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藍峯堂事件帖 ~犯罪は頁(ページ)の中に~  作者: 秋澄しえる
第2章「静止した街」

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第11話「静止した街(前編)」

 古びた柱時計が、重々しい音を立てて時を刻んでいる。


 カチ、カチ、カチ。


 その規則的なリズムだけが、張り詰めた藍峯堂の沈黙を支配していた。


 司は、時計を見上げた。


 長針と短針が作る角度は、午前八時五十二分を示している。


「…まだ、間に合う」


 司は弾かれたように立ち上がった。


 迷っている時間はない。推論が正しいなら、あと一時間あまりで、帝都の歴史が血で塗り替えられてしまう。


「咲さん、急いで着替えてくる。その間に、ここは…」


「任せて。片付けておくわ」


 咲は即座に応じ、手早く茶器をまとめ始めた。


 司は頷き、奥の居間へと走る。箪笥を開けたところで手が止まった。


(…待てよ)


 冷ややかな理性が、焦る心に待ったをかけた。


 目的地は警視庁庁舎。日本の警察の中枢だ。


 いくら緊急事態とはいえ、一般市民が正面から飛び込んで、「望楼に通せ」と言って通るだろうか。


 いや、門前払いが関の山だ。検問は厳重を極めているはずだ。関谷警部への連絡も、取り次いでもらえる保証はない。


「…しまった」


 司は呻いた。論理の穴だ。行動の実現性が欠落している。


「大丈夫よ」


 司の思考を呼んだとしか思えない咲の声が響いた。


 水音が止まり、咲が顔を出す。


「私が一緒なら、大丈夫」


「え?なぜ?」


「私の見た目は、どう見ても『外人』でしょ?見る人が見れば、英国のレディに見えるわ。この状況下で、誰しも遠巻きに見ているだけよ」


 司は目をぱちくりさせた。


「そうなの?」


「もう、そんなこと言うのは司さんだけよ」


 咲は可笑しそうにクスクスと笑った。


 彼女は自分の栗色の髪を指先で弄び、大きな鳶色の瞳を細めた。


「平均的な日本人男性よりも高い身長。色素の薄い髪と瞳。…少なくとも、純粋な日本人には見えないわ。連日、ワシントン会議の内容が新聞を賑わせ、日英同盟の先行きが危ぶまれているこのご時世よ。火中の栗をあえて拾おうとするお巡りさんが、いると思う?」


 司はハッとした。


 確かにそうだ。彼女の異人としての美貌は、今の帝都においては一種の「不可侵条約」のような威力を発揮する。


「…確かに、そうかもしれない」


「だからね、できれば司さんも洋装にしてほしいの。その方が、より確実だと思うわ。『英国高官と、その随行員』という役作りね」


「…そうだね。そうしよう」


 司は納得し、再び着替えに戻った。


 台所での片付けを終えた咲は、後ろ手で腰を探った。


 指先に触れる、冷たく硬質な金属の感触。


 『FNブローニングM1910』。


 ベルギー製の小型自動拳銃だ。子供の頃、護身用として父ウィリアムから買い与えられたものだった。


 咲は周囲を警戒しながら、素早くスライドを引いた。


 ジャキッ。


 薬室に弾が送り込まれる、乾いた金属音。


 弾倉を抜き、装弾数を確認する。


 最近は関谷警部と行動することが多く、遠慮して持ち歩かないこともあったが、今日は違う。


 相手は、姿なき「脚本家」が放った、おそらくは本職だ。


 使うべき時が来れば、躊躇はしない。


 咲は安全装置を確認し、スカートの腰裏に隠されたホルスターに銃を戻した。


 その時、襖が開く音がした。


「…お待たせ」


 戻ってきた司の姿を見て、咲は息を呑んだ。


「え…」


 いつもの、猫背で体を折りたたむようにしている書生姿は、そこにはなかった。


 糊の効いた純白のカッターシャツ。


 その上には、消炭色チャコールグレーの上質な三つ揃え(スリーピース)のスーツ。


 司の六尺を超える長身と長い手足が、仕立ての良い洋服に吸い付くように馴染んでいる。


 ボサボサだった髪はポマードで撫で付けられ、額を出した「摺付け(七三分けのオールバック)」になっていた。


 それは、銀幕から抜け出てきたかのような、知的な美丈夫の姿だった。


 だが、その美丈夫は、困り果てた顔で手元の布切れを見つめていた。


 手には同色の中折れ帽と、一本のネクタイ。


「咲さん、ごめん…。ネクタイの締め方が分からないんだ。…忘れちゃった」


 咲は吹き出しそうになるのを堪え、満面の笑みを浮かべた。


 やっぱり、中身はいつもの司さんだ。


「しょうがないなあ。じっとしててね」


 咲は司からネクタイを受け取ると、その胸元に歩み寄った。


 身長差があるため、司が少し屈む形になる。


 微かに、司から古い紙とインクの匂いがした。


 咲の白皙の指先が、流れるような手つきでネクタイを操る。


 大剣を回し、結び目を作り、通す。


 シュッ、という衣擦れの音と共に、司の喉元で、四節結びが形作られていく。


 二人の距離は近い。呼吸が触れ合うほどに。


 咲の真珠色のブラウスが、微かに擦れる音が静寂に響く。


 最後に、咲は司の襟を整え、胸元に銀のスティックピンを迷いなく刺した。


「よし。これで、私のホームズさんの完成」


 言い終わってから、咲は自分の言葉にハッとして、頬を赤く染めた。


 「私の」なんて、余計なことを。


 だが、司は気付いた様子もなく、鏡の中の自分を見て感心していた。


「咲さん、ありがとう。…なんだか、自分じゃないみたいだ」


「さ、さあ!これで準備は完了!急ぎましょう!」


 咲は照れ隠しのように司の背中を押し、二人は朝の冷気の中へと飛び出した。



◆◇◆◇◆



 午前九時二十五分。


 日比谷、帝国劇場。


 ルネサンス様式の優美な白亜の殿堂は、祝祭の朝を迎えて静かに佇んでいた。


 その二階テラス席。


 白いテーブルに肘をつき、一人の男が眼下の街を見下ろしていた。


 仕立ての良い漆黒のフロックコート。


 男は、銀製のライター「ダンヒル・ユニーク」を弄んでいる。


 カチン。


 親指のひと弾きで青い炎が灯り、高級紙巻きたばこ「ロスマンズ」の先端を赤く染める。


 紫煙が、日比谷の冬空へ優雅に吸い込まれていく。


「…ロンドンは、もう少し霧が深かったな。だが、今日の東京の視界も悪くない」


 男は独りごちると、テーブルの上のオペラグラスを手に取った。


 白蝶貝で装飾された最高級品。


 レンズの先には、皇居外苑の松林と、その向こうに広がる祝田町の交差点が見える。


 背後に、執事風の男が音もなく近づいた。


「宮様、そろそろ行きませんと…」


「…式典に出られる身分でもなし。こんなに早く行く必要はないよ」


 宮様と呼ばれた男は、振り返りもせずに答えた。


「今日の僕の役目はね、彼を控室で待つことさ。それよりも…彼が二重橋をどんな表情で渡るか、見ておきたいね」


 執事風の男は、主人の真意を測りかねたように一瞬沈黙したが、すぐに恭しく一礼して下がった。


 テラスには再び、男一人だけが残された。


 彼はオペラグラスをゆっくりと動かし、左手の方角――消防部第一分署の望楼へと焦点を合わせた。


「渡ることができれば…ね」


 その口元に、薄氷のような冷たい笑みが浮かんだ。



◆◇◆◇◆



 午前九時三十分。


 祝賀の日の丸が揺れ始めた日比谷の街角。


 警視庁庁舎の一角にある「消防部第一分署」は、交代時間の慌ただしさに包まれていた。


 真鍮製のポンプ車が磨かれ、馬房では馬がいななき、隊員たちが大声で指示を飛ばし合っている。


「真壁、今からか?」


「ああ。特等席で殿下の雄姿を拝見するさ」


「うらやましいが、見つめすぎて不敬ととられるなよ?」


「わかってるさ」


 警視庁消防部の消防手、真壁鉄蔵は、同僚たちの揶揄や快活な声を背中で受け流しながら、分署二階の奥にある狭く急な木製階段に足をかけた。


 一段登るごとに、一階の事務室から響く電話のベルや、男たちの喧騒が遠ざかっていく。


 空気の温度が下がる。


 二階の屋根を突き抜けるようにして設けられた、火の見櫓(望楼)。


 その狭い垂直梯子を登り切り、小さな木戸を頭で押し開けると、そこは地上から約七十尺(約二十一メートル)の、別世界だった。


 風の音しかしない。


 分署二階の屋根が足元に見える。


 隣接する赤煉瓦の警視庁本庁舎の屋根よりも、少しだけ高い位置。


 このわずかな「高さの優位」こそが、東京の煙を見張る消防官に与えられた聖域であった。


 昇ってきた階段部分を除くと、広さは三畳程度しかない。


 普段は二人一組で張り番をするが、今日この時は彼一人だった。そうなるよう、順番を調整したからだ。消防部の大部分の人員も、沿道の警備活動に駆り出されている現状では、無理からぬ配置だった。


 真壁は、望楼を囲む木製の手すりの陰に身を潜めた。


 持参した重厚な革鞄を床に置く。


 冬の斜光が、監視台の乾いた木の床を白く照らしている。


 カチリ。


 鞄の錠前を外す音が、階下の喧騒とは断絶されたこの空間に、冷酷に響いた。


 鞄を開く。


 中には、油紙に包まれた鈍色の金属部品が鎮座していた。


 彼は制服の袖で額の汗を拭うと、慣れた手つきで部品を取り出した。


 二分割された、モーゼルM98ライフル。ドイツ製の精密機械。


 銃身と機関部を噛み合わせ、ボルトを差し込む。


 ガチャン、チャキッ。


 滑らかな金属音が、音楽のように彼の指先を震わせる。


 その瞬間、彼の耳には階下の同僚たちの笑い声はもう届かなかった。


 聞こえるのは、三町半(約四百メートル)先の祝田門から吹き寄せる、湿った風の音と、自身の心臓の鼓動だけ。


 真壁は数年前まで陸軍に在籍しており、精鋭が集まる「教導団」で、三八式歩兵銃の特別射手として名を馳せていた男だ。除隊後、その沈着冷静な性格と視力を買われ、警視庁消防部へ入局していた。


 誰からも信頼される、無口で実直な男。それが表の顔。


 真壁は、ライフルに長筒の照準器を装着し、ゆっくりと構えた。


 レンズの奥に広がる円形の世界。


 祝田門の石垣。整列する同僚警官たちの緊張した表情。風に揺れる松の枝。


 すべてが、手のひらの上にあるように鮮明に見える。


「…皮肉なものだな」


 真壁は独りごちた。


「この望楼で最初に見る火が、自分の手元の火花とは…」


 準備は整った。あとは、その時を待つだけだ。

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