嵐の前の静けさ
「ミルナ……! ミルナ、大丈夫!!?」
必死に彼女へ手を伸ばす。
来るとわかっていても、やっぱり怖くて、身体が震えていた。
「んっ……アリエル……アリエルぅ……」
まずは落ち着かせないと。話は、それからだ。
少年は「大丈夫だよ」と、ゆっくり、優しく彼女の背をさする。
何度も、繰り返す。まるで暗示をかけるように、囁くように。
*
月の光が、薄く揺れるカーテン越しに差し込み、
少女を優しく照らし、包み込む。
ミルナの瞳には、まだ少し涙の光が滲んでいた。
……そろそろなのだろう。
でもアリエルは、その“タイミング”をどうしても掴みきれずにいた。
サングラスをかけたとき? テレビを見たとき? カラオケで歌ったとき?
――いや、もっと前からかもしれない。
(……ここから先は、不確かな未来になる)
その一歩がもたらす決断の重さに、少年の心はほんの一瞬だけ揺れた。
「……二人でいると、あったかいね」
小さく、でも確かに届いたその言葉が、
少年の中で何かを決定的に動かした。
*
『ミルナ……? どうしたんだい? 僕で良ければ、話を聞くよ?』
少年の声に、少女の瞳が淡く揺れる。
儚げな表情をほんの一瞬だけ浮かべて、すぐにいつものような笑顔に切り替わる。
『ううん、何でもない。悪夢を……見てただけ』
……嘘だ。
そんなの、手に取るようにわかる。
笑顔の強ばりも、その肩に残された赤い痕も。
何もないわけが、なかった。
『……ごめん。僕も、嘘をついてた』
お風呂で付けていた、あのサングラス。
本当は、見えていた。ミルナの震えも、傷も。
『何も見えてなかったわけじゃ、ない……』
すっと息を吸い、腹に力を込める。
逃げずに、誤魔化さずに言葉をぶつけた。
『ずっと見ていたんだよ!!! 君の心と体の傷をっ!! ……お願いだから、見てくれよ!! 僕の目を!!!』
視界がにじむ。何が滲んでいるのかは、もう分からなかった。
震える声を押し出すように、さらに続ける。
『……そして、僕に見せてくれよぉ……! 君の肩が赤い理由を……っ』
情けない。こんなにも。
でも、もう隠すことなんてできなかった。
濁った視界の果てで、少女の顔が淡く、静かに染まっていった。
*
『……そう。……見てたのね』
沈黙を破るように、少女は静かに呟いた。
泣いているのだろうか。いや、確かに、微かに震える声に滲むものがあった。
少年には、彼女の瞳が今にも涙でこぼれそうに見えた。
『最近……いいえ、ずっと昔からかもしれない。……すごく怖い夢を見るの』
『必死で逃げて……追いかけられる夢。叫ぶ声で目が覚めるの。その度に……肩が、赤くなってて』
そう言いながら、少女はそっと自分の肩を見せた。
赤い痕がまだらに広がっている。
それは、どこか蚊に刺されたようにも見えるが……何か違う。
内側から滲むような、不自然で、異様な痕。
それが、何なのか分からないことが――少年をより苦しめた。
『……他に、何か変わったことは?』
恐る恐る尋ねると、少女は頷いた。
悪夢は昔から繰り返されていて、最近は特に頻度が増しているという。
ひどい時には、夢の中に血の匂いすら感じるそうだ。
そして不思議なことに、そういう夜のあとには、どこかで誰かが亡くなったという噂を耳にする。
『これは……呪いなのよ』
少女は小さく言ったが、少年にはそうは思えなかった。
『大丈夫! 僕がいる! 何かあったら、守るから!』
思わず、勢いで叫んでしまった。
でも、内心は怖くてたまらなかった。震える指先。乾いた喉。
それでも逃げたくなかった。
彼女がそれを感じ取ったのか――静かに、そっと手を伸ばす。
サングラスを手に取り、優しく彼の顔に掛けた。
紅い瞳の奥で、かすかに微笑んでいる。
『約束よ……? 必ず……助けに来てね』
その声はまるで、願いのように。呪文のように。
確かに少年の胸に、深く、沈んでいった。
*
木漏れ日がレースのカーテンを突き抜ける。
少年は、二度目の朝を迎えた──はずだった。
だが、目に映るはずの景色は、あっけなく溶けて消えていた。
辺りを見回すその視界には、ただ空虚と静寂だけが広がっている。
居ない。
――ミルナが、居ない。
呪い?悪夢?それとも誰かに攫われた?
(なんで?なんで?なんでなんで!!?)
『うわあああああああああああああああああああ!!!!!!?』
その瞬間の事を少年はあまり覚えていない。
サングラス越しに見える瞳は一体、何処を捉えているのだろう。
静寂の中不吉な音が聞こえてくる。
嘲笑か枯れた笑いかも分からぬまま、少年は抜け出すように扉をーー開けた。




