三朝帰寧(三日目の里帰り)
結婚三日目は、新婦の里帰りの日である。
これは気軽な里帰りなどではなく、婚礼の儀式の一つである。多くの贈り物とともに新郎も同行し、新婦の男性親族に品定めをされるのだ。
しかし、花家は稀有な地坤の一族である。そもそも地坤は数が少なく、さらに美形の家系として有名な花家の地坤は引く手あまたで、男女を問わず香妻として嫁いでいく。
つまり、家に残る男性親族は当主しかいない。
里帰りの朝──景家を訪れたのは、当主の花采琳である。
当主の黒漆の輿と、新婦を乗せる朱塗りの輿が門前に止まり、正装で到着を待っていた景廷毅は義兄の下輿を見守った。
花家の従者が幕を巻き上げ、優雅に裾を捌きながら、花采琳は軽やかに降り立つ。
白玉の小冠で髪をまとめ、身にまとうのは月白色の襴衫。薄墨を流したような淡い水色の絹は朝の光を艶やかに弾き、透き通るような肌を際立たせる。玉の装飾の付いた黒革帯には玉佩と香嚢が下がり、儒医らしく清涼な蘇合香が香る。
きりりと整った眉は蘭の葉のようにしなやかな曲線を描いており、涼やかな瞳は俗世の欲など一切映さぬかのように澄み切っている。鼻筋は端正に通って、かすかに結ばれた唇は薄紅色の蘭の花弁を思わせるほど柔らかだ。
浮世離れした淡い色彩の麗人に、景家の家僕たちは度肝を抜かれた。
「せ、仙女のような美人だな……」
「魂が抜かれるようだ……」
「冠礼前の少夫人と並んだところを見たことがあるが、よく似た兄弟だ。弟の方が線が柔かくて愛嬌があるな、子犬っぽくて」
小声の感嘆は耳に入っていたが、この程度の賛辞など日常茶飯事の麗人は気に留めることもない。
義弟に先導され、客間で景惟清に挨拶するまで、花采琳は平常心を保っていた。朝廷の重鎮たる吏部尚書にも臆することなく、指先まで気品に満ちた完璧な拝礼を捧げ、景家の繁栄を寿ぎもした。
「私は十分、あなたの面子を立てましたよね、景兄」
新婚夫婦とともに花家へ帰り、祠堂での拝礼を済ませて、今は景廷毅と客間に二人。
迎えに来た次兄の顔を見た途端、涙ぐんだ弟の姿に、婚家の人々の前では我慢していた花采琳の心中は、大荒れに荒れている。
「阿蓉に何をしたんです。たった二日で実家が恋しくなるほど、あの子に酷い仕打ちでも?」
「まさか。たった二日で実家が恋しくなるほど、愛されて育ったからだとは思わないのか」
新郎を迎えて一族総出の宴──とはいかず、歓談しながら厳しく新郎の品定めをする男性親族も、花家は当主だけである。
普通新郎は、大家族なら数十名の相手をし、酔い潰されることも覚悟しなければならない。その点、景廷毅の敵は圧倒的に少ないが、一対一で過ごすのは一対多よりも圧が鋭い。しかもその「一」が一騎当千の強者、花采琳であれば尚更である。
花采蓉を幼名で呼ぶ、数少ない身内の一人。
義弟であり、二歳年長の学友でもあった景廷毅の釈明するような言葉を、花家当主はけんもほろろに切り捨てた。
「それは当然考慮済みです。問題なのは、この結婚のせいで、我々はすっかりあの子の信用を失っているという事実──可愛い顔をして、あれでなかなか頑固なのでね。普段が素直な分、一度臍を曲げると、こちらが折れない限り機嫌を直しません」
「……そうなのか」
「泣くなど論外」
語り口は簡潔で、すぱっと切れ味抜群である。輿に乗っての帰路、静かに舌刀の刃を研いでいたことが窺える。
「花家に着くなり抱きつかれて甘えられて、満足そうにしていたじゃないか」
「嫉妬は結構。この兄に甘えたくならない弟など、この世のどこにいるというんです」
もし兄というものに等級があれば、自分は満場一致の特等だ──と言わんばかりの答え。
景廷毅は、無言の微笑で応じた。
「……残念ながら、私はもう、景哥と呼んで親しんではもらえないようだ。こうなることは覚悟していたが、あの子に嫌われるのは予想していたよりきついな」
「それでもあなたは伴侶を手に入れた。悔やむことなどないでしょう。──結局私は、大切な弟を奪われてしまった。嫌がる阿蓉を嫁がせることでしか、守れなかった」
自嘲の言葉には、義弟に対する配慮と本音が包含されている。
「天乾に奪われた」とは言わないあたりは自制が効いているが、「嫌がる」と敢えて言うところに針が潜む。今もこの状況に納得しておらず、腹に据えかねていることがありありと見て取れる。
それでも二人は、この結婚を進めた共犯者である。花采蓉の怒りと悲嘆を、何一つ言い訳せず受けとめる義務があった。
「この結婚は、すでに陛下から祝いのお言葉を賜っている。その慶事を覆すことは、誰にもできない。芳修は私と父が──景家が必ず守る。──ただ、涙の理由はあの子に聞いてくれ。それで許せないというなら、後日改めて出頭しよう。また気が済むように殴ればいい」
「話が早いのは好きですよ」
口元を少しゆるめるだけの、おざなりの微笑みを作ると、花采琳は酒杯を傾けた。
その視線が、広間の入口付近に並べられた贈り物の山に向けられる。すべて、香妻として嫁いだ親族とその夫からのものである
香妻は、側妻ではないが正妻でもなく、婚家の奥向きの主人ではない。正妻のように、夫と子供を伴って新婦里帰りの祝いに参加することも、一族の絆と、新たな親族との縁を深めることも許されない。
花家が許さないのではなく、正妻以外の妻が公の場に出るのは、礼節に反するからである。
跡取りの天乾を産む妻として尊ばれても、屋敷の奥深くで夫に仕えるだけの存在──弟だけは、そんな惨めな境遇に落としたくない。
だからこそ花采琳は、弟の求婚者に、正妻として迎えることを絶対条件として突きつけた。
香妻になってしまえば、天乾の夫の所有物として扱われる。目の前に並ぶ、これ見よがしに豪華な贈り物も、将来の宰相候補と目される新郎に顔を売りたい夫たちの意図が透けて見える。添えられた目録を検めたところ、新婦への贈り物なのに、新郎向けのものが半分以上を占めていたのだ。
新婦の父が、隠居の身となり僻地に送られ、この場にいないのも。
新婦の長兄とその妻が、無理矢理仲を引き裂かれ、息子を残して今この場にいないのも。
かつての花采琳が正妻であれば、子を産めなくても、起きるはずのないことだった。
苛立ちと自責の念を、この上なく麗しい顔で包み隠し、花采琳は苦いだけの祝い酒を立て続けに乾した。
「阿蓉を守ること、そして《《あの件》》を知らせないこと。この誓いを、何があってもお忘れなきよう。──さて。私は内院へ行きますから、後はごゆっくり。暇潰しに目録でもどうぞ」
主人の目配せに、従者が景廷毅の前に目録の積まれた盆を置いた。
贈り物には、前途洋々たる新郎の威光にあやかりたい取引先や、近所からのものも含まれている。
「中には本当に阿蓉のことを思って贈ってくださった方もいますから、当ててみてください。あの子の真の味方です、今後のお付き合いは手厚くお願いしますよ」
「上賓である新郎を、一人放っていくつもりか」
「最上賓である新婦をもてなしに行くのですが、何か?」
やはり切れ味は鋭い。そして、優先順位に私情を挟むことに躊躇がない。
苦笑で送り出すしかない景廷毅に、花采琳は嫣然と微笑みをこぼす。そして、左手を上に恭しく拱手すると、そのまま流れるように深く一礼した。
その指先の角度、腰の落とし方の優雅さは、宮廷の礼儀作法を完璧に備えた者のそれだった。
内院の居間から、久しぶりに明るい笑い声が聞こえてくる。
弾むようなそれは、花采琳の心を軽く、明るくした。廊下から中を覗くと、弟と甥が仲良く、きらびやかな小旗に彩られた大きな蒸し菓子を囲んでいる。重陽の節句に食べる菓子、重陽糕である。
棗の赤、山梔子の黄、米粉の白。
三色の層が三回繰り返された九層の断面は、その美しさもさることながら、縁起の良さでも見る者の感嘆を誘う。陽の極数、九が重なる九月九日──重陽を具現化したような花家自慢の重陽糕は、その美味でも知られる。
赤の生地は、細かく挽いた干し棗と黒砂糖で、色とコクを加えたもの。
黄の生地は、山梔子で色付けし、蜂蜜のまろやかな甘みを加える。
白の生地は、隠し味の塩のみを加え、他の二色の甘さと色合いを引き立てる。
この三色の米粉の生地をそぼろ状にし、砕いた栗と松の実とともに、空気を含ませながら型に撒いて、薄い層を作る。軽く蒸して、色が混ざらないように表面を固め、平らに次の色を重ねていく。ふんわりと九層を蒸し上げた一番上には、彩りの柘榴と羊の飾り、そして五色の彩旗。
重陽には、高いところに登って厄を払う、登高という風習がある。高と糕は同じ音であるため、山の頂を象徴する旗と、層を成す重陽糕には、邪気払いと運気上昇の願いも込められている──が、子供には謂れなどどうでもよく、特別な日の待ちきれないお楽しみなのである。
「もっと大きく切って、三叔叔!」
「好物だからといって、重陽糕ばかり食べてはだめだよ、阿月。他のご馳走が入らなくなるよ」
花家の跡取りである阿月は、九歳になる。
十八歳の若き叔父は、年長者らしく窘めているが、その顔は甥と同じようにほころんでいる。二人とも、年に一度しか食べられない重陽糕が大好物なのだ。
食べ盛りの子供たちの旺盛な食欲に、花采琳は目を細めた。
「三叔叔の言う通りだ。蒸し直して明日も楽しめるのだから、今は少しにしておきなさい。阿蓉もだよ。景兄に出した残りは持たせてあげるから、ゆっくりお食べ。尚書公夫妻にも小さいものを別に用意してあるから、お持ちしなさい」
「……ありがとう、二哥」
小声で礼を言う弟に、花采琳は頷きながら内心で胸を撫で下ろす。景家の求婚を撤回しないと悟ってから、三月も口をきいてくれなかった弟なのだ。
頑固な末っ子は、普段ならこの程度のことで態度を軟化させることはない。つまりそれほど、婚礼と婚家での生活が心細かったのだろう。
保護者の心配と安堵をよそに、年少組はにぎやかに食事を始めている。広い屋敷に、身内は上の叔父と二人だけになってしまった甥も、年が近く兄のような叔父が戻ってうれしそうだ。
「それで? 新しいお家のごはんは美味しいの?」
「勿論花家が一番だけど、美味しいよ。僕が好きだから、蜜煮をたくさん出してくれるんだ」
「いいなあ! もしかして金柑も?」
「金柑と、棗と山査子。あと梨も」
「いいな、いいな!」
食事が口に合うのは何よりである。食べなければ、人生は始まらない。
婚家で大切にされているようなのも、何よりである。しかし、甘いものはほどほどにしてもらわなければ、と花采琳は心の手帖に書き付ける。
興味津々で屈託のない阿月のおかげで、景家での生活の表向きなこともほぼ把握でき、手帖の余白を埋めていく。
久しぶりに会話の絶えない家族の団欒は、瞬く間に過ぎた。
「……三叔叔、次はいつ帰ってくるの?」
乳母に付き添われて自室に退がる前に、阿月が下の叔父に縋りつく。
心細そうな声音と、困り顔で言葉に詰まる弟の姿に、花采琳は立ち上がって甥の肩に手を置いた。
「外院の義叔父上に聞いておいで。阿月の大好きな三叔叔に、月に何度会えるのか。訪ねてもいいか。返答次第では、この二叔が、里帰りした弟との歓談を中断して出向くことになる、とお伝えしてくれるかい。──きちんと、ご挨拶できるね?」
「はいっ。三叔叔、またね!」
勝利を確信した明るさで、阿月は居間を出ていった。
途端に静かになった室内は、嫁いだ弟と嫁がせた兄、二人だけになる。花采琳は隣に椅子を引き寄せ、膝を突き合わせる距離で弟と向き合った。
「……阿月が元気そうでよかった。一昨日は泣きじゃくっていたから、心配していたんだ」
「私は今も心配しているよ」
誰を、とは言わずに、弟の顔を見つめる。
次兄の顔を見た途端、涙を浮かべたのは何故なのか。
離れて暮らしても、花家の絆は変わらない。いつでも頼れる兄がいることを、いつまでも支え合う家族であることを、忘れてほしくない。
思いのこもった兄の声に導かれるように、末っ子がみるみる目を潤ませた。そのあまりの愛らしさに、花采琳は心の中で呻く。
儒医の花家の三兄弟は、次男の滴るような麗容が広く知られており、それ目当ての患者もいるほどだが、当人の評価は異なる。
ふっくらとほころんだ桃の蕾のように可憐で、頬も耳朶もいかにも柔かく初々しい。見る者の庇護欲を掻き立てずにはおれない末っ子の愛らしさに勝るものはない、と断言して憚らない。兄二人が、何を犠牲にしても守りたいと願う、尊いものだ。
睫毛で涙を弾きながらの話をまとめると、景家には、その存在を秘された男児がおり、昨日の朝、偶然出会ったのだという。
「景兄の隠し子ではないだろうね」
「違うよっ」
軽口をムキになって否定するのは、もう夫に絆されたのか、別の理由か──注意深く観察する花采琳だが、勿論、その子供の素性は知っていた。
婚約前に交わした身上書によれば、景廷毅には異母兄がおり、その彼に庶子がいるはずである。母親は亡くなった側妻と記されていたが、実際は外に囲った出自の卑しい女だという。
正妻を娶らず子供まで儲けたので、世間体はすこぶる悪い。そのためか、彼は一族の祖地に送られ、家廟を守っていると聞く。その息子が、士大夫の名門・景家の汚点として隠されていても、不思議ではない。
花家は、老舗の薬舗も経営している。薬舗は、あらゆる情報の集散地である。身上書に書かれていない、名家が隠そうとする一族の恥も、この程度のことなら花家当主の手の内にあった。
「阿慎といってね。僕を、顔も覚えてないお父さんと間違えたんだ。虐げられている訳ではなくて、義母上が養育されているんだって。大事にされてはいるみたいだけど、阿慎は……まだ四つなんだ」
親のいない、四つの男児。
広い屋敷に取り残された子供。
弟は、最も痛い泣きどころを突かれたのだと悟り、花采琳は廊下に控える従者を呼んだ。
「急ぎで悪いが、二寸ほどの重陽糕を作るように、厨房に伝えてくれ。子供が食べやすいように、栗と松の実は細かく砕いて。彩旗は……別に包んでくれ。自分で好きな色を挿したいだろうから」
突然の主人の指示に、慌しく従者が退がる。手間の掛かる重陽糕だが、手のひらに乗るような小さなものだ。新婚夫婦が帰路につくまでには蒸し上がるだろう。
この短い間に、再び涙目になってしまった弟に、花采琳はやさしく声を掛けた。
「泣き虫になったね」
「……二哥のせいだから」
拗ねた口ぶりでも、兄に感謝していることは十分に伝わる。
両親を失った五年前、阿月はたった四つだった。
情緒が安定せず、おねしょを繰り返すようになった阿月を、かまわず毎夜自分の床で抱き締めて眠ったのは、十三歳の叔父だった。
多感な時期に、頼もしい長兄と慕っていた義姉を失い、父もいなくなり、自身もつらかったはずの少年の目に映ったのは、泣き疲れて眠る、四つの子供の姿をした悲憤と──未来。
彼にとって幼い子供とは、絶対に守らねばならないものなのだ。
「──景家で、嫌な思いをしているわけではないのだね」
「義父上も義母上もやさしくしてくださるよ。義母上はきりりとしていて、でも情に厚い方だと思う。義父上は、外院の蔵書楼に行ってもいいとおっしゃったの。それに、お二人はとても素敵なご夫婦でね──」
水を向けられ、すらすらと答える弟の表情は柔かく、嘘をついている顔ではない。
勿論、尚書公夫妻の人柄についても、花采琳は薬舗の情報網を使って事前に調べている。特に懸念点はなく、だからこそ送り出したのだが、本人の口から聞いて得る安堵とは比べものにならない。
しかし話を聞くうちに、新たな懸念が浮上していた。肝心の夫の話が、一切出てこないのである。
「景大人は……今も僕を芳修と字で呼ぶの。そんな天乾、他もいるのかな?」
夫に関する言及は、それのみ。
返事を濁しながら、「景大人」と花采琳は心の手帖に大きく書き付けた。
声に嫌悪は感じられないから、景廷毅は大きな失態は犯していないようである。しかし、愛されている次兄とは異なり、この結婚という裏切りを、そう簡単に許してはもらえないのだろう。
少々の申し訳なさと、大部分の「当然である」という鼻息を込めて、花采琳は弟夫婦を見送ることになった。
妻は輿に、騎乗した夫はその傍らを守るように。
その後ろを、贈り物の箱を担いだ従者たちが行列を作って続く。
蒸し上がったばかりの重陽糕を納めた食盒は、輿の中、膝の上に大事そうに抱えられて運ばれていった。
子供が楽しめるように工夫した、重陽糕。
特にきらびやかに飾り付けたものが、節句の前日──つまり婚礼の二日前にも、あるところへ届けられていた。
四歳の男児。
顔を見たことも──おそらく見ることもないもう一人の甥を思い、花采琳は睫毛を伏せる。
その母──子を産めず実家に戻された二弟のせいで、入れ替えるように香妻として召された長兄は、三弟の結婚に何を思っているだろう。




