一 新しい依頼01
薄く靄がかかったような、灰色の空から朝日が入る。
埼玉県にある岡部駅の駅舎の中で、俺は今日も無事に目が覚めたことに、少しだけの失望を持ちながらも、安堵した。
昨日の配達の仕事を終えて立ち寄った駅舎ではあるが、思いのほかよく眠ることができた。
とはいえ、蓄積された疲れは消えることなく、体の重さは寝る前に比べてほんの少し軽くなっただけだ。
「今日は少し冷えるな」
右のふくらはぎにある、切り傷の痕がじくりと痛んだ。
配達中、崩れた建物のガラス片で怪我をしたのは、もう十五年も前だというのに。
「どれ。今は何時だ?」
駅舎に置かれている古びた時計には、西暦2169年3月3日午前7時31分と表示されている。
「今日はひな祭りか」
随分昔に、配達先の婆さんが教えてくれた。昔は桃とかいう花と人形を飾って、女の子の無事の成長を願ったとか。今じゃ誰もが、今日を生き延びることに必死だ。
「――ん、仕事の依頼が入ってる」
腕時計のようにつけている通信端末に、チカチカと点滅する文字が浮かんでいる。
【クロノスコード/203
タントウ/ホウジョウ・エメス
ウケトリ/フカヤエキ
ハイソウサキ/ヤマナカコNGRシセツ】
俺の名前と共に、配送情報が表示された。
受け取り場所として表示されている深谷駅は、今いる岡部駅からそう遠くない。問題は――配送先だ。
「山中湖……山梨県ねぇ」
手元にある空気清浄フィルターの在庫を確認する。いくつかあるものの中で、一番長く持つのは、七十二時間のヤツだ。
「バイク飛ばせばまぁ、余裕かな」
幾度も終えては始まる世界戦争の激化で、世界中の国々が生物兵器を乱用しすぎ、地球上の汚染が酷くなった。建物の中や地下、かつては緑があった山の中などはまだマシだが、外に出た途端、空気清浄フィルターがなければ、人間の体は数時間も持たない。
つまり――死んでしまう。
「まぁ、こんな世界で生きてても、意味なんてねぇしな」
俺はばさばさの髪の毛を手ぐしでまとめ、低い位置でゴムで括った。
ゴーグル付きのヘルメットを装着し、ボロボロになった防汚耐熱のコートを羽織る。薄いがしっかりとした作りで、十五の頃から着ている。もう三十年近く愛用していることになるな。
顎から目元までを覆うマスクに、七十二時間利用可能な空気清浄フィルターをセッティングし、顔にはめた。
呼吸をする度に、僅かに低い機械音がする。シューコシューコと繰り返すその音は、まるで自分の命の音のようだ。
ゴーグルの端をいじり、リミットを七十二時間と設定した。ゴーグルの端にうっすらと表示される赤い数字が、72を示す。
「よし、行くか」
朝食を食べたいが、生憎手持ちがなかった。どこかで昆虫タンパクでも、得ることができればいいのだが。
愛車のでかいバイクを引っ張り、俺は駅舎を出る。
「今日も頼むぞ、ケリュケイオン」
昔の友人どもにはクソダセェと言われたが、気に入ってる名前だ。
自分の名前よりも豪勢なのが良い。
配達人として俺がこの仕事に就いたときに、元軍事基地だった場所に放置されていたこいつを拾ったのが、ケリュケイオンとの出会いだ。JPN036251、と記載された横腹を見て、そんな味気のない数字ではなく、ちゃんと名前を付けてやろうと思った。
長い間放置されてたからか、なかなかエンジンが入らなかったり、試し試しの修理に時間がかかったりしたが、それから三十年。何度も具合が悪くなったりしたものの、エンジンが入らなくなるなんてこともなく、どうにか一緒に仕事をしている。
ケリュケイオンを軽く撫でてから、エンジンスイッチを入れる。大きな音を立ててボディを震わせると、エンジンが入った。それに跨がると、腕時計通信端末のシステムとリンクしているゴーグルに、行き先が表示される。
真っ直ぐに伸びる、旧高崎線の跡。
鉄は錆び、枕木は朽ちている。それでも、隣の駅へ行くにはこの道が最短だと、ゴーグルに表示された地図が示していた。
線路があったであろう道から見えるのは、朽ちた木造の建物たち。おそらくは、住居だった場所だろう。汚染で死に絶えてしまった木の枝や蔦の残骸が、家々に張り付いたまま、その姿を残している。
陸橋の横に、掠れた文字で『町の花コスモス』と書かれた看板が見えた。色あせて主線しか残っていないが、花の写真が掲げられていたのだろう。
「コスモスって……どんな花なんだろうな」
かつてこの世界には、色とりどりの花が咲いていたと聞く。
六十五年前の最終戦争で使われた、肥大した生物兵器が一番大きなダメージだった。そうして、この世界からだんだんと色がなくなっていったらしい。
「つっても、俺が生まれるより前の話だしな」
色のないこの世界は、それよりも後に、更に汚染を広げる事件が起きた。
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