優しい無限の世界の試練は
帰るんだ。
その意思だけを胸に俺と少女は線路に沿って歩き続ける。足元は枕木の上に鉄のレールが敷かれているが、枕木の下は薄ピンク色の海だ。足を踏み外せば海に落下しかねない。海は薄ピンク色をしているだけで海の底を見ることはできない。底が見えないことが落ちてしまうことの恐怖へと繋がる。だからといって天を仰げば足元を滑らせかねない。だからといって前を向けば進んでも進んでも変わらない景色に気が狂いそうになる。
振り返ると数メートル後ろから少女がついてくる。それよりさらに後ろにあった少女が長い間逃げるために暮らしていた灰色の無人の都市は見えなくなって薄ピンク色の水平線しか見えなくなっていた。
「大丈夫か?」
息を切らして苦しそうな少女に声を掛けると少女は顔を上げて笑顔で答える。
「大丈夫だよ。このくらい苦しいことは覚悟してたから」
だが、体力の消耗は予想以上だ。
「少し休憩しよう」
海の上を走る線路は端のようになっていて所々に端を支える支柱がある。そこは足元が透けていなくて安心して腰をかけて座ることができる。底まで進んでからレールの上に座って水を飲む。少女も水を一気飲みして一息つく。
俺は気持ち悪いくらい見慣れてしまったピンク色の水平線を見渡す。
「この世界は名前のとおり無限なんだな」
どこまで広がるのは無限の海だ。色は薄ピンク色だが。
「どうなんだろうね。有限の世界の海の真ん中もきっとこんな感じなんじゃないかな?」
「どこまでも続く海を人間って言うのはいろんな知恵を使って渡ってきたんだよ。星を見て進み方角を確かめて。でも、それだと天気に左右されてしまうから羅針盤を作って方角をいつでも確認できるようにした。時代は進んで海図ができて衛星から船の場所を確認できるまでになった」
「私とお兄さんも同じだね。お兄さんは夢と現実の狭間の無限の海に、私は絶望の無限の海に流されていただけだった。でも、望みを叶えてくれる優しい無限の世界が私たちにその海の進み方を教えてくれた」
現実、社会から嫌気が差して逃げた俺たちにどうすればいいのかを考えさせられる場所。それがこの世界だ。
「進もう。俺たちはもうこの世界で考える時間は終わったんだ」
そういって食料の入った荷物を背負って立ち上がると少女も同じように立ち上がる。そして、再び進む。
これは自分との戦いだ。
優しい無限の世界は最後に俺たちに試練を与えた。景色の変わらない世界をただ進む。進んでいるのかどうかも分からない。夢に向かって突き進んでいても実際は進んでいるどうかも分からない。でも、無限の世界に進み方を教わった。強い心も貰った自分の意思を貫き通すために社会の流れに反するための力を貰った。だから、俺たちは一歩一歩確実に歩き続ける。
進み続けるが無限の世界と有限の世界をつなぐ線路はどこまでも続いて先が見えない。俺がこの世界に来たときはトンネルを抜けてこの薄ピンク色の世界に出てきてからあの街まであまり長く感じなかった。もう、どれだけ歩いたかも分からない。どこかで有限の世界に繋がるトンネルが見えてもおかしくないのだが、その姿は一向に見えない。
「きゃ!」
後ろから悲鳴が聞こえて慌てて振り返ると枕木から足を踏み外して海におちそうな少女の姿があった。
「大丈夫か!」
手をとって少女を引き上げる。だが、立ち上がれそうになかった。とりあえず、近くの市中まで移動して休憩を取る。バックの中の食料を取り出して食事を取りながら休憩するが、少女はうつむいたままだった。
「・・・・・本当にこの無限の世界から出られるのかな?」
少女が不安になる気持ちは分かる。景色はまったく変わらない。進んでいるかどうかもわからない。きっと、戻るのは楽だろう。でも、それでは何も変わらない。無限の世界は優しい。だが、子供がいつまでも大人に世話をされて生きていけないようにいつまでも無限の世界の優しさにすがっていては何も変わらない。この世界から出て現実に向き合うには親から巣立つように自力でこの世界から出ることが重要なんだ。
「君の家族が向き合って現実はこんなものじゃないはずだ」
俺の言葉にうつむいていた少女が顔を上げる。
「君のお父さんやお母さんやお兄さんたちはきっと今の生活がよりよくなるように辛い現実と向き合って歯向かった」
俺が小説家になりたいがために社会の流れに逆らったように少女の家族も辛い現実から抗うために、家族が幸せになるために辛いことでもやったはずだ。それが結果的にたれてしまったり捕まってしまったりしてしまったが。
「君がこの程度で音を上げていたらダメじゃないか?君の家族はぶっ倒れるまで君の生活が豊かになるようにがんばったんだ。なら、君もそれと同じくらいの事をしないときっとこの世界からは出られない」
きっと、俺たちは試されている。一度、社会から嫌気が差して逃げ出した俺たちが再び社会に戻るとなると並大抵の覚悟と貧弱な心では無理だ。無限の世界が与えたこの厳しさには優しさがある。有限の世界の社会の厳しさで生きるだけの強さを着けるための試練だ。
少女は食料をかき込んで立ち上がる。
「行くよ。辛くても・・・・・みんな辛かったのに私だけ逃げたらダメだ」
線路の先を見る少女の目は強い目だった。
「行こう。俺はどんなことがあっても倒れない」
夢を追うために。
そして、線路を進む。
だが、いくら強い意思を持っていったとしても体力には限界というものがある。
バタン。
思わず振り返る少女が倒れていた。海には落ちなかったがすぐに駆け寄る。かすかに息はしているからきっと過労で倒れてしまったんだろう。まだ、有限の世界は見えない。何度か仮眠を取ったり休憩を取ったりしているが少女は体のほうに限界が来てしまった。俺も正直脚がデクの棒みたいに感覚がない。それでも引き返す気はない。
背負っていたバックを前側にして疲れてぐったりした少女を背負う。ふたり分の食料のバックと少女を背負って俺は線路を進む。小説家になる道は平坦ではない。茨道かもしれない、所々に落とし穴が仕掛けられているかもしれない、高低差の激しい道のりかもしれない。少女を背負うみたいに重りがあるかもしれない。でも、俺が夢あこがれたたったひとつの夢だ。小学生のときに密かに抱いた夢を誰にも言わずに秘め続けてきたんだ。こんなところで諦めてたまるか。
一歩一歩進む。
「帰るぞ!そして、叶えるぞ!現実に社会に抗って俺は叶えてやる!たったひとつの望みを叶えるのは無限の世界じゃない!俺自身だ!」
ただ無心に進み続ける。何度も倒れそうになって足を踏み外しそうになっても進み続ける。人生のように倒れそうになってもくじけそうになっても自分で定めた進むべきために引いた道は突き進むべきだ。だから―――進め―――進め、進め―――進め。
「進め!!」
だが、そこで俺の意識が途切れる。
遠くで汽笛の音が聞こえた。