感じた。いや、寂しいのではなく、怖いのだ。このダンス終わってしまったらきっと――。
そんなディアナの気持ちにはお構いなしに、夢のような時間は終わってしまった。
「とても踊りやすくて……なんだか夢を見ているみたいな気分でした」
「昨日帰ってから、家の者に付き合ってもらって、久しぶりにダンスの練習をしたんだ。今更って呆れられたけれど」
「練習ですか? なぜ?」
「占いを土台にした自信のおかげじゃなく、自分で努力した上で君を誘って踊りたかった。情けないのは、もう嫌だと思って。でもダンスは少しはましになっても、まだまだだな。言うべきことを君に先に越されて何も言葉が出てこないなんて」
一言一言を噛み砕いて理解するのには時間がかかりそうな言葉だった。ディアナは困惑して何も返せない。そのとき会場内に、イヴリンの姿を認めた。彼女はディアナとアレンに気付くや否や顔を強張らせ、気まずそうにその場から去って行った。昨日運命の相手だということを打ち明け、二人は気持ちを確かめ合ったはずなのに。疑問に思うディアナを察したのであろう、アレンは言った。
「僕が好きなのは藍の詩人ではなくて、ディアナだ。だから、彼女の整色聖人が何だろうと、関係ない。そう説明して、分かってもらった」
「え?」
「ディアナ、少し風に当たろうか」
アレンに誘われ、正庭に面した広いバルコニーに出る。何組かの男女が各々楽しげに会話を交わしていた。室内の喧騒は遠くに感じられ、熱気あふれる空気は一転、清涼な夜風が首筋を撫でていくが、ディアナの火照った頬は到底冷めそうにもない。アレンが言っていたことが耳から離れなかった。これは夢でなければ自分が都合のいいように作り出した幻聴なのかもしれない。
彼の金髪はこんな薄暗い場所でも輝くばかりに明るい。そこに取り切れていなかった妹の悪戯の残骸、小さな葉の切れ端を一枚見つけディアナは手を伸ばしかけたが、躊躇した。その宙をさまよう白い手をおもむろに握りしめられ、ディアナは息を飲んだ。けれどそれは一瞬だけで、すぐに離される。
「――整色聖人の運勢や幸運色を日々の生活に取り入れてはいたけれど、運勢を調べない日だってこれまで多々あったし、相性の良い整色聖人は知ってはいても、結婚相手をそれだけで決めるつもりもない。ディアナ、君のことは初めて見たときからずっと気になっていて、あの夜会の日、エリーゼに紹介してもらおうと思って近づいていったんだ。そのとき誕生日のことを話していて、君が藍の詩人だと思った僕は舞い上がった。だから自分に自信のない僕は、それまで以上に占いを信じるようになってしまった」
アレンはかすかにため息をついた。
「いや、信じるというより、すがっていたのかな。君の運命の相手は、この情けない男でいいと、整色聖人が示してくれた、と」
ディアナはアレンの言葉に半ば呆然としながら聞き入る。彼がよく口にしていた運命、とは、アレンの運命の相手がディアナだということではなく、その逆だった。完璧に見えるアレンだが、しばしば寄る辺ない顔をしていたのを思い出す。
「だから、周りで噂になるほどのめりこんだのは君と出会って以降だ。占いの通りにすればするほど、ディアナにふさわしい男になれると思っていた。それが君をどんなに傷つけているかも知らずに、浮かれていた僕は本当に最低だ」
「そんな」
「君が藍の詩人ではないと知ったときは正直絶望したけれど、僕なんかが到底つり合う相手じゃなかったとどこか納得もしていた。でもこのままじゃ駄目だと思った。諦めるなんてできない。ディアナ、今日は僕は占い本を触ってすらいない。だから、今日の運勢も幸運色も知らない。運命も何も関係ない。僕の気持ちのまま君に気持ちを打ち明けさせてくれ。君を、愛してるんだ。結婚してほしい」
小さな箱がためらいがちに差し出された。いつかのお店の刻印が押されているリボンがかけられたそれに、何が入っているか、ディアナはすぐにわかった。
永遠の愛が形で分かるものならば、どんなにいいだろうと思ったけれど、箱を受け取ったにディアナの手ごと包みこんだ彼の手の暖かさに、形よりももっと確かなものを感じた。いつの間にか自らの頬を流れる涙に気づく。
アレンの告白を聞き、ディアナは震えるほどに嬉しかった。でも――。
「でも、一番悪い相性なんですよ」
「君以上に大事なものなんてもうない。相性が悪くても、それがどうしたと言えるくらい君にふさわしい男になれるように努力する」
彼のまっすぐな言葉と眼差しは、ディアナの心を打った。二人の相性は変えられないけれど、別々になりかけていた未来は、二人一緒なら変えることができる、そんな風に思えた。ディアナはアレンの信じる占いのために彼を諦めることはしなくてもいいし、アレンもディアナのために信じてきたものを捨てる必要はない。
「アレンさま、私は昨日、ひどいことを言ってしまいました。あなたが信じているものを女々しい、くだらない、だなんて。本当にすみませんでした。あれは本意ではありません。占いを支えにして、日々頑張ってこられたのでしょう」
昨日投げつけた暴言はさぞかし彼を傷つけただろう。しかしアレンは穏やかに言った。
「ディアナを初めて見たときも、そう言っていた」
「アレンさまのおっしゃる、初めて、というのは」
ディアナは首を傾げる。先ほどからの彼の口ぶりでは、二人の出会いはワルツを踊ったあの夜会以前のように聞こえるが、ディアナには全く覚えのないことだった。
「僕が初めて君を見たのは、エリーゼの家でだった。君とエリーゼが話しているところに偶然通りかかったんだ。恋の悩みを抱えた彼女は、道が見えなくなっているようだった。心の拠り所にしていた占いをくだらないと周りに言われ、さらに落ち込んでいる彼女を君は必死に励ましていた」
――何を信じるのもエリーゼの自由じゃない。信じるだけではなくてそれを支えに、より良くしようと、何をするかが大事だと思う。あなたはそれを分かっていて、いつも努力しているのを私は知っている――
ディアナはうっすらと記憶の糸を手繰り寄せた。泣きじゃくるエリーゼに元気になってほしくて、そんな風に言った覚えが確かにある。あれをアレンが聞いていたとは。
「要するに、立ち聞きだ。内容が自分と重なってしまって、つい。ごめん」
ばつの悪そうな顔をする彼に、ディアナは首を振る。天使のような風貌の彼がする人間味を感じさせる表情は、いつも以上に愛おしい。
「アレンさま、明日からも毎日。これからも、ずっと、私が黒の賢者の運勢を調べます。あなたが調べなくても、これからは共に心の支えになりたいから」
「……ディアナ、僕の頬を思いきりつねってくれ。幸せすぎて、これは夢なんじゃないかと心配になってきた」
本気で心配そうな様子のアレンの滑らかな頬に、ディアナは手を添えた。
「あなたが痛い思いをするのは嫌なのでつねりません。でも、夢じゃないですよ。だって、こんなに暖かい」
夜風の中でも、アレンの頬と同じくらい、ディアナの手も暖かった。彼も同じくディアナの頬へ手を伸ばす。
向かい合う二つの影は長い間同じ形を留めていたが、やがてゆっくりと、一つになった。