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滴花譜  作者: 音羽夏生
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洞房花燭夜(新婚初夜)

 この時代、婚礼衣装は俗に「紅男緑女」と言われる。

 花婿は、燃えるような緋色の円領袍(えんりょうほう)

 花嫁は、深い森を思わせる深青色の大袖(だいしゅう)

 その上で、今日の花婿の出立ちは、一目で名家出身の上級官吏であることが見て取れる。

 腰に締める革帯は、恩賜の金帯。右腰に下がる徽章の魚袋(ぎょたい)は銀で、この若さで花婿が五品の高官であることを示している。

 左腰では、歩に合わせて羊脂白玉の玉佩(ぎょくはい)が澄んだ音を立て、その優雅な様を遠巻きに眺める近所の男衆は、ひそひそと囁き合う。

「見ろよ、あの花婿の腰回り。白玉の輝きだけで、御街(ユージエ)にお屋敷が買えるそうな」

「代々の家宝だとか。しかも目元の涼やかな、大層な美男子じゃないか。顔も家柄も才能も天子様のご寵愛も、すべてを手に入れた男がいるものだな……」

 金門の才子と呼ばれるに相応しい、若き天才官吏の名は(ジン)廷毅(ティンイー)(あざな)子霄(ズーシャオ)という。

 前途洋々、堂々たる花婿の対の花嫁は、──絢爛豪華な衣装と重い花釵冠(かさいかん)に押し潰されそうになっていた。

(一生結婚しなくていい、ずっと花家(うち)にいなさいって、二(にいさま)は言っていたのに……)

 突然降って湧いたこの縁談に、(ホア)采蓉(ツァイロン)は徹底的に抗ってきた。当主である次兄は自分に甘いから、拗ねたり泣いたり怒ったり、さらには食を絶ってまで抗議した。

 しかしどんなに変わり身を(なじ)っても、当主の決定は絶対である。

 士大夫(したいふ)の名家と儒医(じゅい)の名家の縁談はとんとん拍子に進み、(ホア)采蓉(ツァイロン)はこうして嫌々ながらの花嫁となり、菊花の咲き誇る重陽の頃──今日の日を迎えた。

 結婚などしなくていいと、これまで縁談を蹴散らしてくれていた二(にいさま)にも、その学友で、値踏みすることなく一人の男子として扱ってくれた──そう思い込んでいた(ジン)(にいさま)にも裏切られたと嘆き、仲直りする気にもなれないまま。

(やっぱり天乾(アルファ)は、自分の子を産む地坤(オメガ)が欲しいだけなんだ。……二(にいさま)は誰よりもわかっているはずなのに……)

 この世には、男女とは別の第二の性がある。

 天乾(アルファ)は、社会の支配層に分布する優等種。

 地坤(オメガ)は、(かぐわ)しい信香(フェロモン)を放ち天乾(アルファ)の苗床となる希少種。

 そのどちらでもない平庸(ベータ)が人口の殆どを占め、歯車となって世の中を支えている。

 大宋(ダーソン)京城(みやこ)開封(カイフェン)でその名を知らぬ者はない地坤(オメガ)の名家、(ホア)家。

 その三男坊は、可憐な容貌と信香(フェロモン)を桃の花に喩えられる。

 屈託のない笑顔が春を呼ぶと愛されて育った末っ子は、その(おさな)い少年時代の終わりを、信頼する二人の変節で知った。

 失意の花嫁を真紅の花輿に隠し、楽団を伴った賑やかな花嫁行列は、途切れることなく朱塗りに金彩の嫁荷(よめに)箱を連ね、延々婚家まで続いていく──。




 婚という字の通り、婚礼の儀は(くれがた)に始まる。

 花嫁行列は紅灯籠と松明で昼のように照らされ、つつがなく婚家に到着した。

 花輿からの下輿に始まる数々の儀式を経て、(ホア)采蓉(ツァイロン)は今、寝室に一人である。

 風に乗って披露宴の賑わいがかすかに届くが、花嫁はその様子を窺うことも許されない。人形のように行儀よく架子床(かししょう)(天蓋付きの寝台)に腰掛け、宴が果てるのを待つ──そういう仕来(しきた)りなのである。

 緊張と空腹で、(ホア)采蓉(ツァイロン)は疲労困憊していた。

 儀式は夕方からでも、支度は朝から始まっている。もう深夜だというのに、朝食の粥以外に口に入れたのは、ほんの三口のご飯と羊肉、そして唇を湿らせる程度の酒のみ。夫婦で同じ肉を分け合い、瓢箪を割った器で酒を飲む儀式── 同牢合巹(どうろうごうきん)で口にしただけである。

 絶え間ない祝福と笑い声に包まれての和やかな儀式とはいえ、大勢に見られてのこと。女性親族による新婦品定めの場でもあり、緊張と重圧のあまり、味もわからなかった。

(披露宴には、礬楼(ファンロウ)の料理人を特別に()ぶって言ってた。旋炙羊肉(シュエンジーヤンロウ)羊頭簽(ヤントウチェン)……食べたかったな)

 旋炙羊肉(シュエンジーヤンロウ)は、回転させながら塊肉を炙る、豪快で香ばしい一品。

 羊頭簽(ヤントウチェン)は、細く刻んだ頬肉に下味を付け、薄い皮で包んだ棒状の揚げ物。非常に手間が掛かるため、高級な宴席でしかお目に掛かれない。

 礬楼(ファンロウ)は、今が旬の洗手蟹( シーショウシエ)で有名だが、羊肉料理も絶品なのだ。開封(カイフェン)屈指の規模と格式を誇る高級酒楼だから、質素倹約を旨とする(ホア)家では、祝い事でもない限りなかなか食べられない。

 それでも最後に行ったのは、わりと最近の百日ほど前。人生の大きな節目──冠礼(かんれい)の後である。

 子供から一人前の男になる、大事な儀式の加冠役を引き受けてくれたのは、三十手前の若さで従五品に進んだ(ジン)廷毅(ティンイー)だった。

 二十歳で科挙に合格しただけでも歴史に名が残る快挙なのに、その上、第一甲第三位という上位に入った偉人である。星の数ほどいる受験生の、ほんの上澄みの一滴を、さらに蒸留したような稀有な才子である。

 今上の覚えめでたき天才官吏が加冠役となることに、若さを理由に反対する者はいなかった。

 (ホア)采蓉(ツァイロン)にとっては、幼い頃から知る兄たちの学友であり、時折勉強を見てくれる(ジン)(にいさま)である。苦手な天乾(アルファ)でも(ジン)(にいさま)だけは特別だから、加冠役に決まった時はうれしかった。

 それに冠礼の翌日、次兄と二人で礬楼(ファンロウ)に連れ出され、改めて成人のお祝いをしてもらったのだ。

 あの夜は、大好きな羊をお腹いっぱい食べて、太っ腹な(ジン)(にいさま)礬楼(ファンロウ)自慢の銘酒「眉寿(メイショウ)」も頼んでくれて、本当に楽しかった。爹爹(とうさま)も大(にいさま)もいない冠礼でも、心から祝ってくれる二人がいるから寂しくはない。──そう思っていたのに。

(二(にいさま)と結託して、冠礼の前から縁談を進めていたなんて。僕はなりたくもない新婦になってお腹を空かせているのに、自分だけご馳走を食べて、みんなと楽しんでいるなんて!)

 くうぅぅ、と空きっ腹が切ない音を立てる。

 十八歳の健康な食欲は正直である。意に沿わない結婚に腹を立てても、目前に迫る初夜に怯えていても、腹は減る。──というよりむしろ、目先の空腹と怒りにしがみついていないと、すべてを振り捨てて逃げ帰ってしまいそうなのだ。

 それほど(ホア)采蓉(ツァイロン)は、地坤(オメガ)として天乾(アルファ)に嫁ぎたくなかった。

 次兄を支え、二人で幼い甥を守り、代々続く医家・(ホア)家の儒医として生きていきたかった。

「──芳修(ファンシウ)

 冠礼で成人男子となった証に授けられる、もう一つの名──(あざな)

 名付け親でもある加冠役は、少年の父や師にも並ぶ、人生の精神的な導き手となる。

 その尊敬すべき先導者に、男としての人生を断たれ、地坤(オメガ)として屋敷の奥で生きる道を敷かれた。信頼する相手だっただけに、(ジン)廷毅(ティンイー)との結婚は、他の天乾(アルファ)に嫁ぐよりはるかに(ホア)采蓉(ツァイロン)を打ちのめした。

 冠礼では昂揚を、その数日後には絶望を()んだ(あざな)は、今となっては無用の長物だった。

 五品官の妻になれば、外では(ジン)少夫人と呼ばれることになる。誰も一人の男として扱わないし、(あざな)で呼ぶこともない。──愛玩動物を呼ぶように、戸口に立つ男が口にする以外は。

芳修(ファンシウ)

 これ以上気づかないふりもできず、(ホア)采蓉(ツァイロン)は団扇でさっと顔を隠した。

 薄絹の張られたそれは、蓮花の浮かぶ池を泳ぐ鴛鴦(おしどり)が刺繍され、花嫁が持つのに相応しい。夫婦円満、子孫繁栄を象徴する絵柄の団扇を、どんな思いで次兄は用意したのか──華やかな刺繍が目に入るたびに、気持ちは塞ぐ。

「もうすぐ友人たちが鬧洞房(新婚のひやかし)に来る。大概酔い潰してきたから長引かないはずだが、もう少し辛抱してくれ」

「……はい」

 夫となる男に、小さな声で答える。

 無視したいのは山々だが、返事の代わりに頷くと、重い冠のせいで首が折れそうなのだ。

「上手くあしらって、早く切り上げさせよう。そうしたら冠を外してあげるから」

「はい」

 こればかりは素直に即答した。

 花嫁の被る花釵冠(かさいかん)は、豪奢な見た目相応の重量がある。

 針金と竹を組んで絹を張った土台には、金細工の花園に翡翠が遊ぶ。隙間を埋めるように玉と真珠がふんだんにあしらわれ、大きさは頭の倍ほどにもなる。左右には紅玉が簾のように幾重にも垂れ下がり、花嫁の動きに合わせてシャラシャラと肩を撫でる。

 その重石のような拷問器具──身につける側からしたら装身具の優雅さなどない──を、高く結い上げた髪に嵌め込み、花の(かんざし)で固定するのだ。

 (ジン)廷毅(ティンイー)の言葉通り、しばらくして、酔っ払った男たちが、披露宴の広間から寝室に面する中庭へなだれ込んできた。

 これは酔客の狼藉ではなく、鬧洞房(新婚のひやかし)というれっきとした婚礼の儀式の一つである。外から寝室の新郎新婦を囃し立て、酒を勧めては騒ぎ、賑やかに邪気を祓う。二人の前途を祝ってのことだから、どれほど疲れていても、新郎新婦は追い払うことができない。

 延々朝方まで続くこともある鬧洞房(新婚のひやかし)だが、(ジン)廷毅(ティンイー)は抜かりなく先手を打っていた。たんまり飲まされ千鳥足でやって来た男たちは、威勢よく新婚夫婦を囃し立ててはその場で眠り込みそうになり、一人また一人と力自慢の侍女に引きずられていく。

 半刻も経たないうちに、寝室には静けさが戻った。

 主人に命じられた侍女たちが、(ホア)采蓉(ツァイロン)を重い婚礼衣装から解放していく。肌着であり寝間着にもなる内衣となり、暖かい長衣を羽織ると、その身軽さにほっと人心地ついた。

 方卓の椅子を勧められ、腰掛ける。すかさず薬草の香る足湯が用意される。

 この季節、日が落ちると急に冷え込むようになり、また初めての場所、慣れない衣装、そして座りっぱなしの長い待ち時間のせいで、(ホア)采蓉(ツァイロン)の体は凝り固まっていた。

 薬湯に浸かった足を揉みほぐされ、その心地好さについつい長いため息が洩れる。しかし頭には、まだ拷問器具が載ったままである。

 早く外してもらおうと声を掛ける前に、

「私が外そう」

衝立の向こうで自身の着替えを終えた(ジン)廷毅(ティンイー)が、背後に立つ気配がした。

公子(わかさま)、本当に大丈夫でございますか? 私どもにお任せになればよろしいのに」

「私がやりたいのだ。壊さないように注意するから安心しなさい」

 途端に身を固くして拒絶を示す新妻を気にすることなく、(ジン)廷毅(ティンイー)は誰の手も借りずに(かんざし)を抜き取り、慎重に冠を外した。それだけではなく、複雑に結い上げられた髪を崩し、丁寧に櫛を入れていく。

 頭皮に触れる絶妙な力加減も足湯も、床入りを控える花嫁の緊張をゆるめることはできない。しかし、盆を手に現れた侍女の姿に、たちまち食い気がすべての感情を凌駕した。

 方卓に並べられた品に、(ホア)采蓉(ツァイロン)の目は釘付けになる。

「お腹が空いただろう、芳修(ファンシウ)。披露宴の料理は冷めているから、今はこれで我慢してくれ」

 青磁の碗の中で湯気を立てているのは、大好物の羊肉湯(ヤンロウタン)。澄んだ脂の浮いた湯面には、刻んだ生姜と葱がたっぷり載っている。

 添えられた焼餅(シャオビン)(平焼きパン)も、焼き立ての熱々だ。これを千切って、白濁した汁に浸して食べると、羊肉の濃厚な旨味がじゅわっと口いっぱいに広がる。それはもう口福の極みなのだ。

 (ホア)采蓉(ツァイロン)は早速、その口福に(あずか)った。熱い汁をたっぷり吸った焼餅(シャオビン)が腹に納まると、渇いた臓腑の形がわかるほどだ。体の芯に火が灯ったように感じられ、じわじわと滋養が染み込んでいく。

 今度は深く匙を入れて、大きな具を掬ってみる。煮込まれてほろほろになった塊肉の欠片かと思いきや、現れたのは腰子(腎臓)のぶつ切りだった。

── おいおい坊主、そんなもん食ってどうするんだ?  その年齢(とし)で、寝かせてもらえない相手でもいるのかい?

 屋台で頼んだら、店主の親父さんにニヤニヤ冷やかされること請け合いの、精力増強の品である。

(そんなものを、わざわざ入れたの……? それに──)

 羊肉湯(ヤンロウタン)には、臭み消しに大量の大蒜(にんにく)も煮込まれている。腰子だけではなく、羊肉も大蒜も、それに薬味の生姜も葱も、すべて精力を補う媚薬的な側面を持つ食材である。

 あからさまな意図を嗅ぎ取り、(ホア)采蓉(ツァイロン)はぎこちなく匙から手を離した。

「温かいうちに食べなさい。──もういいのなら下げさせて、私たちは最後の大仕事に取り掛かる頃合いなんだが」

「っ……食べます!」

 いやらしい!と心の中で罵る一方で、食べ物に罪はない、と言い訳をする。

 羊肉や大蒜が陽の性質を持っているのは、人間の思惑とは無縁の自然の(ことわり)である。──本人の意思とは関係なく、男の地坤(オメガ)が陰陽をその身に具えているように。

 再び匙を取り、黙々と食べ始めた新妻を、隣に腰掛けた(ジン)廷毅(ティンイー)は目を細めて見守る。

 新郎は披露宴で酔い潰されるものだが、涼やかな男ぶりも端整な佇まいも普段と変わらない。それでも一応醒酒湯(よいざまし)の碗を手に取り、秋の乾いた空気と酒に傷んだ喉を潤している。

「ようやくゆっくり、妻の顔を眺めることができる。こうして話をするのは、礬楼(ファンロウ)の祝宴以来だ。元気にしていたか、芳修(ファンシウ)

 婚礼までの間、新郎新婦が直接会うことは礼に反するため、厳格に制限される。だから顔を合わせるのは、冠礼の翌日──楽しかったあの夜以来である。

「……どうして(あざな)で呼ぶの」

「男」を「地坤(オメガ)の妻」に変えて、(あざな)で呼ばれる機会を奪ったくせに。

 その思いが、小さな呟きとなって口をついて出た。聞かせるつもりはなく、答えを求めての問いではない。

 (ホア)采蓉(ツァイロン)がよく知る天乾(アルファ)は、執着心が強く独占欲の塊で、囲い込んだ地坤(オメガ)を屋敷から一切出さない。その上、(あざな)ではなく名で呼んでいると伝え聞いた時には、憤りで耳まで熱くなった。

 名は(いみな)、つまり「忌み名」であり、生まれた時に授かる魂の名前である。非常に神聖なもので、軽々に呼ばれるものではない。ゆえに社会の一員となる成人時に(あざな)をもらい、以降は字で過ごすのである。

 成人男子を名で呼ぶのは、万民の父たる皇帝と、父母・祖父母のみ。それ以外の者に私的な場で呼ばれたなら、それは侮辱か、強い支配を意図してのことだ。

「どうしてって、もう大人だろう」

 囁くように洩らした一言を、(ジン)廷毅(ティンイー)は耳ざとく拾い上げた。穏やかに言い聞かせる口調は、勉強を見てもらっていた時と変わらない。

 あの夏の日、(ジン)家から派遣された媒酌人が(ホア)家を訪れ、求婚の意思を告げた時から、兄同然に慕っていた人とのやさしい関係は断ち切られた。

 婚礼までの百日、礼に従い遠ざけられ、一度も会えなかったのは幸いだった。もし会う機会があったなら、どんな罵詈雑言を投げつけていたかわからない。……その前にきっと、泣きながら翻意を乞うていた。──あなただけは裏切らないで、と。

「君の名は美しく、花のような姿にとても似合っていると思う。以前のように阿蓉(アーロン)と呼ぶのもいいが、成人男子には非礼に当たるだろう。子供ではないから、こうして妻に迎えられたのだし」

阿蓉(アーロン)」は、親しい者だけが呼ぶ幼名である。

 成人してもその名で呼ばれるのは、まだ未熟で(あざな)を持つのに相応しくないと告げられているのに等しい。

 そう呼ばれていたら、(ジン)廷毅(ティンイー)に対する感情はさらに硬化していただろう。

「それに何日も費やして、考え抜いた(あざな)だ。気に入ったと言ってくれたから、随分安堵したのだよ」

「……気に入っては、います」

 あの祝宴の夜に何度も伝えたことも、今では口にする心情が変わっている。

 学びを寿ぐ「芳修(ファンシウ)」という(あざな)を授かりうれしいと、大切にすると、もう素直に言うことはできない。嫁いだことで、成人男子の証である(あざな)は、封印されたも同然なのだから。

 つい声が湿っぽくなってしまい、悔しさと情けなさに、(ホア)采蓉(ツァイロン)は匙を碗に戻した。──ただし、殆ど完食している。

 民は食を以って天と為す──生きることは食べること。どんな不幸も、食欲には優先順位を譲るのである。

 そうして人心地がついたところで、改めて夫となる男を窺う。

(結婚することになるのなら、あんなことを言わなければよかった)

 (ホア)家の名に恥じない儒医になりたい。そして頼れる右腕として、二(にいさま)を支えたい。

 かつて頰を熱くしながら語った夢は、あなたのせいで潰えたのだ──そう詰りたい口を閉ざすのは、男としての矜持だ。しかし、何も感じていないように、すべてを押し殺して生きていくには、まだ消えていない親愛の情が邪魔をする。

 何より、天乾(アルファ)相手に無邪気に夢を語っていた過去の自分を、殴りたくてたまらない。

 絡み合った感情に身動きが取れず、きゅっと手を握り締めて口を噤む頑なさに、察するものがあったらしい。

 解きほぐすように(ジン)廷毅(ティンイー)は新妻の手を取り、両手で包み込んだ。

「閉じ込めるために、妻にしたわけではない。今日はもう遅いし、まだ大仕事が残っているから、この話はまたにしよう。でも今夜、これだけは伝えておきたい。──(ジン)廷毅(ティンイー)が、我が名と祖霊に懸けて誓う。何があろうと、(ホア)采蓉(ツァイロン)を守り抜くことを」

 (ホア)采蓉(ツァイロン)は震える。 

 (ジン)廷毅(ティンイー)は、「芳修(ファンシウ)」ではなく、名の「采蓉(ツァイロン)」に誓いを立てた。それは、彼が(ホア)采蓉(ツァイロン)の社会的な──男としての死を認め、「地坤(オメガ)の妻」として、その存在ごと自分の中に閉じ込めるという宣言に聞こえたからだ。

(名を、呼んだ……)

 閉じ込めるつもりはないなどと、結局はおためごかしに過ぎないのだ。舌の根も乾かぬうちに馬脚を現し、天乾(アルファ)の本音が透けて見えている。

 跡継ぎとなる天乾(アルファ)の子供が生まれるまで何度も孕まされ、正妻の座を与えられたからには家政も任されるのだろう。

 儒医となるべく励んできた勉強の継続も、研鑽のための外出も夢のまた夢──そうなるとわかっていて、二(にいさま)天乾(アルファ)の元に嫁がせたのだ。

 空になった器がぼやける。涙がこぼれ落ちそうになるのを、(ホア)采蓉(ツァイロン)は懸命に(こら)えた。

 苦行でしかない婚礼衣装と数々の儀式に耐えたのだ。待ち受ける初夜も、明日から続いていく妻の務めも、心に蓋をして耐えるだけだ。

 (ジン)廷毅(ティンイー)も碗を茶托に戻し、方卓の上が片付けられる。

 侍女に促され、新郎新婦は歯磨きと洗顔を済ませた。褥を念入りに整え、侍女たちは祝福の挨拶を述べてから、恭しく退出していく。

 しかし寝室の外には、不寝番の侍女が朝まで控える。滞りなく《《事》》が成ったことを確認し、家門の女主人である新郎の母に報告するためである。

 しんと静まり返る中、寝支度を整えた新郎新婦は架子床に上がり、向かい合って座った。

 (ジン)廷毅(ティンイー)が腕を伸ばして絹の(とばり)を下ろし、二人は優美な檻に閉じ込められる。──途端に、取り巻く空気がしっとりと濃密なものに変わる。

 室内は、新婚初夜を朝まで照らす一対の花燭に照らされ、帳の中もほのかに明るい。互いの表情も読み取れる薄明かりに、(ジン)廷毅(ティンイー)が小さく息をついた。

「そんなに怯えなくていい。怖いことはしないから。──おいで」

 妻の務めとわかっていても、(ホア)采蓉(ツァイロン)は動けなかった。

 男の地坤(オメガ)は、夫を持たなければ──つまり男に抱かれることなく女と番えば、稀ではあるが、平庸(ベータ)の夫婦のように子供を授かることもある。雄として機能するのである。

 しかし一度でも男に抱かれその精を受ければ、雄としての機能は衰え、子を孕むだけの性──雌となる。これから行われるのは、(ホア)采蓉(ツァイロン)という男を、雌にする儀式でもあるのだ。

 怖くないはずがない。

 一生嫁がず生きていくと決めていたのに、屈辱でないはずがない。

 それでも次兄がこの婚姻を認め、立派な支度とともに花嫁として送り出したなら、一人だけ逃げることはできなかった──二人の兄の人生を狂わせた、ホア家の地坤(オメガ)の宿命から。

 (ジン)廷毅(ティンイー)は、それ以上何も言わなかった。

 大きな手が背に回り、さらに頰へ添えられる。帳越しの薄明かりの中、二人の影が重なる。

 菊花の香る夜、──(ホア)采蓉(ツァイロン)は、夫の肌の熱さを知った。

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