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最終話

マリーが20歳まで過ごしたというデスタン伯爵邸は、パリとヴェルサイユを結ぶ街道から少し奥まった所にあった。もともとはヴェルサイユの森のはずれに位置する場所だったのだろう。豊かな緑の葉を茂らせた林の中に開かれた道を馬車は進んでいく。しばらくすると背の高い鉄の門をくぐった。そこから更に進み、視界が開けた先に瀟洒な佇まいの白い城館が姿を表したのだった。


パリからヴェルサイユに近づくにつれ、だんだんと言葉少なくなっていくマリーの肩を、アナトールはただ黙って抱いていた。普段はよく整理された言葉で明瞭に話すマリーが、馬車の中でアナトールに問いかけられて話しだした母親との思い出は、何度も言葉を探しあぐねたように途切れがちだった。濁される言葉の裏に、母を求めながら満たされなかった幼い頃のマリーの孤独が透けて見えた。マリーを連れて乳母として奉公に上がった貴族の館で、今は女中頭に取り立てられて勤めているという母親は、マリーがずっと寂しさを抱えたままでいることを、知っているのだろうか・・・。


幼い頃から彼女に厳しい要求を課してきた母親とはいったいどんな人物なのか、馬車は整然と整えられた庭を抜け、厩舎の前に停められた。アナトールは馬車から下り立ち、目の前にそそり立つ館の石壁や広大な敷地に目を見張った。アナトールは、はじめて訪れる貴族の館の壮麗さに圧倒され、隣に立つマリーの顔を不安気に見やった。マリーが、かつて自分の知らない世界の住人であったことを、アナトールは改めて実感したのだった。


「行きましょう。あまり長く馬車を待たせてもいけないわ。」


マリーは、男の不安を打ち消すかのように、その腕にそっと自身の腕を絡ませた。


裏口に応対に出たのは、まだ年若い侍女だった。


「女中頭のニノン・モンクールさんにお取次ぎを。パリのマリーが来たと言っていただければ分ります。」


「ニノンさんですか?お約束はなさっていますか?今夜旦那様が領地からお戻りになるので、準備で大変なんです。お約束でなければ、会って下さるか分りませんよ。」


「約束はしていませんが、伝えて下さればお分かりになりますわ。」


訝しげに言う侍女に、マリーは柔らかく、しかしきっぱりとした口調で言った。



戻ってきた侍女の案内で通されたのは、この館の執事の執務室と思われる一室だった。簡素で在りながら格式を感じさせるしつらえの部屋はひっそりと静かだった。


「この部屋で執事さんから、読み書きの手ほどきを受けたわ。」


マリーは執務机の脇に置かれたキャビネットの上に手を置いて、懐かしそうに部屋を見渡しつぶやいた。


その時だった。気短なノックの音がしたかと思うと勢い良く扉が開かれた。


「全く!お前ときたら、どういうつもりなんだい!」


威勢のいい声と共に、白いボネを被り、濃紺のお仕着せに白いエプロンをかけた小柄な婦人が、すべるようにマリーの傍に近づいた。


「母さん・・・、久しぶりね。元気だった?」


「ええ、ええ、おかげさまで。体が丈夫なのが、あたしの取り柄ですからね。」


マリーが戸惑いがちにかけた言葉も終わらぬうちに、その婦人はしゃっきりと答えたのだった。普段は落ち着いて物怖じしない態度のマリーが、彼女よりずっと小柄な母親の前で、少女のように身をすくめていた。


「マリーのお母様ですか。はじめまして、アナトール・グランデです。」


アナトールはマリーの前に一歩進み出て言った。小柄な婦人は背筋を伸ばし、掛けていた眼鏡に手を添えて、アナトールの顔をまじまじと見上げた。


「はい、はじめまして。あたしはニノン・モンクールと申します。おっしゃる通り、マリーの母親でございます。クリスチャン・ブリューノ氏から手紙をいただきましたからね、マリーとのことは承知していますよ。あまり時間は取れませんけど、とにかくお話を伺いましょう、ムッシュウ・グランデ。」



執務室の応接セットに向かい合って座った母と娘は、まるで似たところがなかった。顔かたちも、体つきも、髪や目の色も、何一つ似ていない。


「マリーは、父親似なんですよ。」


大抵の親子はどこかしら似たところがあるものなのに、と不思議に思う男の気持ちを見透かしたように、ニノン・モンクールは言った。


 「私に似なくて良かったと思いますよ。私は、こんなで見栄えも何もあったもんじゃないですからね。」


自嘲というには、あまりに明るく乾いた口調だった。


「親のあたしがいっちゃあ何ですが、この子を他人様に後れを取るように育てたつもりはございませんよ。片親っ子だからといって後ろ指を指されるような事がないように、厳しく仕込んでありますからね。おかげで沢山いい縁談をいただきましたよ。この子がうんと言いさえすれば、出入りの大店の跡取り息子とだって、縁を結ぶことができたんですよ。そうすれば、なんの苦労もせず安泰に暮らせていけると言うのに・・・。」


女中頭の貫禄を小さな体にみなぎらせた母親は、丸く肉付きのいい手を膝の上で重ね、硬く握りながらそういうと、向いに座るマリーをじっと見つめた。


「母さん、止めてよ・・・もう昔の話じゃないの・・・。私は、父さんと母さんの、仕立て職人とお針子の娘なんだもの。贅沢なんか望んじゃいないわ。」


マリーは、俯いたまま小さく抗議の声を上げた。しかし、その声は、母親には届いていないようだった。


「いっそ中身も父親に似てくれればよかったんですよ。優しく穏やかな人でしたよ。どうしたものか、中身の方はすっかりあたしに似ちゃいましてね。もう知ってなさると思いますけど、頑固なんですよ。傍がなんと言ったって、この子はこの子なりにしか生きられません。自分でこうと決めたら、梃子でも動かせるもんじゃありません。そういう娘でございますよ。それでも、ようございますか?」


眼鏡の奥に光る薄茶色の瞳が、真っ直ぐに男を見据えていた。その瞳は愚直なまでに真摯だった。


「僕は、マリーを愛しています。はじめて会ったその時に、すぐに分りました。僕にはマリーが必要なんです。」


アナトールは隣に座るマリーを見やった。心細げに俯くマリーの手をとって、男はその手を大きな掌の中に包み込んだ。


「ねえ、マリー、お母さんの前で言って欲しい。僕が必要だって、だから、僕を選んだんだって・・・。」


男の低く優しい声に励まされるように、俯いていたマリーがゆっくりと顔を上げ、男の瞳を見つめる。

「アナトール、私もあなたを愛しているわ。あなたといることが私の幸せなの。」


マリーのこんなに幸せそうな顔を見たことがあっただろうか。実らぬ恋から逃げるように屋敷を出ていった娘が、今、優しく穏やかな男の瞳の中に、自分の幸せを見つけている。


「母さん、私はアナトールとリヨンに行きます。何もない私達だけど、二人でなら何とかなるわ。」


「お前の好きにすればいい。止めたって、どうせ言うことを聞きはしないのだろう。自分達で選んだ道だよ。しっかりおやり。」


アナトールの腕に抱かれたマリーが、真っ直ぐにニノンの顔を見つめた。娘の顔に押さえることのできない喜びが笑顔となってこぼれ咲くのを、ニノンは見たのだった。



六月の空は明るく澄み渡っていた。デスタン邸の裏庭に広がるイギリス式庭園には、競うように色とりどりの夏花が咲きはじめている。緩やかなカーブを描く白い砂を敷き詰めた小道の上を、レースの日傘を差した貴婦人がそぞろ歩いていく。薄青の薄物のローブに身を包み、淡い金色の巻き毛を柔らかく結い上げた、たおやかな姿が青い空を背景に美しく浮かび上がる。その後ろには、それぞれに淡い花の色を写した愛らしい服の幼子達が付き従っていた。風に乗って、幼子達の笑い声が聞こえてくる。そして、その声に混じって、聞きなれた歯切れのいい女の声が、マリーの耳に届いた。見れば赤ん坊を抱いた白いボネの小柄な女が、幼子達に囲まれ優しい笑みを浮かべていた。


思えば、母がこの屋敷に奉公に上がった年齢と、自分がこの屋敷をあとにした年齢は、奇しくも同じ20歳だった。こうして今、己のすべてを預け安らげる胸を得てみれば、そのなにものにもかえがたい存在を、突然失った母の悲しみと絶望が、どれほど深いものだったか想像できた。優しく包むまなざしも、情熱を込めて抱きしめてくれる暖かな腕も、一瞬で失ってしまったのだ。その絶望の中、生きるよすがを求め、乳飲み子の自分を連れてこの屋敷に、母はやってきた。身寄りのない母は、誠心誠意務めを果たし、館の主人に気に入られ、必要とされる人間になって、この場所で根を張り生きること望んだに違いない。20歳の母はただがむしゃらに進むしかなかったのだ。幼い私の寂しさ以上に、母もきっと寂しかったのだろう。くたくたになるまで働いて、私を抱いて眠りに落ちるとき、母は私の寝顔に父の面影を見たのだろうか・・・。


マリーは振り返り、心配そうに自分を見つめていただろう男に微笑みかけた。


「アナトール、寂しかったのは、私だけじゃなかったのね。母さんも、きっと寂しかったんだと思う。でもね、母さんは金色の天使に救われたのよ。その天使がいる限り、母さんはここで生きていけるの。」


「金色の天使?」


男は不思議そうに女の顔を見つめた。


「ええ、私の乳兄弟のレオン様よ。金色の巻毛で、海のような青い瞳をしていらっしゃるの。美しく優しい方で、母さんをとても大事にしてくださるわ。だから、私は母さんの事、何も心配しなくていいの。私は、あなたとリヨンで新しい家族を作るわ。ああ、早く子供が欲しい。黒い巻毛と黒い瞳の、あなたにそっくりな男の子がいいわ!」


女の言葉に男は目を丸くして赤く頬を染めた。女は男に向かって求めるように白い手を差し伸べる。男はその手を優しくとって、腕に導びいた。肩を寄せ、見詰め合う瞳には互いの晴れやかな笑顔が映っていた。


「さあ、行こう。僕らの町が待っているよ。」


二人から始まる新しい家族の出発を、六月の明るい太陽が照らしていた。



《完》

長い話にお付き合い下さり心より感謝申し上げます。あるきっかけでフランス18世紀の生活に興味が募り、いろいろと調べ物をするようになりました。そのうちに折角調べたのだからそれらを題材に話を書いたらおもしろかろうとなあと思うようになりました。いざ書き始めたら書く事自体がおもしろくなって、こんなに長くなってしまいました。自己満足で書いた話ですが、お読みくださった方に少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。

ご感想などいただけましたら、励みとなります。

よろしくお願い致します。   結城 円

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