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12 遠雷-下(アレク視点)

 今回と前回のアレクの過去話上・下は子供への虐待の題材を扱っていますので、苦手な方はご注意ください。

 その後は怒濤のような出来事だった。

 いつの間にかあの昼間のように明るい部屋と彼女は消えていた。

 アレクは銀色の機械のある薄暗い部屋にいて、警察の服を着た男達とそうでない男達が暴れまわっていた。

 警察や医者や役場や何だか分からない所を延々引き回され色々訊かれた。あの男達は捕まったから安心しろと言われた。あの銀色の機械について専門家として調べることになったという、ジョンと名乗る茶色い髪の男は何度も話を聞きに来た。


 騒ぎの後、アレクは施設へ引き取られた。

 決して素晴らしいとは言えない所と言われたが、あの父との生活しか知らないアレクにとって、『普通』の人と接し学ぶ貴重な場となった。


 施設に来てそう長く経たないうちに、父が獄死したと聞いた。

 父が何をしたのかはよく分からない。施設の人は何かもっと説明していたが、世界を支配し世界の全てだったものが、こんなにもあっけなく消失したことの方が衝撃だった。世界が消えたのに自分が生きていることに現実感がなかった。

 これは何かの罠で、ふと戸が開いて父が殴りに現れる方がありえそうな気がした。それよりは今殴られる方がましだ。殴られている間は、いつ殴られるか怯えなくてすむ。


 今までの世界が足元から崩壊した後、それでも立っていられたのは、彼女が柵の外の世界の存在と価値を教えてくれていたからだった。

 今アレクが立っている場所は柵の外で、あの鮮やかな世界に続いているのだと、道標として心に焼き付いていた。

 アレクはその後も何度も甦る過去の記憶に苦しめられたり、精神的に不安定になったが、施設の人々が根気強く支えてくれた。運よく施設にはアレクのような心理状態について知識を持つベテランがいて、歪みを植え付けられたアレクの思考をほどく力になった。アレクは希望を知った。


 他の少年のように駄賃を貰う仕事がこなせるようになった頃、アレクは施設の労務や仕事の合間に貸本屋へ立ち読みに行くようになった。

 アレクはとにかく知識が欲しかった。

 彼女ーーハナのように、世界を知りたかった。娯楽の旅をするなど到底無理なアレクは、本の海を航海することを代替とした。恐らくそんな人は多いだろう。

 施設に入ってから字を学び始めたアレクは、その熱意で施設に置いてある僅かな寄贈本はすぐに読みつくしたが、本の購入は勿論貸本も早々利用できるものではなかった。

 恰幅がよい白髪頭の貸本屋の店主は、初めは他の立ち読み客同様アレクもある程度で追い払っていたが、やがて意図的に放置するようになり、終いには店の奥で他の客に見つからないよう読ませたり、貸本の仕事を教え始めた。


 施設を出なければならない年齢が近づき、同年代の少年達が仕事を見つけて散っていく中、アレクは貸本屋の住み込み弟子になった。


 店主は相当な本馬鹿で、アレクに本の海の航海の仕方を教えてくれた。

 沢山の本を読み沢山のことを知っていた。

 それは頭で知っているだけでなく、日々の生き方や考え方にも生かされていて、店主はアレクの目標となった。

 日々の暮らしでは、店主は食事が人生を豊かにする上でいかに重要か熱く語り、アレクに料理を教えた。

 殴られないようにするためでなく、大切な人や豊かな人生のための美味しい料理を、厨房で並んで教えられる時間は、昔の辛い記憶を上書きし穏やかなものに変えてくれた。


 ある日店主は店で倒れ、それを切っ掛けに隠居を宣言しアレクに跡を譲ると言った。

 店は結構な財産で、店主が老後を暮らすための分を引いても、アレクが店を続けるには十分だった。

 これ程のものを血縁でもない自分が貰っていいものかと悩むアレクに店主は、自分は結婚もせず子供もいないからお前が引き受けないと本を読みたい街の連中が困る、と顔を顰めた。


 よく晴れた日、変わり者の女傑として知られる店主は、豊かな胸を揺すり目尻の皺を深め、満面の笑みでアレクに手を振って自ら定めた隠居の地へ旅立った。



◇◆◇◆◇◆


 雨音が遠のいたようだ。

 先代から引き継いだ古い机で過去に思いを馳せていたアレクの心が部屋に戻ってくる。


 アレクは思う。自分の人生は一部は暗いものであったが、施設の人や先代との出会いに恵まれたことは僥倖だった。彼らのお蔭で今の自分があると、感謝しきれない。

 ハナはわずか数時間の出会いだったけれど、稲妻のように鮮烈に「世界」を見せてくれて、その世界観は後々まで自分の基盤を支えてくれた。


 ハナと再会させてやる、とジョンから話があった時は思わず飛び付いた。後から、利用されているらしいと気付いたがどうでもよかった。

 幼い自分に『世界』を与えてくれたハナに感謝を伝えたいーーもう一度会いたかった。

 長い年月で勝手に神聖化してしまったであろう自覚はあるので、勝手に幻滅するような真似はすまい、と思って臨んだ会見だった。

 ーー予想を裏切られた。良い方向に。


 彼女は神聖でも何でもない現実的な大人の女性で、原寸大の人間のまま輝きを持っていた。

 『あの子』ーー幼いアレクの無事を何より願ってくれていた。そのために毅然とアレクに向かって問い糺す程に。

 自分にとって12年前でもハナにとって数日前とは分かっているが、あの時ハナに注がれた慈愛は幼い自分の思い込みではなかったのだと心温かくなった。

 一方、都合の良い愚か者という訳ではなく、不当な扱いに屈せずジョンへ反撃するさまに、世界を知っている大人の女性であったと噛み締めた。


 そして12年前に話してくれた通りの旅行好き。

 アレクはハナへの礼を色々考えたが旅が一番だろうと思い彼女を招いた。正に正解で、無邪気なまでに喜んで貰えて嬉しかった。

 整えられた花壇の花も楽しむが、広く分布するという地味な雑草に目を輝かす。ハナの目を借りたら世界はずっと広く鮮やかに見える気がした。

 その目はハナが知識と経験によって築き上げたものだとアレクは理解している。


 彼女の観察力と豊かな知識に基づく思考力には驚かされた。それは細やかな気遣いにまで生かされた。

 ハナは金銭的負担をかけまいとし、服は古着屋で買って後で売るという。その言葉で、彼女は普段新品の服を買い、それを売らない価値観に慣れていると気付いた。アレク達庶民に普通なことが彼女には普通でない。

 アレクが12年前に見た彼女の家や設備を思い出しても、こちらより裕福な社会であろう。

 しかし彼女は見下さない。そして彼女が予め持つ膨大な知識を元に、初めて来たこの世界にとっての『普通』が何か可能性の高い答を導き出す無数の計算を行っている。そうして摩擦を減らしている。

 アレク自身、当初はハナの属する階級や文化の見当がつかず、どう振る舞うべきか手探りだった。しかし、周囲に合わせ服を替え倹約する等、気さくに歩み寄る価値観の持ち主だとわかり、肩の力が抜けた。

 『思い遣り』とは、気持ちだけでなく知識や思考力に支えられていると改めて噛み締めた。


 彼女が次はどんな世界を見せてくれるかと、目が離せない。その力は、先代店主を思い起こさせた。ある意味、ハナと先代は似ているのかもしれない。

 旅する場所が、国々か本かの違いだけだ。

 旅の中で読み取り吸収したことを蓄積し組み立てる。それを喜びとともに行い、鮮やかな光を放つ。


 貸本屋の3階の古い部屋は今は闇に沈んでいるが、陽に照らされた姿はよく知っており畏れの対象ではない。住み慣れた居心地良い居場所だ。

 アレクは柔らかな笑みを浮かべ蝋燭の火を消した。

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