牛乳と小さなお菓子
※このお話は『興国の悪女』本編、松が砥堀への出入りを許された後の出来事です。
本編では大きく省略された、松の日常や何気ない出来事を描いていきます。
今回は、砥堀の村で過ごす松の、とある一日のお話です。
砥堀の村へとやってきた。
高友叔父様の屋敷から、それほど離れてはいない。
今日は、村で牛を飼っている家を訪ねるつもりだった。
村に入ると、畑仕事をしていた者や、家の前で作業をしていた者たちが、こちらに目を向けた。
私の着物は、村人たちの普段着とは少し違う。
通と春を連れて歩いていることもあってか、あちらこちらから視線を感じる。
「どこのお方だろう」
「姫路から来られたのか?」
そんな声が聞こえてくる。
すると、近くにいた年配の男がこちらへ歩み寄ってきた。
「失礼ですが、どちらからお越しになられたので?」
「叔父様のお屋敷からです」
私はそう答えて、来た方を指差した。
男は指の先を追い、屋敷の方を見る。
「あちらでございますか?」
「はい」
男は少し驚いたように目を見開いた。
「あそこは領主様のお屋敷ですが……」
「そうですよ」
「……領主様が、叔父様?」
「はい。高友叔父様です」
男は私の顔を改めて見た。
そして、何かに気づいたように表情を変える。
「もしや……姫路の姫君でございますか?」
「ええ」
「な、なるほど……」
男が慌てて頭を下げる。
そのやり取りを聞いていた周囲の村人たちも、にわかにざわつき始めた。
「姫君様だと?」
「黒田様の姫君か」
「こんなところまでお越しになるとは……」
私は少し不思議に思いながら、男に尋ねた。
「ところで、この村に牛を飼っているお家はありますか?」
「牛、でございますか?」
「ええ。牛の乳を少し分けていただきたいのです」
男は一瞬、戸惑ったような顔をした。
男は少し考えたあと、村の奥を指差した。
「牛を飼っている家でしたら、源兵衛のところにございます」
「そこへ案内してもらえますか?」
「もちろんでございます。こちらへ」
男の案内で、村の中を歩いていく。
途中、何人かの村人とすれ違ったが、皆こちらを気にしているようだった。
やがて、一軒の家に着いた。
「源兵衛、いるか!」
男が声をかけると、家の中から一人の男が出てきた。
「これは、何事で……」
男は私を見ると、すぐに姿勢を正した。
「こちらは黒田様の姫君であられる」
「ひ、姫君様!?」
源兵衛が慌てて頭を下げる。
「今日は、この家で牛を飼っていると聞いて来ました」
「牛、でございますか?」
「はい。牛の乳を少し分けていただきたいのです」
「乳でございますか。もちろん、よろしゅうございます」
源兵衛は少し不思議そうにしながらも、牛のいる方へ案内してくれた。
牛は小屋の中で、のんびりと草を食んでいた。
「この牛ですか?」
「へえ。そうでございます」
私は牛を眺める。
以前、遠くから見たことはあったけれど、こうして間近で見ると大きい。
すると、家の奥から子供が顔を出した。
私と同じくらいの年頃だろうか。
こちらをじっと見ている。
「お父、どうしたの?」
「こら、こちらは姫君様だぞ」
源兵衛が慌ててたしなめる。
子供は少し驚いたように私を見た。
「こんにちは」
私が声をかけると、子供も小さく頭を下げた。
「……こんにちは」
私は牛に目を戻す。
「この牛のお乳を、少し分けてもらいたいの」
「お乳?」
「うん」
子供は不思議そうに首を傾げた。
「何に使うんですか?」
「お菓子を作るの」
「お菓子?」
「そう。甘くておいしいもの」
子供の顔が少し明るくなった。
「へえ、食べたいな」
「いいよ。うちにおいで」
「えっ?」
子供が目を丸くする。
源兵衛も驚いた顔で私を見た。
「姫君様、それは……」
「一緒に作ったら楽しいでしょう?」
私はそう言って笑った。
こうして私は、牛乳を分けてもらうだけのつもりが、村の子供を一人連れて帰ることになった。
牛乳を分けてもらい、私は村の子供と一緒に高友叔父様の屋敷へ戻ることになった。
「本当に行っていいの?」
「うん。約束したでしょう?」
「でも、姫君様のお屋敷だよ?」
「叔父様のお家だから大丈夫」
子供は少し不安そうだったが、私の後ろをついてきた。
屋敷に戻ると、通と春が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、松姫様」
「ただいま」
二人は私の隣にいる子供を見て、少し驚いたようだった。
「……そちらのお子は?」
「村で会ったの。一緒にお菓子を作るの」
「お菓子、でございますか?」
「うん。台所を借りたいんだけど」
「かしこまりました」
私は牛乳を持って台所へ向かった。
まずは材料を揃えなければならない。
「牛乳と、卵と、麦粉を用意して」
「卵と麦粉でございますね」
「それから水飴も」
「水飴もですか?」
「うん。甘くしたいから」
台所の者たちが材料を用意してくれる。
私はそれぞれの器を並べて、しばらく考えた。
さて、何を作ろう。
前世で食べたお菓子はいろいろあるけれど、今ある材料で作れるものとなると限られてくる。
凝ったものは難しい。
まずは簡単な焼き菓子でいい。
「麦粉に卵と牛乳を入れて……」
私は匙を手に取った。
「これを混ぜてね」
台所の者に手伝ってもらいながら、生地を作っていく。
水飴も加えて、甘さを調整する。
「これでいいかな」
生地ができると、今度は焼く準備だ。
「これを焼いてほしいの」
「かしこまりました」
火加減は台所の者に任せる。
私は焼き上がるのを待ちながら、隣の子供を見た。
「もうすぐできるよ」
「うん!」
子供は、焼き場をじっと見つめていた。
やがて、香ばしい匂いが台所に広がり始める。
「……いい匂い」
子供が小さく呟いた。
私も焼き上がりを覗き込む。
どうやら、うまくいったようだ。
しばらくして、子供は家に帰ることになった。
「今日はありがとう!」
「うん。また遊びにおいで」
「いいの?」
「もちろん」
子供は嬉しそうに頷くと、屋敷を出ていった。
私はその後ろ姿を見送る。
「松姫様、ずいぶんと仲良くなられましたね」
春がそう言った。
「そうかな?」
「ええ。村の子供と一緒にお菓子を作られるとは思いませんでした」
「だって、一緒に食べたほうがおいしいでしょう?」
私は残ったお菓子を一つ手に取った。
もう一口食べてみる。
うん、やっぱり、もう少し甘くしたい。
それに、ふんわりさせることもできるはず。
牛乳もまだあるし、卵も麦粉も手に入る。
「次は、もう少しおいしく作ろう」
そう呟いて、私は残ったお菓子を口に運んだ。
砥堀での暮らしは、まだ始まったばかり。
これから、どんなものが作れるだろう。
そんなことを考えると、少し楽しくなってきた。




