11 遠雷-上(アレク視点)
アレク過去話(上・下)です。子供への虐待の題材を扱っています。虐待を肯定せずざまぁも設置し、直接的暴力描写は抑えていますが、苦手な方はご注意ください。
空を切り裂き稲妻が走った。
手元だけを僅かに照らす蝋燭しかない暗い部屋の中が、一瞬白く照らされ、また暗く戻る。二拍置いて重い物が転がるような音が響いた。
雷はそう近くないようだ。
光と音が離れている時は雷は遠くにいるから安心しろ、と教えてくれたのは先代だった、とふと思い出す。
住み慣れた貸本屋の3階の自室で、飴色の古びた机の前で同じ色の椅子に座ったまま、アレクは部屋を見渡す。
机に置かれた蝋燭の火は小さい。自分が唯一の灯火の側にいるため、離れた場所はより闇が深くて目を凝らしてもよく見えない。
稲妻の光が差した瞬間、部屋の中の物の形が、現実味を欠いた青白い姿で明らかになった。だから光が消えてもそこにあるものを認知できる。
アレクにとって、ハナはこの光のような存在だった。
◇◆◇◆◇◆
アレクは物心ついたときには畑を耕していた。田舎の小さな村で父と二人暮らしで、4、5才頃には家事の殆どをしていた。
畑を耕し、家事をし、父に罵倒された位しか記憶にない。何年もそればかりを繰り返し、それだけの世界で閉塞し、それ以外を知らなかった。
父はろくに料理ができず、教える者がいなければ当然、炊事を押し付けられたアレクもまともに作れず、食事が不味いと父は殴り罵倒した。
村には、痩せたアレクを見かねて家に招き食事を与えてくれる人も稀にいたので、食べるより作り方の教えを乞うて殴られることを少しでも減らすことに成功した。
しかしアレクに情けをかける者に対し、父は自分を蔑ろにしていると罵倒し詫びの金品を要求したので、村の中で孤立するのに時間は掛からなかった。
世界は暗く閉塞していた。食事を与えてくれた人の側にいる時は明るい気がしたが、日々を覆う闇が余りにも深すぎて掻き消されてしまった。
父はよく、お前さえいなければ、売られないだけましだと思えという決まり文句でアレクを脅したので、売られることは遥かに酷い地獄なのだろうと恐ろしかった。
だから、ある日都会から来たような言葉と服の男に引き渡され、父の後ろ姿を見送った時、これから地獄へ連れて行かれるのだと理解した。
気付いたら、雨に打たれ蹲っていた。
あの男達が何か話していたような記憶があるが、目の前の光景と繋がらなかった。
自分は茂みの陰にいるらしい。
空は茂みの向こうには見たことのない奇妙にのっぺりした建物が視界一面に並び、中には天に聳える程の高さのものもあって、見たことのない数々のものは恐怖の対象となった。辺りでは大きな声で吠える奇妙に四角い獣が凄い勢いで駆け回っている。
嵐が近いのか、断続的に強い風に乗り体を打つ雨が痛い。ここが地獄なのだろうか。
父に殴られる時のように、できるだけ体を小さくして恐ろしい時間が終わるのをただ待つ。それ以外の方法を知らなかった。
ふと、人の声がした。
いつしか日が暮れ暗くなった視界の中、人のような姿の者が立っているが、人の言葉を話していない。相手の視線から身を隠そうとすると、何か困っているか、と訛りは酷いものの今度は人の言葉で言った。
アレクが見慣れぬ変わった顔立ちをしていて、表情を見ても何を考えているのか分からなかった。
でも関わらないに越したことはないので、早くどこかへ去って欲しいと願ったが、しゃがんだり横に並んだり、雨避けらしい布をアレクの上に翳したりし続けた。
何となく恐ろしさが和らいだ。
激しい嵐が来るからここは危ない、自分の家に来いと言っているようだ。
本当かは分からない。ここは所詮地獄だ。
しかし、昔食事を与えてくれた村人の側で感じた光のようなものが何故か思い出された。
アレクはふらふらと泥水から腰を上げた。
アレクが連れていかれた家は全てが驚きの対象だった。
戸が勝手に開き、昼間のように明るく、大きな透き通った板の壁や体が沈みそうな程柔らかい椅子が並ぶ。
奥へ連れていかれそうになったが、恐ろしすぎて抵抗した。戸口近くにいれば、何かあったとき逃げきれる可能性があるかもしれない。
その人は自分が身に付けていた綺麗な色の手拭いでアレクの濡れた頭を拭い、汚れた体に立派な仕立ての上着をかけた。
一度奥に引っ込んで戻ったその人は、アレクを小さな部屋に連れていき、乾いた服に着替えさせた。不思議な形だが布に厚さがあるのに柔らかで着心地がよく、それ故に居心地が悪かった。
洗面台に抱き上げられ、熱い湯に足を浸けられた時にはアレクは恐怖を感じた。しかし湯は次第に心地よい温かさに感じられるようになり、自分の足が冷えきっていたせいで熱く感じたに過ぎず、害する意図はないことを理解した。
湯の中に泥と小石と小石でできた切り傷の血が溶けていくのをぼんやり眺める。優しい手が丁寧に傷を洗っている。顔や服は変わっているが、この柔らかな線の手は女の人だろう。こんな立派な服を着た人の手が、自分のような価値のない者の汚れた足を洗っている。
なんだか現実味のない夢を見ているようだった。
温かな食事、柔らかな毛布。彼女は眠る時もアレクと一緒にいるつもりらしい。
父はアレクに分からない理由でアレクに激昂するので、アレクはできるだけ話さないようになった。もう長いことまともに人と話していない。
だから彼女が何を話してくれても、自分の頭の中のぐちゃぐちゃを、どう言葉にして外に出せばいいか分からなかった。
彼女は無理にアレクの言葉を引き出そうとはせず、代わりに自分が好きなことの話を始めた。
異国を旅するのが好きだという。寒い国、暑い国、見た目の違う人々、綺麗な器や布、一面の砂漠、虹がかかる滝…
アレクが人生で見てきた全ては、父と二人の家と畑で完結していた。
畑から地平を見ると柵の向こうも地面は続いているので、そこにも世界があることは知っていたが、自分と無縁で、未知のもの、つまりは恐ろしい闇であり関わることが禁忌だった。
彼女は軽やかに柵を飛び越え、その闇を照らした。
世界は恐ろしくない、素晴らしいものに満ちている。危険なこともあるけれど、知識や思慮を持つことで多くを回避できること、助けてくれる善意や社会の仕組みが存在することを説明した。
外に踏み出す苦労や不安を上回る魅力を、目を輝かせて語った。
そんな彼女を見ているうち、自分は柵の外の何にそんなに怯えていたのだろう、と思えてきた。
いや、今も怖い。
けれど、外はただの闇ではなくなった。
今は闇にしか見えなくても、その中にあるものは恐ろしいだけの物ではない。そして様々なことを知ることでーー知識を増やすことで闇を照らすことができるのだと知った。そして、世界はそれだけの価値があるのだと。
窓の外は暗く、まだ強い雨風の音が聞こえる。けれどアレクは前ほど怖くは感じなかった。




