太郎
ズシン、ズシンと、湿った土を踏みしめる重たい蹄の音が朝の空気に響き渡る。
草と獣の入り混じった独特の匂いを漂わせながら、放牧場へと向かう牛の列が、なだらかな道をゆっくりと進んでいた。
「おぉーい! 気を抜くな、真っ直ぐ歩かせろよ!」
先頭を歩く男の太い声が、列の後方へと飛ぶ。
「おー!」と中腹にいる男たちが威勢よく応じる中、最後尾を任された青年だけは、返事をする余裕すらなかった。
彼が手綱を握る牛が、どうにも落ち着かないのだ。祭りの影響で出発が遅れ、すでに日差しは肌をジリジリと焦がし始めている。普段は従順な牛も、リズムを崩されたことで苛立ち、首を何度も大きく振って荒い鼻息を漏らしていた。
「こら! 止まるな、大人しくしろ! もう少しで着くから」
青年は、手綱から伝わってくる強烈な引きの強さに顔をしかめ、必死に列へ引き戻そうと踏ん張る。
だが、不運は突然訪れた。
ブーンという低い羽音とともに、一匹のアブが牛の濡れた鼻先にまとわりついたのだ。
「ブモォォォォッ!!」
けたたましい叫び声とともに、牛が完全にパニックを起こした。
数百キロの巨体が猛然と頭を振り乱す。摩擦熱で青年の手のひらが焼け、手綱が弾け飛んだ。牛は列を離れ、狂ったように道の脇へと突進していく。
そこは、切り立った段差になっている。
「あっ——!」
青年の喉から悲鳴が漏れた。牛の巨体が斜面へと真っ逆さまに吸い込まれていく。
——だが、地響きは鳴らなかった。
青年が慌てて段差の縁に駆け寄り、下を覗き込むと、そこには奇妙な光景があった。
落ちて消えたはずの牛が、斜面の途中でピタリと不自然に止まっている。いや、浮いているのだ。
さらに身を乗り出して見ると、牛の巨大な腹の下に、一人の男が入り込んでいた。
小柄な体。
しかし、大地に深く沈み込んだ両足と、はち切れんばかりに隆起した腕の筋肉が、何百キロもある巨体を下からガッチリと受け止めていたのだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
青年が上から叫ぶと、腹の下から底抜けに明るい声が返ってきた。
「おう! 大丈夫じゃ。こやつは全然ケガはしちょらんぜよ」
「いや、牛じゃなくてあなたの方です!」
「わしか? わしゃ平気じゃ。まっちょれ、すぐに上に戻しちゃる」
男は涼しい顔で笑うと、「よいしょ」とでも言うような気楽さで斜面を力強く蹴り上がった。そして、牛をまるで軽い荷物のように、ふわりと道の上へ置き直してみせたのだ。
解放された牛は、先ほどの狂乱が嘘だったかのように、何事もなかった顔で列へ戻っていく。
その信じられない光景に青年が呆然としていると、騒ぎに気づいた先輩の牛飼いが血相を変えて駆け寄ってきた。
「す、すみません! お怪我は……」
言いかけて、先輩の言葉がピタリと止まる。彼の視線は、目の前に立つ小柄な男の、鋼のように引き締まった尋常ではない肉体に釘付けになっていた。
「あんた……その体つきと異常な力、もしや『大会』の参加者か?」
「うん? そうじゃ」
男は屈託なく頷いた。
しかし、我に返った青年は思わず鼻で笑ってしまった。
「冗談でしょ……? だって、そんな小さな体で」
「こら! お前、なんて失礼なことを!」
すかさず先輩が青年の頭をはたき、深く頭を下げる。
「すみません、こいつが失礼を! あの、朝稽古の邪魔をして申し訳ねぇ……」
「いや! ええんじゃ」
男は怒るどころか、太陽のようにカラリと笑った。
「お前さんが思うことは、わしが一番よう分かっとる。……じゃが、それでも見に来てくれ!」
真っ直ぐに向けられたその瞳には、自身の体格差など微塵も気にしていない、圧倒的な自信の光が宿っていた。




