線上のアリアステラ
……展開が読めない。
「レディへの非礼よっ。貴方が歌うかしら」
レンズ越しに映るのは、白いはずのマイク。
だが、登山用サングラスを通して見ると、それは漆黒のように映っていた。
少女がじとっと覗き込んでくる。
「早く歌うかしら」とでも言いたげなその瞳に、少し怯む。
おかしい。
そう思いながら、アリエルは差し出されたマイクを受け取った。
いいのか、このまま歌っても……?
それでも、アリエルは歌い始める。
こんな展開は――今までになかった。
既に、分岐が起きている。そう悟った。
(同じタイミング、同じ角度でボタンは押されたはず……)
けれど、数分経っても、誰も来なかった。
サスティアも、ダウスも。
まるで、もうここには干渉しないと決めたかのように。
*
『中々、良い声してるかしら』
アイスを頬張りながらニタニタと鑑賞しているミルナに、少年は妙な敗北感を覚える。
でも、機嫌が戻ったなら……それで良い、のだけれど。
『あははっ、声うわずってるかしらっ』
……もう少し優しくしてくれてもいいのに。
それにしても、彼女の選曲はどれも知らない歌ばかりだ。
というより、そもそもほとんど歌ったことがない。
リズムも強弱もアドリブで、手探り。
それでも、不思議とこの状況にはしっくり来ていた。
だからこそ――もどかしい。
*
……少し、疲れた。
「もう終わり?」とでも言いたげに見つめてくる少女に、ぼそっとこぼす。
『し、仕方ないだろっ。ここまで歌ったのは、初めてなんだから』
歌い終えながら、ふと、遠い記憶がよみがえる。
アリエルが物心つく少し前に、母は亡くなった。
その話を、父からよく聞かされた。
――母は歌が好きで、よく歌っていた。
子守唄から童謡まで、いろんな曲を聞かせていたという。
気づけば、僕は自然とそれを真似ていたらしい。
母が亡くなったその日も……僕は、歌っていたそうだ。
幼い頃は、それを聞いても何とも思わなかった。
けれど少し大きくなると、それが不気味に思えて――
歌うことを避けるようになった。
……それでも、時々歌うんだよな。
歌はやっぱり、好きだから。
『いつまでそうしているつもりかしら?』
ごめん、と言う間もなく、ミルナの手が伸びてきて、
顔に掛けていたサングラスを外した。
目と目が合う。
少し膨れっ面の彼女が、真正面から見つめていた。
『ちゃんと見るかしらっ』
――思えば、いつから掛けていたのだろう。
気恥ずかしさを理由に、もう随分と外していなかった。
ミルナがマイクを手に取る。
その瞬間、彼女の紅い瞳が、やけに真っ直ぐに、煌めいて見えた。
*
「愛してる〜♪」
部屋の空気に溶け込むように、少女の歌声がアリエルをそっと包み込む。
真っすぐで、透き通っていて――でもどこかクセのある、まさにミルナらしい歌。
(温かくて……切なくて……少し、儚い)
『知らないかしら? ラブソングって言うのよ』
歌い終えたミルナは、照れくさそうに小さく笑う。
最近、風恋広場で流行っているらしい。
流行り廃りの早い街らしく、前回のブームは十数年前だったとか。
(想い合う男女の関係を、繊細に……って、まさか)
その意味に気づきかけて、アリエルは思わず顔を背けた。
話している彼女の表情が、頭の奥でちらついて離れない。
『ちょっと? 聞いてるかしら?』
慌てて彼女の方を振り返る。けれど、どうしても目を合わせられない。
身体の奥に熱がこもったような、妙な感覚。
風邪……だろうか。
勇気を振り絞って、もう一度、彼女の顔を覗き込む。
なぜかミルナも視線を逸らしていて、頬をほんのり赤らめていた。
『……少し風邪ひいたかしら。寝るわよっ』
その一言とともに、部屋の明かりがすっと落ちる。
暗く、静かなベッドの隅。
その中で、アリエルは確かに感じた――
頬にじんわりと広がる熱。
それは風邪の熱とは、少し違っていた。
*
深く、静まりかえった夜。
その静寂を見計らったように、アリエルはそっと目を覚ました。
タイミング次第かもしれない。
――そもそも、悪夢を見ていなかったとしたら?
それでも少年は、この時に賭けていた。
訊けるとすれば、この瞬間しかない。
悪夢を見て、彼女が起きて、そして彼を呼ぶその時までーーただ待つ。
悪夢を見ることをどこかで期待している自分がいる。
一方で、見ないでいてくれることに、ほっとする自分もいた。
そのどちらにも、吐き気がするほどの嫌悪感を覚えながら……それでも、目を閉じずに彼は待っていた。
(来ない方が、きっといい。でも、もし来た時は……)
覚悟を決めた、そのほとんど同時だった。
「やっ……! いやっ!! やめてぇ――!!!」
少女の叫びが、夜の静寂を突き破り、空間に鋭く木霊した。