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結婚と算盤~新妻の百貨店経営奮闘記~  作者: けもこ


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11/11

第11話 新妻、夫を知る

翌朝、目を覚ました時、窓の外はすでに明るかった。


しばらく天井を見つめて、自分がどこにいるのかを考える。

ここは岸田家の私の部屋。

そして、なぜか背中に誰かの体温を感じる。


そうだ。

昨夜――。


そこまで考えた瞬間、私は布団を頭までかぶった。


葡萄酒のせいだ。

きっと、何もかも葡萄酒のせいである。


「奈江」


隣から声がして、私は布団の中で固まった。


「起きたの?」

「……起きておりません」

「それは残念。朝食に遅れると、母上にまた叱られてしまうな」


寝台がきしみ、布団の外へ出た朔之介さんが笑っている気配がした。

私は深く息を吸って、そろそろと顔を出す。


そこには、胸元のはだけた夜着を着た朔之介さんが、乱れた髪を掻き上げながら立っていた。


――なんでこの人、こげん綺麗なんやろう。


昨夜触れた胸板は、見た目よりもがっしりしていた。

ぼんやりとそう思い出して、思わず顔から火を噴きそうになる。


「……おはようございます」

「おはよう。気分はどう? 痛いところはない?」

「だ、大丈夫です」

「顔が赤いように思うけど……本当に大丈夫?」


そう言うと、朔之介さんはそっと私の頬を撫でた。

余計に顔が熱くなる。


「ぶ、葡萄酒のせいだと思います。昨夜の。そう、葡萄酒」


布団を掴み、もごもごと返事をする私を、彼は楽しそうに見つめている。


「では、葡萄酒のせいにしておこう」

「そうしてください」


朔之介さんは声を立てて笑った。

その笑い声を聞きながら、私は枕を投げつけたい気持ちをどうにか堪えた。


朝食の席には、母上さまが先に座っておられた。

私を見るなり、何もかも知っているような顔で、ふわりと微笑む。


「奈江さん。よう眠れましたか」

「……はい。おかげさまで」


声が少し上ずった。

母上さまは、ほほほ、と笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。

その沈黙が、かえって恥ずかしい。


食卓には焼き魚、卵、味噌汁、それに小さなパンとバターが並んでいる。

朔之介さんは当たり前のように席につき、何事もなかったかのように箸を取った。


その落ち着きが、腹立たしい。


「あ、そうだ奈江」


味噌汁に口をつけたところで、朔之介さんが何でもないことのように言った。


「私は明後日から、しばらくアメリカへ行くことになっている」

「……はい?」


思わず聞き返した。


「アメリカ、ですか?」

「うん。向こうの商社と銀行、それから機械の件でね。準備のために、いったん家へ戻ってきていたんだ」

「帰りは、いつですか」

「順調にいけば、二か月後かな」


二か月。

箸を持つ手が止まった。


「明後日から、二か月」

「そう」


朔之介さんは、悪びれもせずに頷く。


昨日、ようやく会ったばかりなのに。

昨夜、ようやく夫婦らしい夜を過ごしたばかりなのに。

それなのに、明後日にはアメリカへ行くという。


「……朔之介さま」

「うん」

「あなたという方は、本当に」


そこまで言って、続きが出てこなかった。

怒ればいいのか。

呆れればいいのか。

笑えばいいのか。


朔之介さんは、そんな私を見て、楽しそうに目を細めた。


「次に会う時も、きっと面白い話題がいっぱいあるだろうね」

「そういう問題でしょうか」

「そういう問題でもあると思う。奈江も、二か月あれば幾志屋で何かやらかしているだろうし」


面白そうに言う朔之介さんの言葉に、なぜか背後で梅が吹き出している。


「やらかすとは何ですか」

「母上。私の留守の間、奈江のことをよろしく頼みます」

「まあ。奈江さんは賢い子やから、ただ待っているだけではおられへんでしょうしなぁ」


母上さままで、穏やかに笑いながらそんなことをおっしゃる。


私は箸を置き、深く息を吐いた。


そうか。

私はこういう男のところへ嫁いできたのだ。

なんだか、ようやく納得がいった。


夫婦になったからといって、毎日隣に座って、穏やかに茶を飲むような人ではない。

思いついたら丁稚に化け、帰ってきたかと思えばアメリカへ飛び、二か月後の再会を「面白い話題がいっぱいありそうだ」と笑って楽しみにする。

そういう人なのだ。


「……わかりました」

「あれ、もう怒らないの?」

「怒るには、驚きの方が大きすぎます」

「それは昨日も言っていたね」

「朔之介さまは、毎回こういうことをなさるおつもりですか」

「毎回はしないよ。たぶん」

「たぶんって」


そう言うと、朔之介さんは楽しそうに笑った。

その顔を見て、私は半ば呆れ、半ば諦めた。


「お便りは、くださいませ」

「もちろん。昨日、約束したからね」

「女性に文を書いたことがない、という言い訳はもう通じませんよ」

「心得た。アメリカから、なるべく面白い文を書くよ」

「面白くなくてよろしいです。無事かどうかと、どこにおるかがわかれば」

「それだけ?」

「それだけで十分です」


そう答えると、朔之介さんはほんの少しだけ目を細めた。

いつもの軽い笑みではなく、少しだけ優しい顔だった。


「必ず書くよ。約束する」


その言葉に、胸の奥が静かに落ち着いた。


二か月は長い。

けれど、今度は祝言の後のように、ただ置いていかれるのではない。

私は彼を待つ、という立場になった。


夫婦というものがどういうものか、まだよくわからない。

けれど、少なくとも岸田朔之介という夫は、退屈だけはさせてくれないらしい。


「朔之介さま」

「うん?」

「二か月後、私も面白い話題を用意しておきます」

「それは楽しみだ」

「だから、朔之介さまも面白い話題を用意しておいてくださいませね。これは取引ですから」


その言葉に、朔之介さんは声を上げて、本当に楽しそうに笑った。


「ああ、奈江。私は自分をなかなかに運のいい男だと思っていたが、いやはや。この巡りあわせは最大の幸運だな」


私は、彼のその笑みを見ながら、箸を取り直す。


博多から遠く離れた東京で、得体の知れない夫と、得体の知れない結婚生活が始まっている。


不安はある。

心配もする。

けれど、胸の奥のどこかで、少しだけわくわくしている自分もいた。


どうやら私は、とんでもない商いに手を出してしまったらしい。

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