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それは、きっとよく晴れた日のことだった。
あるいは彼女がそう感じたのは、単にそれまで空の色なんて気に掛けていられなかっただけかもしれない。ただ背中に感じる柔らかい日差しと、青々とした草の匂い。今ここで目を閉じれば、すっかり重たくなった身体はすぐに眠りに落ちることだろう。
そんな半ば夢を見るような心地をして、彼女は倒れ伏していた。ゆるやかな風の吹く森の中、乾ききった砂にまみれながら。彼女自身、それが自分の終わりなのだろうとそう思っていた。
だから次に目を覚ました時、彼女は何かの間違いを疑った。
見知らぬ人々が彼女を覗き込み、見覚えのない天井が視界に映る。状況の一切が飲み込めずにいるのとは裏腹に、誰とも知れぬ彼らは深刻な面持ちから一転して、喜びの表情を見せた。
目を覚ましたぞと、誰かが叫んだその言葉を切っ掛けに、ようやく彼女は状況を理解した。どうやら、自分は彼らに助けられたらしい。落ち着いて見てみれば、今彼女がいる場所は、小さな礼拝堂のようだった。
そうして辺りを眺めている内に、彼女の前にはコップが置かれていた。その中には清く透き通った水が注がれていて、どうぞ飲むようにと勧められる。
恐る恐る含んだ口の中に冷たさが広がる。果たしていつ以来の感覚だろうか、もはや思い出せないほどに懐かしい。
次いで彼女の目の前に差し出されたものは、質素な編み籠に積まれた山ほどのリンゴ。それはどれもつるりと艶やかで、とても愛情を掛けられて育ってきたのだろう。
勧められるがままにそれを齧った彼女の瞳からは、細く一筋の涙が伝った。
ああ、美味しい。そうすればもはや止めどなく、ぼろぼろと大粒の涙とともに彼女はひたすらにリンゴを貪る。
長い髪の先や服の裾から、さらさらと砂粒を零しながら彼女は思った。飢えも、渇きも。何もかも忘れてしまうような旅路の全ては、きっとこの場所に辿り着くためだったのだと。
それが、リタと彼らとの出会いだった。
その日から、住むもののいなかったこの礼拝堂が彼女の仮の住処となった。一度は朽ちかけたその身が落ち着くまでを、村人たちは皆暖かく待ってくれるのだという。
彼らは日に何度か、代わる代わる水や食べ物を彼女のもとへと運んできた。そして彼女自身の話を聞いたり、または自分たちの話をしたり。普段はまず見ることのない異邦人に興味津々という様子だった。
それはリタにとっても同じこと。彼女にとって緑豊かなこの村は、それこそ辺境への突然の来訪者に並ぶくらいに目を惹いた。だって誰も、生き残るために水や食料を奪い合ったりする必要なんてなくて、どころか分け与えてすらいるのだから。
ここは命で溢れている。ここは優しさで溢れている。だからこそ、自分からも何か恩返しが出来ないだろうかと考えるようになったのも、ごく自然なこと。それからの彼女は村人たちと談笑をしながら、いつもその事で頭を悩ませていた。
ある時、村の周りを歩く中で、彼女はふと気付いた。それは、この村やその周囲に咲いている草花に覚えがあったということ。
たとえばあの黄色い花は、たちまちに眠りを誘うという。たとえばあの白い花は、心からの幸せを得られるという。
見栄えの良い色とりどりのそれらは、あの熱い砂の中では決して見ることは敵わない。だから彼女自身、それが本当に存在するなどとは知る由もなかった。
そうだ、と彼女は思い付く。この草花を摘んで、彼らにお茶を振る舞うのはどうだろう。あの砂の海とは違う、緑豊かなこの場所だからこそ出来ることだ。
小さな白い花を一輪摘み取って、彼女は想いを馳せる。果たして彼らは喜んでくれるだろうか。その光景を想像をすると、口許が緩むのを抑えきれなかった。
ありがとう、と誰もが言った。
たとえば数え切れないほどたくさんのリンゴを摘み取って来た日には、くたびれていたはずの身体が嘘のように軽くなった。たとえば病に伏せていた翌日には、何事もなかったみたいに治ってしまった。無論それだけには留まらなくて、感謝の声を並べれば他にも色々。
だからリタは嬉しくなった。ようやく自分からも与えられるものを見付けられたと思ったから。
切っ掛けになったのはとある村人の、たったひとつの切実な望み。死んだ妻に会いたい。せめて最後にちゃんと別れを言いたかったのだ、と。
詳しい事情はわからない。だけれどそう告白する彼の表情があまりに悲しそうだったから、彼女には見ていられなかった。だから二つ返事で快諾した。
必要なものは二つ揃えれば充分で、幸いにもそう難しいことではない。夢見の良くなる花の根と、懐かしいものを思い出せるという花の葉を磨り潰す。後は味を調え香りをつければ、それでおしまい。
だから彼女はそうした。いつものように温かいお茶を振る舞って、だけど今日だけは、どうか身体を暖かくせずに眠るようにと言い添えて。
その晩、そして彼女の言った通りに彼は夢を見たという。もう二度と会うことのないと思っていた最愛の人と言葉を交わすことが出来た、言えなかった別れを告げることが出来た、とも。彼は泣いていた。泣きながらも、ありがとうありがとうと繰り返していた。
リタは喜んだ。自分のしたことで、こんなにも誰かに喜んで貰えているなんて。
ならばもっと、もっと皆の役に立てるかもしれない。この村に溢れる緑と水となら、それを成すことが出来るのだ。この村に住む誰も彼もの笑顔が、目に浮かぶようだった。
それから彼女は、手当たり次第に彼らの願いを叶えていった。
深い傷を治した。長く重たい病を治した。失ったものを嘆く後悔を治した。愛する者を亡くした悔恨を治した。救いを求める人々の、嬉しいことも悲しいことも、彼女に出来ることならその全てを叶えた。
やがて、奇蹟のようだと言い始めたのは、果たして誰だったか。
最初にそれを聞いたとき、そんな大袈裟なことをと彼女は笑ってしまった。けれど、それでも彼らにとってはそうではなかったらしい。遠いどこかからこの村に流れ着き、礼拝堂に腰を降ろした彼女の姿は、彼らにはどうにもそう見えて仕方がないらしい。やはり笑ってしまいながら、それでも願いを叶え続けた。
その内に、少し不思議なことになった。
果たしていつからだっただろうか。彼女がどれだけ願いを叶えようとも、彼らが少しも嬉しそうにしてくれなくなったのは。どころかひとつ毎に表情は険しく、怪訝にさえなっていく始末。
疑念と、不信と、猜疑心と。ひとり、またひとりと、今までの彼らの笑顔が全て失われて、やがて彼女に笑顔を向けるものは誰ひとりいなくなった頃、誰かが言った。
砂の魔女。
その言葉がどんな意図を持つのか、彼女にはわからない。ただその表情を見れば、少なくとも喜ばしいことではないのだろうとわかる。
リタは思った、残念だと。それでも彼女に出来ることなんて他には知らなかったから、今一度、彼らに願いを訊くことにした。
口を揃えて彼らは答える。どうか、この場所から出ないで欲しいと。
そこは初め、行き場のない彼女に与えられた仮住まいだった。それが次第に村に馴染んでいくにつれて、少しずつ彼女の居場所に変わっていった。礼拝堂の横に備え付けられた、そんな小さな部屋。多くの人々を招き、幾度も茶を振る舞ったこの部屋から、もう出ないで欲しいのだと。
彼女はにこりと微笑み頷いて、彼らはホッと胸を撫で下ろした。
それからこの部屋の扉を開くものは、彼女を含め誰ひとりとしていなくなった。すっかり手に馴染んだティーセットも、もはや使われることはなくなったけど、それで良い。それが彼らの望みなら。
だけど、誰とも言葉を交わさない日々というのは、退屈でつまらないものだった。そんな日々の静寂に耐えかねて思い立ったのは、ついぞ眠ってしまおうということ。だって目を閉じている間は、何も気にしなくていい。砂漠の中をひとり歩いていた時と、同じようなものだから。
そうして彼女は部屋の隅に置いてあるすっかり座り慣れた小さな椅子へと、静かに腰を降ろす。背もたれに体重を預けて、両手を膝の上に置いて。どこからか漂ってくる、緑の匂いを感じながら。
そうして彼女はひとり、ゆっくりと目を瞑った。
次回更新 4/20 22:00




