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『怖い上司が、家では俺を褒め殺してくる』 神崎怜士 × 橘遥斗 #2

##2

****


付き合い始めてからも、遥斗はしばらく怜士を「部長」と呼んでいた。


仕事中なら分かる。

だが、休日のカフェでも、夜の電話でも、つい口から出てしまう。


「部長、明日の資料なんですけど」


「今は勤務時間外だ」

「あ、すみません」


「謝るところではない」


電話越しの怜士の声が、少し低くなる。


「遥斗」


名前を呼ばれただけで、遥斗の心臓が跳ねる。


「はい」

「俺のことを、仕事の肩書きで遠ざけるな」


遥斗は言葉に詰まった。

遠ざけているつもりはなかった。


けれど、そうだったのかもしれない。

怜士は完璧な上司で、自分はミスの多い部下。


恋人になった今でも、その差が怖かった。


「……怜士さん」


初めて、そう呼んだ。

電話の向こうで、怜士が黙る。


「部長?」


「呼び直すな」

「え」


「今のままでいい」


声が少しだけ掠れていた。

遥斗の顔が熱くなる。


「怜士さん」

「……ああ」


たったそれだけで、胸がいっぱいになった。


****


数日後。

遥斗は、また無理をした。


大型案件の資料修正。

先方への再提案。

社内調整。


雄女化した身体は疲労が顔に出やすいと分かっているのに、遥斗はそれを隠そうとした。


怜士に心配されたくなかった。

恋人になったから甘やかされていると思われたくなかった。


だから、いつも以上に働いた。

その結果、会議後に足元がふらついた。


「橘!」


怜士の声が飛ぶ。

遥斗は壁に手をついた。


「だ、大丈夫です」

「大丈夫な顔ではない」


怜士がすぐに近づき、遥斗の手首を取る。

脈を確かめるような仕草に、遥斗は慌てた。


「会社です、部長」

「だから何だ」


「見られます」

「倒れる方が問題だ」


怜士は周囲へ短く指示を出した。


「会議は十五分延長。資料は共有済みの最新版を使え。俺は橘を休ませる」


社員たちは一瞬固まったが、怜士の声に逆らう者はいなかった。


休憩室。

遥斗はソファへ座らされ、温かい飲み物を渡された。


「飲め」

「すみません……」


「謝るな」


怜士は遥斗の前に立った。

厳しい顔だった。


「また自分を粗末にしたな」


遥斗は目を伏せる。


「恋人になったからって、甘えてると思われたくなくて」


「誰に」

「周りに」


「俺にか」


遥斗は息を詰めた。

怜士の声は静かだったが、怒っていた。


「遥斗」

「はい」


「俺が選んだ相手を、お前自身が低く扱うな」


胸を突かれた。

怜士は続ける。


「お前が頑張っているのは知っている。だから、頑張るなとは言わない」


その目が、まっすぐ遥斗を見つめる。


「だが、倒れるほど削ることを努力とは呼ばない」


遥斗の視界が滲んだ。


「怜士さん」

「俺に管理させろ」


「……管理?」

「食事。睡眠。仕事量。休むタイミング」


「それ、恋人というより上司では」

「恋人だから、さらに厳しくなる」


「怖い!」


遥斗が思わずツッコむと、怜士の口元がわずかに緩んだ。

その少しの笑みだけで、遥斗は安心してしまう。


悔しい。

でも、嬉しい。


****


その日の夜。

怜士は遥斗を自宅まで送った。


遥斗の部屋は、思ったよりも質素だった。

小さなテーブル。


仕事用のノートパソコン。

冷蔵庫には、栄養ドリンクとゼリー飲料ばかり。


怜士は冷蔵庫を見て、無言になった。


「……怜士さん?」


「これは何だ」

「冷蔵庫です」


「中身の話だ」

「忙しい時は便利で」


怜士の視線が鋭くなる。


「遥斗」

「はい」


「明日、買い物に行く」

「え」


「食材を買う。作り置きもする」

「え、怜士さんが?」


「俺が」


「部長、料理できるんですか?」

「勤務時間外だ」


「怜士さん、料理できるんですか?」


怜士は少しだけ目を細めた。


「できる。お前よりは」

「それは大体の人がそうです」


「自覚があるなら改善しろ」


遥斗は思わず笑ってしまった。


怜士は厳しい。

でも、その厳しさの向きが、もう以前とは違う。


ミスを正すためだけではない。

遥斗を生かすための厳しさだった。


****


週末。

二人はスーパーにいた。


怜士は買い物かごへ、野菜、肉、魚、卵、ヨーグルトを淡々と入れていく。

遥斗はその横で目を丸くしていた。


「怜士さん、買い物まで効率的ですね」

「献立を決めてから来ている」


「すご……」

「遥斗、菓子パンを戻せ」


「見てた!?」

「見ている」


その言葉に、遥斗の胸が少し跳ねた。


仕事でも。

食事でも。


怜士は見ている。

けれど、監視されている感じではない。


見捨てないために見ている。

そんなふうに思えた。


「怜士さん」

「何だ」


「俺、こういうの慣れてないです」

「買い物か」


「違います」


遥斗はかごの持ち手を握った。


「誰かに、ここまで生活の中に入ってこられるの」


怜士が足を止める。


「嫌か」


遥斗は首を振った。


「怖いです」


正直に言った。


「でも、嫌じゃないです」


怜士はしばらく黙っていた。

それから、静かに言った。


「俺も慣れていない」


「え?」

「誰かの食事を考えて、帰宅時間を気にして、休日に買い物へ来る生活に」


怜士は少しだけ苦笑する。


「仕事だけで回っていた生活に、お前が入ってきた」


遥斗の胸が熱くなる。


「迷惑ですか」

「逆だ」


怜士が遥斗を見る。


「ようやく、人間らしい生活になった」


遥斗は何も言えなかった。


スーパーの蛍光灯の下。

買い物かごを持った完璧な上司が、そんなことを言う。


ずるいと思った。


****


夜。

怜士の家。


キッチンには、作り置きの惣菜が並んでいた。

遥斗はテーブルに座り、目の前の料理を見つめる。


「すごい……」

「数日は持つ」


「怜士さん、何で独身だったんですか」

「必要がなかった」


「今は?」


怜士は皿を置きながら、少しだけ間を空けた。


「必要になった」


遥斗の顔が熱くなる。


「そういうこと、さらっと言いますよね」

「さらっとではない」


怜士は向かいに座った。


「考えて言っている」


さらにずるかった。


食後。

遥斗が食器を片づけようとすると、怜士が止めた。


「今日は休め」

「でも」


「倒れかけた人間が言う台詞ではない」

「う……」


怜士はソファへ座るよう促した。

遥斗は素直に腰を下ろす。


すると、怜士が隣へ来て、遥斗の額へ触れた。


「熱は下がったな」

「医者みたいですね」


「管理対象だからな」

「言い方!」


遥斗が笑うと、怜士の表情が少し和らいだ。

その顔を見ると、胸がいっぱいになる。


「怜士さん」

「何だ」


「俺、頑張りたいです」

「知っている」


「ちゃんと、あなたの隣に立てる人になりたい」


怜士は遥斗を見つめた。


「もう立っている」

「でも」


「遥斗」


怜士の声が低くなる。


「俺の隣は、完璧な人間のために空けているわけじゃない」


遥斗の息が止まる。


「お前のために空けた」


怜士は、遥斗の手を取った。

仕事中なら絶対にしない触れ方だった。


「だから、勝手に降りるな」


涙が出そうになった。

遥斗は何とか笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「……はい」


怜士の手が、遥斗の指を包む。


「それと」

「はい」


「俺の生活に入れ」


遥斗は目を見開いた。

怜士は、まっすぐ見ていた。


「食事も、睡眠も、帰る時間も。お前の分を、俺の予定に入れたい」


「それって」

「同居の話だ」


遥斗の顔が一気に赤くなる。


「急すぎません!?」

「急ではない。かなり考えた」


「いつからですか」

「お前の冷蔵庫を見た時点で確定した」


「理由が生活感!」

「重要だろ」


「重要ですけど!」


怜士は真顔だった。

けれど、その耳が少しだけ赤い気がした。


遥斗は胸が苦しくなるほど嬉しかった。


結婚しよう、という派手な言葉ではない。

甘いだけの告白でもない。


でも怜士らしい。

自分の生活に入れ。


帰る場所でいてくれ。

一緒に整えていこう。


そう言われている気がした。


「……俺でいいんですか」


口から出た瞬間、遥斗はしまったと思った。

怜士の目が少し険しくなる。


「遥斗」

「はい」


「また自分を下げた」

「すみません」


「謝るところでもない」


怜士は、遥斗の手を強く握った。


「俺が選んだ」


その声は、揺れなかった。


「お前だから、俺の生活に入れたい」


遥斗の目から、涙が落ちた。


「……怜士さん」

「何だ」


「俺、帰る場所になれますか」


怜士の表情が、ほんの少しだけ崩れた。


「もうなっている」


その一言で、遥斗は完全に泣いた。


怜士は慌てない。

ただ、遥斗を静かに抱き寄せる。


完璧な上司の腕ではなく。

恋人の腕だった。


「泣くな」

「無理です」


「なら、落ち着くまでここにいろ」

「……命令ですか」


「お願いだ」


遥斗は泣きながら笑った。


「怜士さん、お願い下手ですね」

「慣れていない」


「じゃあ練習してください」

「分かった」


怜士は遥斗の髪へ、そっと口づけた。


「遥斗、俺の帰る場所でいてくれ」


遥斗の胸が熱くなる。


「はい」


震える声で答える。


「俺でよければ」


怜士がすぐに眉を寄せた。


「“俺がいい”と言え」


遥斗は涙を拭いながら、少し笑った。


「……俺が、いいんですね」

「そうだ」


即答だった。

その迷いのなさに、遥斗はまた泣きそうになる。


厳しくて、完璧で、少し不器用で。

でも、自分を下げるたびに、必ず正してくれる人。


遥斗は、その手を握り返した。


「じゃあ、怜士さん」

「何だ」


「俺も、あなたの生活に入れてください」


怜士は静かに頷いた。


「最初から、そのつもりだ」


こうして、遥斗は怜士の生活に入った。


部下としてではなく。

管理対象としてだけでもなく。


怜士が、帰る理由として選んだ相手として。


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