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『怖い上司が、家では俺を褒め殺してくる』 神崎怜士 × 橘遥斗 #1

##1


神崎怜士かんざき・れいじ は、完璧な男だった。


若くして営業部の管理職へ上がったエリート。判断は冷静で、仕事は速く、感情を表に出さない。


社内で怜士に甘えた評価を期待する者はいなかった。書類の誤字も、数字のズレも、曖昧な報告も、怜士の前では一つ残らず拾われる。


だから営業部の新人たちは、彼の足音が聞こえるだけで背筋を伸ばした。


****


「橘、資料」

「は、はい! 神崎部長!」


橘遥斗たちばな・はるとは慌てて立ち上がり、印刷した提案書を怜士へ差し出した。


遥斗は、入社二年目の営業部員だった。成人後に雄女化しており、声や輪郭には少し柔らかさがある。


けれど本人は、それを仕事で武器にする気も、甘えにする気もなかった。

むしろ、雄女だから軽く見られたくないと、誰より必死だった。


「誤字三ヶ所。数字ズレ一ヶ所。あと、先方名の表記が一枚だけ旧社名のままだ」

「すみません……!」


遥斗は深く頭を下げる。

周囲の社員が小さく肩をすくめた。


「また橘くん怒られてる」

「神崎部長、容赦ないな」


けれど、怜士は声を荒げない。


人格を否定しない。

ただ、ミスだけを正確に指摘する。


「修正後、俺に再提出。十分でできるな」

「はい!」


遥斗は顔を上げた。


見放されていない。

それが分かる叱り方だった。


****


昼休み。

遥斗はデスクでコンビニのおにぎりを一つだけ食べようとしていた。


そこへ、低い声が落ちる。


「橘」

「はい、部長!」


怜士が、遥斗の手元を見た。


「それだけか」

「え、あ、朝多めに食べたので」


「嘘をつくなら、もう少し顔に出すな」

「ば、バレてる……」


怜士はため息を吐き、社食の方を顎で示した。


「行くぞ」


「え、俺ですか?」

「お前以外に、ここで昼飯を削って倒れそうな奴がいるのか」


「言い方!」


社員食堂で、怜士は定食を二つ注文した。

一つを遥斗の前へ置く。


「食え」


「部長、俺の母親です?」

「母親ならもっと優しい」


「否定の角度が冷たいです」


遥斗は文句を言いながらも、箸を持った。


あたたかい味噌汁を飲んだ瞬間、身体の奥がほっとする。

雄女化してから、体調の波は以前より分かりやすく出るようになった。


無理をすると、顔色にも声にも出る。

でも遥斗は、それを言い訳にしたくなかった。


「橘」

「はい」


「体調管理も仕事のうちだ」


怜士は淡々と言った。


「倒れてから頑張ったと言うな。倒れないように整えるのが社会人だ」

「……はい」


厳しい。

けれど、その言葉は不思議と胸に残った。


怜士は、遥斗を雄女だから弱いとは扱わない。


ただ、仕事をする一人の人間として、必要な管理を求めている。

それが、遥斗には少し嬉しかった。


****


怜士は、最初から遥斗を見ていた。


遥斗は失敗が多い。

資料の細部で抜けが出るし、慌てると返事が裏返る。


でも怜士は知っていた。

遥斗が誰より早く出社すること。

営業先で理不尽に叱られても、笑って頭を下げること。


雄女だから楽な部署へ行けばいいと陰で言われても、聞こえなかったふりをして、次の提案資料を作り続けること。


****


深夜のオフィス。

怜士は、デスクに突っ伏して寝落ちしている遥斗を見つけた。


手元には、赤ペンだらけの資料。

付箋には、小さな字で「次は同じミスをしない」と書かれていた。


「……馬鹿だな」


怜士は小さく呟いた。

倒れるまでやるな、と叱るべきだ。


だが、その前に上着を脱いで、遥斗の肩へ掛けていた。

自分でも、少しおかしいと思った。


部下の体調管理。

そう言えば聞こえはいい。


けれど、遥斗にだけは、視線が勝手に向く。


****


遥斗は、怜士に憧れていた。


仕事ができる。

誰より冷静で、判断が速い。


ミスしても感情で怒らない。

完璧な人だと思っていた。


だからこそ、怖かった。


――俺なんかじゃ、隣に立てない。


雄女だからではない。

新人だからでもない。


ただ、怜士の隣に立つには、自分はあまりにも足りないと思っていた。


****


雨の日。

営業先から戻る途中、突然の土砂降りに遭った。


「うわ、最悪……」


遥斗はビルの入口で立ち尽くした。

その背後から、黒い傘が差し出される。


「傘は」

「あ、部長」


怜士だった。


「忘れました……」

「だろうな」


「何で分かるんですか」

「お前だから」


即答だった。

怜士は当然のように傘を開き、遥斗を中へ入れる。


距離が近い。

スーツ越しの体温が、雨の冷たさの中でやけに鮮明だった。


「部長、近いです」

「濡れるだろ」


「いや、そうなんですけど」

「雄女化してから冷えやすいんだろう。無理をするな」


遥斗は目を丸くした。


「……覚えてたんですか」

「以前、体調報告で言っていただろ」


怜士は前を向いたまま答える。

遥斗の胸が、少しだけ熱くなった。


誰かに細かく見られるのは、苦手だった。

でも怜士に覚えられているのは、嫌じゃない。


「部長って」

「何だ」


「仕事しかない人生って、寂しくないですか」


言った瞬間、失礼だったと気づいた。


しかし怜士は怒らなかった。

少しだけ黙り、雨の向こうを見る。


「以前は、そう思わなかった」

「……以前は?」


怜士が、ゆっくり遥斗を見た。


「今は、お前がいる」


遥斗の呼吸が止まる。


雨音が傘を叩いている。

その音の中で、怜士の声だけがはっきり聞こえた。


「お前が残業していると、帰る前に確認するようになった」

「……え」


「お前が昼を抜いていないか、気にするようになった」


怜士は視線を逸らさない。


「俺の生活に、勝手にお前の確認項目が増えた」


遥斗の顔が熱くなる。


「それ、褒められてます?」

「俺にとっては、かなり異常だ」


「言い方!」


けれど、怜士の表情は真剣だった。

遥斗は、何も言えなくなる。


****


ある日。

他部署の主任が、遥斗に声をかけた。


「橘くん、うちの部署に来ない?」

「え?」


「神崎部長、厳しいでしょ。君みたいな子には、もう少し柔らかい部署の方が合うと思うよ」


君みたいな子。

その言葉が、遥斗の胸に小さく刺さった。


雄女だから。

新人だから。

少し頼りなく見えるから。


そう思われているのだと、すぐ分かった。

遥斗が笑って誤魔化そうとした瞬間。


「橘」


低い声が落ちた。

振り返ると、怜士が立っていた。


表情はいつも通り冷静だ。

けれど、目が冷えている。


「会議が始まる」

「は、はい!」


遥斗は慌てて怜士の方へ向かう。

去り際、怜士は主任を見た。


「橘は、うちの部下です」


静かな声だった。

だが、はっきり線を引く声だった。


「本人の意思を確認せず、適性を決めつけないでいただきたい」


主任が言葉に詰まる。

遥斗は胸が熱くなった。


守られた。


でもそれは、弱いから庇われたのではない。

自分の努力を、勝手に軽く扱うなと怒ってくれたのだ。


****


夜。

非常階段。


大きな商談でミスをした遥斗は、一人で膝を抱えていた。

先方に迷惑をかけた。


怜士の顔にも泥を塗った。

自分なんかが、同じ部署にいていいのだろうか。


「……っ」


涙がこぼれそうになる。

その時、扉が開いた。


「橘」


怜士だった。

遥斗は慌てて立とうとする。


「すみません、部長。俺、また迷惑を」

「座っていろ」


怜士は隣にしゃがみ、遥斗の額へ手を伸ばした。


「熱がある」

「え?」


「昨日も遅くまで残っていただろ」


遥斗は目を見開いた。


見られていた。

また。


「……俺、駄目ですね」

「何が」


「雄女だからとか、新人だからとか、そういうふうに見られたくなくて。ちゃんとしなきゃって思うのに、結局迷惑ばっかりで」


怜士の目がわずかに険しくなった。


「橘」

「はい」


「自分を下げるな」


低い声だった。


「お前のミスは叱る。だが、お前自身を粗末に扱うことは許さない」


遥斗の喉が震える。


「部長……」

「俺が見てきた橘遥斗は、失敗しても逃げない。叱られても次の資料を出す。倒れそうでも笑って出社する」


怜士は少し苦しそうに息を吐いた。


「だからこそ、腹が立つ」

「え?」


「お前が自分を一番軽く扱っていることに」


遥斗の目から、涙が落ちた。

怜士はそれを見て、初めて少しだけ表情を崩した。


「遥斗」


仕事中ではない声だった。


遥斗の名前を、下の名前で呼んだ。

それだけで、胸の奥が震える。


「俺は、お前を部下として見ている」

「……はい」


「それだけで済めばよかった」


遥斗は息を止めた。

怜士の手が、遥斗の頬へ触れる。


雨の日よりも、ずっと近い距離だった。


「お前が他部署に取られるのが嫌だった」

「部長」


「お前が無理をして倒れるのも嫌だ」


怜士の声が低くなる。


「俺の知らないところで、お前が自分を削るのが嫌だ」


遥斗は、もう視線を逸らせなかった。


「好きだ、遥斗」


静かな告白だった。

でも、今までで一番、感情が見えた。


「お前がいなければ、俺は仕事だけで十分だった」


怜士は苦しそうに笑う。


「だが今は違う」


遥斗の涙が止まらない。


「部長は、ずるいです」

「知ってる」


「そんな言い方されたら、好きになるじゃないですか」


怜士が、初めて本当に余裕なく笑った。


「もう手遅れだと助かる」


遥斗は泣きながら笑ってしまった。

そして、小さく頷いた。


「……手遅れです」


その瞬間、怜士は遥斗を抱き締めた。


上司としてではなく。

完璧な男としてでもなく。


初めて、一人の男として。


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