第12話「静止した街(後編)」
午前九時五十二分。
桜田門の正面、警視庁の正門前。
異様な緊張感に包まれたその場所に、場違いなほど優雅な足取りで、二人の人影が現れた。
先頭を行くのは、豪奢な鉄紺色のチェスターコートに身を包んだ、長身の美貌の女性。
その一歩後ろに従うのは、チャコールグレーのスーツを着こなした、知的な風貌の男。
二人の醸し出す雰囲気は、ただの通行人ではない。どこかの国の貴族か、高官のような威圧感があった。
咲の予言通り、遠巻きにする警官たちは誰一人として声をかけられない。
「見てはいけないもの」「関わってはいけない高貴な方々」として、無意識に視線を逸らしているのだ。
各所の検問も、その堂々たる歩調と、醸し出される特権階級の雰囲気だけで、無言のうちに突破してきた。
だが、消防部第一分署の入り口まであと数歩というところで、若い巡査が一人、意を決したように前に進み出た。
司より少し年下くらいだろうか。若さゆえの正義感が、空気を読めという周囲の無言の圧力を凌駕したのだ。
「し、失礼ですが、どのようなご用件でしょうか!」
巡査は直立不動で敬礼した。妙に軍隊式の敬礼が板についている。陸軍上がりの新米かもしれない。
その声は裏返り、膝が微かに震えている。
咲は立ち止まった。
彼女はゆっくりと首を回し、困惑して立ち塞がる巡査を、氷点下の視線で射抜いた。
いつもの愛嬌など微塵もない。そこにあるのは、絶対的な上位者の冷徹さだ。
"Have you not been informed by the Foreign Ministry?"
(外務省から聞いていないのか?)
栗色の髪を微かに揺らし、流暢な、しかし鞭のように峻烈な響きを持つ英語が叩きつけられる。
"I have business with the Fire Department. Step aside at once."
(消防部に用がある。どきたまえ)
巡査は凍りついた。
英語の意味は分からなくても、その口調に含まれる怒りと命令は肌で理解できたからだ。
背後に立つ司の、中折れ帽の鍔の下から覗く鋭い眼光も、巡査の萎縮に拍車をかけた。
巡査が呆然としている隙に、司が一歩進み出た。
彼は懐から手帳のようなものを取り出し、チラリと見せてから、諭すような日本語で補足した。
「…だそうだ。外務省の特命でね。祝田町周辺の火災監視体制の不備を、緊急に調べに来た。…君、通らせてもらうよ」
もっともらしい嘘だった。だが、この状況下では真実味を帯びる。
巡査は反射的に道を譲った。
二人が通り過ぎようとした瞬間、司は何かに気づいたように立ち止まり、振り返った。
「ああ、君。一つ頼まれてくれるか?」
「は、はい!」
「刑事部の関谷警部をご存知かな?彼に、消防部の望楼にすぐ来るように伝えてくれ」
「せ、関谷警部…ですか?」
「ああ。『例の件だ』と言えば分かる。急ぎだ。頼んだよ」
司はそれだけ言い残すと、咲の後を追って足早に分署へと入っていった。
重厚な木製の扉を押し開ける。
途端に、石炭ストーブの煙と、機械油の匂い、そして男たちの熱気が押し寄せてきた。
消防部第一分署の詰所だ。
待機している数十人の隊員たちの視線が、一斉に闖入者である二人へ突き刺さる。
「おい、ここは一般人の立ち入る場所じゃない。何用だ」
岩のように筋張った体躯の古参隊員が、入り口で仁王立ちになった。
殺気立った空気が二人を包む。
だが、咲は怯まない。
彼女は、困惑と敵意が混じった男の視線を、さも退屈そうに受け流した。
わざとらしく大きな溜息をつき、隣の司へ視線も向けずに、冷ややかな英語を投げる。
"Not again... Tsukasa, explain everything to them."
(またか…。司、説明してちょうだい)
言い終えると同時に、咲は、奥にある二階への階段を、顎で小さくしゃくって示した。
その仕草には、自分より下の階級の者に説明する労力すら惜しむような、徹底した特権意識が滲んでいる。
司は即座に呼応した。
中折れ帽の影から、冷徹な官僚然とした口調を紡ぎ出す。
懐から、革装の古い帳面――ただの古書の目録なのだが――を、さも重大な公文書のように取り出し、男の鼻先に突きつけた。
「…だそうだ。外務省からの通達が、現場まで届いていないようだが、我々には一刻の猶予もない」
司は男の目を真っ向から見据えた。
「内務省の委託で、旧式望楼の構造点検を任されている。こちらの、イギリス大使館から派遣された建築顧問のミス・サキが、祝田門への参内経路に死角や不備がないか、直々に最終確認をしたいと仰っているんだ」
男が気圧されて後ずさる。
司は畳み掛けた。
「君たち消防部の不手際で、もし殿下の御身に万が一のことがあれば、誰が責任を取るのかね?君か?それとも署長か?」
咲の傲慢な顎の指示と、司の責任という言葉が効いた。
官僚的な組織において、責任問題ほど恐ろしいものはない。
男たちは、この白皙の美貌を持つ異国の令嬢が、自分たちが口を利くことすら許されない高位の人物であると確信し、左右に道を開けた。
「…失礼いたしました。どうぞ、お通りを」
二人は迷いのない足取りで、消防部の奥へと進んだ。
磨き上げられた廊下に、司と咲の革製ブーツの音が冷たく響く。
背中には、男たちの視線が突き刺さっている。少しでも挙動不審な動きを見せれば、即座に取り押さえられるだろう。
だが、二人は一度も振り返らなかった。
二階へ上がると、廊下の突き当たりに、天井へと続く急な木製階段が見えた。
あれが、望楼への入り口だ。
咲の歩調が速まる。
司が壁の時計を確認した。
午前十時一分。
「…御料車は、もう出発したはずだ。間に合うか…いや」
「間に合わせる!」
咲が低く呟いた。
彼女は歩きながら、タイトスカートの腰の部分に手をかけ、グイッと引き上げた。
美しい脚のラインが露わになる。淑女の仮面を脱ぎ捨てた合図だ。
動きやすくするためなのはわかるが、後ろを歩いている司には目の毒だ。
「司さん、敵は一人だと思う!?」
「間違いなく一人だ。脚本家的にも、狙撃という手段からしても、複数はありえない」
「なら、上に行って人がいたら、問答無用で制圧します」
咲は階段の下に立った。
咲の腕前は知っている。それでも不安なことには変わりはない。咲が傷ついたら、そう思うと心が締め付けられる。しかし、事ここに至っては咲に任せるしかないのが実情だ。
司は情けない気持ちを押し殺して、咲の背中を見守った。
上を見上げる。四角く切り取られた開口部から、微かな光が漏れている。
カチャン。
上から、微かな、しかし明瞭な金属音が聞こえた。
ボルトを操作する音だ。
「まずい!」
司が叫ぶのと同時に、咲が弾かれたように階段を駆け上がった。
カツカツカツカツッ!
ブーツの音が、機関銃のように階段を叩く。
◆◇◆◇◆
望楼の上。
真壁鉄蔵は、スコープの中の光景に全神経を集中させていた。
祝田門の交差点。
先導の騎馬隊が通過し、その後ろに、菊の御紋をつけた黒塗りのダイムラーが滑るように入ってくる。
距離、問題なし。風、微風。
標的は、後部座席の人物。
真壁の指が、トリガーにかかる。
息を止める。
心拍の間の静寂。
その刹那。
背後で、猛烈な足音が聞こえた。
真壁の反応は速かった。
彼は射撃姿勢を解き、反射的に振り返りながら、ライフルの銃口を入り口へと向けた。
教導団仕込みの早業だ。
だが、咲はそれよりも速かった。
ドォン!
木戸を蹴破り、咲の体が望楼の狭い空間に躍り込んだ。
真壁は、飛び込んできた人影に向けて引き金を引こうとした。
しかし、日本人とは思えない容姿の女性であることを認識し、一瞬の途惑いを見せた。
咲には、その一瞬で充分だった。
彼女は床を蹴ると同時に、体を低く沈め、真壁の懐へと滑り込んでいたのだ。
ライフルの銃身が、咲の頭上を虚しく薙ぐ。
真壁の目が驚愕に見開かれる。
目の前に、蒼い炎のような瞳があった。
「させないッ!」
咲の左手が、ライフルの銃身を下から払い上げる。
同時に、右手が真壁の胸倉を掴んだ。
大東流合気柔術。
力で押すのではない。相手の力と重心を奪う。
咲は体を開き、真壁の体勢を崩しながら、狭い望楼の中で円を描くように回転した。
遠心力。
真壁の体が宙に浮く。
「てりゃあああッ!」
咲は気合一閃、真壁を床板に叩きつけた。
ズドンッ!
望楼全体が揺れるほどの衝撃。
真壁の手からライフルが弾き飛ばされ、床を滑って壁に当たった。
だが、真壁もただの消防手ではない。
彼は受け身を取り、即座に懐から短刀を抜いた。
逆手に持ち、床に倒れたまま咲の足首を狙う。
「しつこい!」
咲は跳躍し、刃を躱す。
着地と同時に、真壁の持った右手を踏みつけた。
バキッ、という鈍い音。
真壁が苦悶の声を上げ、短刀を取り落とす。
咲はそのまま真壁の腕を取り、背中側にねじり上げた。
関節技。
完全に動きを封じる。
「…動くな」
その声は、冷徹で、絶対的だった。
遅れて、司が息を切らして階段を登ってきた。
望楼に顔を出すと、そこには制圧された真壁と、乱れた髪のまま仁王立ちする咲の姿があった。
「咲さん!無事!?」
「大丈夫!」
咲の笑顔とともに無事を確認した司は、床に転がるライフルを拾い上げ、ボルトを引いて弾丸を抜いた。
カラン、と薬莢が床に落ちる。
その音は、まるで「静止した時間」が再び動き出した合図のようだった。
司は望楼の手すりから、宮城の方角をかえりみた。
眼下では、何事もなかったかのように、皇太子殿下の御料車が祝田門を通過し、二重橋へと差し掛かっているところだった。
静かな、厳かな行進。
誰も気づいていない。
この頭上で、歴史を変えるはずだった一発の銃弾が、未遂に終わったことを。
中庭に、数人の男たちが走ってくるのが見えた。
先頭を走るのは、見慣れた男だ。
司は身を乗り出し、ありったけの大声で叫んだ。
「関谷さん!ここだ!早く来てくれ!殿下を狙った狙撃犯だ!」
関谷が足を止め、上を見上げる。
その顔が、驚愕に歪んだ。
「なんだと!?」
警笛の音が、消防部の中庭に響き渡った。
◆◇◆◇◆
同時刻。
帝国劇場、二階テラス。
フロックコートの男は、オペラグラスを下ろした。
その視界の端では、御料車が無事に宮城の正門へと吸い込まれていくところだった。
銃声は、響かなかった。
爆音も、悲鳴も、何も起きなかった。
ただ、予定通りの静寂な行進が行われただけだ。
男は、口元の煙草を灰皿に押し付けた。
そして、低く、腹の底から響くような笑い声を上げ始めた。
「クク…ハハハハハ!」
乾いた笑い声がテラスに響く。
執事風の男が、不安げに主人を見つめた。
「…愉快だ。実に愉快だよ」
男は立ち上がり望楼を見つめた。
彼の「脚本」にはなかった登場人物。
自分の書いた筋書きを、暴力的なまでの鮮やかさで書き換えた存在。
「まさか、ホームズ君だけではなく、あのような美しきワトソン君がいるとはな!素晴らしい!」
男は、まるで素晴らしい演劇を見終えた観客のように、パチパチと拍手をした。
「いや、ワトソン君では失礼か…。跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘。キトリ、うん、そうだな。『ドン・キホーテ』のキトリだ!面白い!」
「宮様…」
「そうだな、行こうか」
男はフロックコートの裾を翻し、軽やかな足取りで出口へと向かった。
その背中は、失敗の悔恨など微塵もなく、次なる幕への創作意欲に満ち溢れていた。
「藤平司。…君は、僕の期待以上の『名優』になりそうだ」
日比谷の空には、冬の太陽が高く昇っていた。
街は動き続ける。
だが、その影で、終わりのない物語が、新たなページをめくろうとしていた。
第2章 完
第3章(第13話)は、もう少し書き溜めてから掲載します。
ブックマークしてお待ちいただけると幸いです。




