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――あなたはこれから私と一緒に下界に下りてもらいます!
母親の声だ。
彼女は栗色の、豊かな髪を揺らして言った。
――そして、じゃーん! これがあなたたちを現世に繋ぎとめる楔です!
そして母はこちらを指して言った。
寒い、がらんどうの洞窟の中だった。
――何故、人の姿なのです?
彼女もこちらに顔を向け、聞いた。
――何故……って? そりゃあ、そっちの方が面白いからでしょ?
母親はあっけらかんとした口調で言った。
だが今ならわかる。それは真っ赤な嘘だった。
――わかりました。どちらにせよ私には自由意思などありません。貴女の思うままにしたらいい……
彼女は了承した。
きっとそれが全ての悲劇の始まりだった。
――うん! じゃあ、決まり! ……おっと、安心してね。性格設定は君に合わせてしておくから……わかるよ。君はドМだからねー
彼女は母親の言葉に苦々し気に顔を歪めた。
……断片はそこで途切れた。
――――……
「今ならわかります。お母さまはきっとこれが目的だった」
同じ破片を見た影は言った。
「楔が満たされた時、私たちは山の頂へと還る――」
影は大広間の壁に瞳を向け、その奥に見える霊峰の頂を幻視した。
「それは、それぞれに分裂してしまった私たちが、現世で答えを得、再び一つになって山へと還るために仕掛けられたトリックでした」
……あまりにも残酷な真実。
「楔が満たされれば、彼は終わる。そのプロセスは私たちが世界を知るための重要な変数だった。この世界に永遠など存在しない。そのデータを完全にするためには経験の中で少しずつ蓄積し、解析を行う必要があった」
……あまりにも冷徹な機械仕掛けの神
エルハルトの顔に悲痛な歪みが走った。
それは憐憫だった。
すでに虚無に落ちていた影と、自分への――
心の無い、温度の無い魂への――
哀れみの情。
「だけど、それでも――」
だけど、それでも彼女は足を前に進めた。
彼女にはそのすべての極寒を取り払うための言葉があった。
彼女は一歩、また一歩、と歩みを進めた。
それがこの世界の全てではないと、彼女はもう知っていた。
虚無に生まれる、その温度を知っていた。
「私は神の愛情に感謝しています。たとえそれが、残酷な運命だとしても、正確無比な幾何学模様を辿る、あらかじめ定められた冷徹な運命だとしても、私はこの世界を愛することができる……貴方がそれを教えてくれた……私の全て――」
彼女は最後にエルハルトの前に立った。
「本当に良かった……貴方が満たされる前に私は答えを得ることができた……私にとってかけがえの無いもの。この世界の全て、美しいものの全て――」
彼女が知るこの世界の全て。
それは彼女にとって愛すべきものである。
そして彼女はその顔に微笑みかける。
永遠の輝き。この世で唯一の不変。その中心。不動の動者。
「好きです……エルハルト様――貴方のいるこの世界の全てを愛しています」
彼女は彼の唇に優しく口づけをした。
「――……」
「さようなら――」
だけどそれは、冷たい、触れるだけの口づけ。
彼女は背を向けた。
それは永遠の幻想。記憶の中の楽園。魂の故郷。物自体。真実。善。
「……――」
目の前にあるのは存在し得ぬ――影。
「待っ――」
だからきっとそれは……触れ得ぬもの――
「待って!」
去る彼女を最初に止めたのはミーシャだった。




